第三話 見た目の問題
……危ないところだった。
柚香の落としたペーパーを拾った後、秀雄は思った。
もし、経産婦が自分で紙を拾おうとしていたなら、自分の視界内にあの醜く膨らんだ胸の谷間が飛び込んでしまったはずだ。見たくないものを見ない権利はぼくだってある。
あらためて配布されたペーパーを読む秀雄の頭の後ろを、金髪の男子が睨みつけていた。
「入学する前にちっとは痩せようって思わなかったのかよ、このデブ」
ドカッ。朝礼が始まる前の、ちょっとしたあいさつのように、秀雄の椅子は蹴られた。
「えーと、比留田くん、だっけ? 椅子は蹴らないでね。本が読みにくいから。あと、ぼくはデブじゃない」
秀雄は後ろの席の金髪、
「気味がわりーんだよ、このクソデブ」
比留田はツバでも吐き掛けんばかりの勢いだ。
教室の席が決まってから数日が経っていた。その間、だいたい同じようなやりとりが繰り返されていた。秀雄がデブじゃないと否定するのも毎度のことだ。
だが、秀雄の見た目は丸かった。どう見ても丸かった。それに対し、比留田はモデルのような長身だ。そのやりとりを聞かされているクラスメイトの多くは、なぜ秀雄がデブだと認めないのか不思議がっていた。
秀雄には、そんな比留田の狼藉もどこ吹く風だ。朝礼が始まるまでは新書を読みという日課を崩さない。そんな秀雄の態度が、比留田の横暴に拍車をかけていた。
比留田が、もう一度、秀雄の椅子を蹴ろうとしたとき、教室の扉が開き、柚香が入ってきた。
「はーい。みなさん、おはようございまーす」
柚香が明るい調子なのはいつものことだ。どうしても揺れる胸に、男子のほとんどが目を吸い寄せられてしまう。女子は、そんな男子に呆れるのに疲れていた。
昼休み。黒白鳥学園高校専用の食堂は、ちょっとしたホテルのレストランくらいに広い。セルフサービスで、生徒であればとくに別料金を求められることはない。
生徒に用意された席は四種類だ。食堂の一番奥から手前までで、ランクがある。
一番奥まったところにあるのが、いわゆる「奥の間」。椅子も机も最上級だ。その次から「特等」、「一等」。扉で隔てられたりはしていないものの、パーテーションで境界が示され、調度品のレベルもそれに応じて変わる。「一等」には「特等」と比べればたいした調度品はない。それでも、他の席との距離は十分に離れており、ゆったりとくつろぐことができる。「二等」は、スペースそのものは一番広いものの、長机に長椅子と、一人あたりの空間はさほどでもない。それでも、普通の高校に比べれば豪華だ。
食堂の座席にランクが生じたのは、学校の方針、などではない。単純に、調度品の寄付があったからだ。初期の卒業生たちが、面白がって食堂に無意味なぜいたくを施した。それが、今では四つのランクに定着している。
座席は純然たる勢力関係で決まる。学内の力関係に優れる者が好きな座席を事実上キープできる。例えば、生徒会長を含め生徒会のメンバーは「奥の間」だ。この学校では伝統的に、生徒会の力が強い。「一等」はそれ以外の有力者たち。例えば、「子爵」といったようなお金持ちの子弟たちが集まる。
秀雄は一人で新書を読みながら昼食をとっていた。「二等」だ。
すると、秀雄に話しかけてくる生徒が二人いた。同じクラスの水沢くるみと
「何か用? えーと?」
秀雄が新書から顔を上げた。一応の礼儀だ。
「寺泊と水沢だよ」
こっちが寺泊、と男子が自分を指さし、で、こっちが水沢、と女子を指さした。その口調に、なんだか軽薄そうな感じを秀雄は受けた。その女子、くるみは、その横で軽く頷いただけだ。
「あのさ、自己紹介のときにさ、フランスの小説とか読むって言ってたけど、どんなの読むの?」
と、寺泊。
自己紹介は、最初に教室に集まったときに柚香の「みんなー。ある程度は自分をさらけださないと仲よくなれないぞー」との発声の下、行われていた。
「まあ、そう言った気もするね」
秀雄は読んでいた新書から目を上げた。その新書は、フランス文学とは何の関係もない。アメリカの歴史に関するものだった。だが、確かにそんなことを思いつきで言った気はしていた。趣味は読書と、自己紹介を終えてしまうのはあんまりだな、と思ったからだ。
「ど、どんなの読むんですか」
くるみが少したどたどしく言った。
「……まあ、『星の王子様』かな。定番だよね」
そう言うと、秀雄は微笑んだ。もちろん作り笑いだ。
このくるみとかいう女、チビでハゲというバリアーにもかかわらずぼくに話しかけてくるとは、なかなかイイヤツじゃないか。そのスイカのように膨らんだお下劣な胸部さえなければ。
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