第113話 立場
「――夏休みが昨日で終わって、今日からまた学校が始まるわけだが――」
綺麗でシワのないパンツスーツに身を通み、教壇にたって話し始める柳先生をよそに、生徒たちはまだ近くの人たちとぺちゃくちゃぺちゃくちゃと話している。
前を向くことはおろか、身体ごと左右後ろなど、色々な方向に向けている。
なんならそれに乗じて携帯を横持ちで真剣な顔をしながらいじっている奴まで。お前、絶対音ゲーかサッカーゲームやってるだろっていうくらい。もはや無法地帯。
誰かっ! 誰か事態の収束を!
しかし、ここでいう「誰か」というのは、この教室にいる誰でもなく、ただ一人に特定されてしまうのがこの学校という場の宿命でもある。
そのまま無視し続けていてはならないのは、悲しいかな、そういう役目ということなのだろうか。柳先生は不意に話す口を閉ざす。
だが、もともと柳先生の話なんぞスーパーに流れているBGM以下だと思っているぞと言わんばかりの奴らは、そんなことにすら気付いていない。
もちろん、俺は一秒たりとも柳先生から視線を逸らしていない。なんならガン見しているとまで言えそうだ。
だから、俺は柳先生の眉間に一本、また一本と筋が浮き上がってくるのをしっかり視界に捉えていた。
なりふり構わずに怒鳴り散らす人もそれなりに怖いけど、「怒」という感情を身体の内に秘めて、雰囲気ないしオーラでそれを発する人の方が俺は怖いと感じる。
何が言いたいかって? それはつまり――今の柳先生がめちゃめちゃ怖いってことだよ!
それから数秒して、その異様なオーラに気づいたのだろうか。喋り続けていた生徒が減り始める。そして全員が黙って前を向いたところで、柳先生は時計をチラッと見ると、青筋と笑顔という相反する感情を一度に顔に出しながら、こう切り出した。
「――みなさんが静かになるまで一分十二秒かかりました。これがどういうことか……わかりますね?」
高校生活で初めて柳先生の敬語を聞いた気がする。
しかも、今のって中学校とかの避難訓練で教頭先生とかがお説教のネタによく使っていた奴じゃないですか。
それに珍しい敬語が組み合わされば、今の柳先生の激おこ具合が見えてくる。
「――お前ら、夏休みの話を友達としたいというのはわかる。私だって話に混ざりたいなと思わなくもないからな。…….でもな。人が話しているときにそれをやってはいけない。話している人に対して失礼だからだ。もちろん、休み時間は思う存分に盛り上がって欲しい。私が言いたいのはそれだけだ」
さすがにやばいと思ったのか、席に座る四十人は静かに頷く。
「次は――ないぞ」
柳先生は諭すように最後にそう付け加えると、大きく咳払いをして空気を整える。
「――えぇ、それでは。話がだいぶ逸れてしまったが、今日の連絡事項を手短に伝えるから聞き漏らすなよ」
柳先生は気付くといつもの口調に戻っていた。出席簿に挟んだメモを取り出して読み上げる。
「えーっと……放課後に文化祭実行委員会の第一回目の会議があるそうだ。文化祭実行委員は忘れずに出席するように。以上」
黙りこくっていた生徒たちは「文化祭」というワードを耳にすると、そわそわと小さな声で「楽しみ」だとか「楽しそう」だとか「楽しみたい」だとかいった声が聞こえてくる―― うん、とにかくめちゃくちゃ楽しみなんだね、はい。
それもそのはず。文化祭は体育祭と並んで高校生活の大きなイベントのうちの一つだからな。
体育祭がスポーツの祭典だとしたら、文化祭は芸術の祭典といったところだろうか。
開催期間はたった一日ではあるが、一ヶ月前から実行委員を中心に運営が行われていく。
学校全体を華やかに飾って各クラスの出し物で盛り上げる。そして、その1日を、いつものように何気なく過ぎ去っていく一日をカラフルに彩る。そうして何倍にも濃縮した時間を各人の思い出に深く刻み込んでいく。
だが、体育祭同様、俺はあまりそういったものに積極的になれなかった。
かといってサボってしまうと、それはそれで、「ちょっと高岡く〜ん、ちゃんと準備して〜」と学級委員とか実行委員とかに言われて逆に目立ってしまうから、控えめに裏方に徹していたのが通例だった 。
もちろん今年もそのつもりではあるが……。
俺は席の前後で楽しそうに話をしている結衣に視線を軽く向ける。
俺がこれまで避けてきたところに、いつも結衣が手を差し伸べてきてくれた。だから、今回、この文化祭でも、何が今までの自分とは違うことを経験することになるの だろうか……。
体育祭、海水浴、夏祭りといった経験からして、俺自身は、決して良いことがきっかけで変わったとは正直言えない。
体育祭は竹下先輩の暴露。海水浴は大学生の結衣に対する執拗な絡み。夏祭りは花火直前ではぐれてしまったこと……。
だから、そうしたことに対する漠然とした不安と、何かが変わるかもしれないというちょっとした期待とが、ハーフアンドハーフに湧き上がってくる。
このとき、俺はあくまでも「参加者」としての立場から、これからやってくる文化祭について考えていた。だって、それ以外の可能性なんてこれっぽっちも頭に入れていなかったから。
だから、それがすぐに根底から崩れ去っていってしまうことなんて、今の俺には想像もつかなかった――。
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