第六話 小っちゃいオッサンと牝牛

 クラスメイトが秀雄を無視するようになって一週間。


 秀雄は、あれだけのことを言った。嫌われても当然だった。だが、クラスメイトが一斉に無視とは、多少のことにはビクつかない秀雄にも意外だった。


 秀雄は新書を読みながら考えていた。陰でクラスを操っているヤツがいる。黒白鳥学園高校は全寮制だ。その気になれば、昔ながらの仕方、つまりそれぞれの部屋を訪問すれば連絡をとるのは簡単だ。にしても、命令の伝達と徹底が早すぎる。


 柚香は、この一週間、秀雄が無視されていることにまったく気付かなかった。それもそのはず、教師たちのいる前では誰も無視したりなどしない。プリントの受け渡しや授業でのやりとりはふだんどおりだ。それにもともと、秀雄はクラスメイトたちと積極的に話す方ではなかった。


 ただ、あれ以来、秀雄には、話しかけたい衝動に駆られる女子生徒がいた。本当にそんなことをすれば「事案」になってしまうだろうが。あの、秀雄がクラス全体に啖呵を切ったあの日。教室の後ろの窓際の席から秀雄を睨みつけていた、せいぜい小学校高学年にしか見えないその女子は、境川沙代里さかいがわ さよりという名前だった。


 一年八組の女子は、そのほとんどが秀雄よりも背が高い。一方、沙代里は、めずらしく秀雄より背が低い女子だ。しかも、かなり。つまるところクラスで一番低い。そのため、いわゆる背の順で並んではいなかった入学式の時は、他の女子の「森林」に文字通り完全に紛れてしまっていた。もちろん、そもそも秀雄がクラスの女子にまったく関心がなかったから、というのもある。だが、秀雄がクラスを恫喝したときに目が合ってからというもの、秀雄は沙代里を何かと注意して見るようになっていた。


 秀雄が沙代里を観察していると、取り巻きだろうか、沙世理はいつも他の女子生徒数人に囲まれている。背の低い沙代里は、数人の女子に取り囲まれるように座られると、ほとんど、いや、まったく見えなくなる。なるほど、これではクラスで目立たないわけだ。


 秀雄がさらに観察を続けていると、ほかにもわかってくることがあった。人気者のようでいて、しかし、周囲の女子とそれほど話がはずんでいるようにも見えないのだ。秀雄は少し不思議に思った。違和感の正体はわからない。


 もちろん、秀雄が沙代里に話しかける理由などない。秀雄は見ているだけで満足していた。経産婦と牛くらいしかいない学校なら、これからの高校生活、あまりにもツラすぎる。窓際に座っているとは、まさに深窓の美少女。目の保養には十分だ。






 それからさらに数日過ぎた、ある日の昼休み。秀雄は柚香に生徒指導室に呼び出された。


 あれから「イタズラ」はエスカレートしてないか、とか。心配されているのか事情聴取されているのか、秀雄には判別つかなかった。


 そろそろ日の強さが気になる季節。冷房も入れない個室で二人きり。秀雄は辟易した。母乳くさいにもほどがある。


 さらに、秀雄は、寮生活が寂しくないかとか、プライベートをひとしきり詮索された。そのどれもに当たり障りなく内容のないことを答えた。


 秀雄がまったく動じてない様子なので気を緩めたのか、みんなをボコボコにするなんて言い過ぎよね、と柚香は諌めた。秀雄は、別にみんなを無条件でボコボコにするとは言っていないとは思いながらも、確かに感情的になっていました、などと言って、その場を終わらせた。


 柚香は、生徒指導室を出るとき、先生もできることはするから、と秀雄に声をかけた。柚香からかけられた言葉に、秀雄は素直に、ありがとうございます、と返した。ふん、一応、生徒のことを気にかけているのか、それともそのフリなのか。いずれにしても、先生にできることと言えば、筋肉体操でもして、下品な乳の代わりに胸筋をつけることくらいだがな。


 秀雄はむろん、教師に助けを求めるつもりはない。比留田が読書の邪魔をしてこないのは思っていたよりも快適だった。読書クラブとやらに入部して寺泊の引き立て役になってほしいという話も、おかげでどこかに行ってしまった。


 よはすべてこともなし、だ。






 その日の放課後。


「日野原くん、あの」


 秀雄が本屋で新書を物色していると、後ろから話しかける声があった。くるみだった。


 全寮制の黒白鳥学園高校では、学校生活と私生活の境界はあいまいだ。


 秀雄がよく行く本屋は、高等部の校舎からはかなり離れたところにある大学書籍部だ。大学構内にあるが、一般にも開放されている。


 むろん、高校の近くにも一般向けの書店はある。そちらのほうが規模は大きい。マンガやラノベの取り揃えでは大学書籍部の比ではない。だから、高等部から遠いだけでなく規模も小さく、専門書や実用書、学生・社会人向けの新書が多い大学書籍部で、高等部の生徒に会うことはないはずだった。


「水沢さん、どうしたの? こんなところで」


 秀雄は手に取っていたアメリカ近代史をテーマにした新書を平積みの棚に戻した。


「もしかしたら、ここなら会えるかなって」


 くるみの推理力に秀雄は驚愕した。確かに、ぼくが教室で読んでいる新書は、大学書籍部で買ったものだ。この牝牛、侮れない。


「へえ。で、何か用?」


 思わず秀雄は素、つまりクラスメイトに対してまったく関心がないということを隠さずに答えてしまった。くるみは泣きそうな顔になった。だが、牝牛に似つかわしくない洞察力は牝牛にあたたかい言葉をかけてやるほどの理由にはならない。


「うぅ、謝りたくて。ごめんなさい。命令されたの。みんなで無視しろって」

「別にいいよ」


 くるみは、いよいよ泣き出しそうな顔をした。突き放したように聞こえたようだ。

やれやれ。


「確かに、ぼくは感情的だったかもしれないし、みんなが不愉快になるのはわかる。無視されても仕方ないよ。だから、水沢さんが謝ることない。こっちこそ、つらい思いさせてごめん」 


 秀雄はゆっくりと説いた。クラスメイト全員恫喝したし、怖がられても仕方ない。だが、水沢がわざわざ大学書籍部まで来た理由はなんだ? 誰かに言われたのか? 新たな嫌がらせなら、なかなか手が込んでいる。見届け役がいるはずだ。


「こんなところでもさ、誰かが見てるかもよ。大丈夫なの? ぼくと一緒のとこ見られて。寺泊くんあたりその辺にいそうじゃん?」


「寺泊くんは関係ないよ!」


 それは予想外の強い口調だった。


「幼馴染だし、塾も一緒だったけど……それだけ」


 あーあ。寺泊よ。牛飼いの仕事をさぼり続けた結果がこれだよ。


「わたし、日野原くんと、もっとお話ししたいの……フランスの小説のお話、楽しかった」


 くるみは目を伏せてはいたが、はっきりと言った。寺泊の陰に隠れてしか話せないようなヤツにしては、相当に頑張っている。ウソではなさそうだ。だが、ここでの立ち話に潜む危険は、クラスメイトに見られるってことだけじゃない。


「なるほどね。じゃあ、寺泊くんは関係ないとして。それでも、こんなとこで話してるの見られたら、きみが困るだろうから、場所を変えよっか。学生食堂にでも行こう。ほら、僕の外見なら学生で十分に通用するからさ」


 さっきから、店員が訝しげに見ていた。泣きそうな顔の女子と制服姿の小っちゃいオッサン。通報されかねない。


 秀雄はくるみを外に連れ出すと、くたびれたカバンからしわくちゃになったカジュアルなジャージのジャケットを取り出した。


「さすがに制服じゃ目立つからね」


 秀雄は、上着だけでも変えれば生徒とは判別しにくい自分の特性を理解し、いつもジャケットの用意をしていた。


「わたしは……?」


 もちろん、くるみにそんな用意があろうはずもない。


 脱ぐとでもいうのか、と秀雄は突っ込みそうになったが抑えた。


「きみはそのままでいいよ。ほら、進学相談に来た高校生と学生ってかんじだろ?」


 学生を通り越して教員に間違えられそうだ。教師と生徒の逢引きというのは背徳的なところがとてもソソる。だが、現実に目の前にいるのは秀雄にとっては牛だった。なんでぼくにかまうんだよ。高校生にもなって彼氏もいないのかよ。門限が実質機能しないここの全寮制ならやりたい放題だろ。


 だが、くるみは、つかずはなれず、しわくちゃのジャケットを着た小っちゃいオッサンの秀雄についてくるのだった。

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