夏祭り

第104話 避暑

 ――海水浴から数週間。

 八月のカレンダーは黒いマジックペンで書かれたバツ印で埋め尽くされ、ひと月も終盤に差し掛かろうとしていた。それはつまり高校二回目の夏休みの終わりをも意味しているのであって――。


 「あぁ~何か面白いことないかな……」


 俺は冷房の効いたリビングに、一人寝そべりながらそうつぶやく。

 夏休みなら、結衣と色々なところに出かけて、おいしいものを食べて、絶景を二人眺めながら――なんて想像が大きく大きく膨らんでいた。


 しかし、現実が想像通りに行くなんて、それもまた珍しい話なのであって。

 結衣の所属するテニス部では、夏休み前に代替わりをしていたのだが、新しい部長がどうもやる気がすごいらしく、練習に次ぐ練習で休みがあまりないらしい。


 だから、結衣の顔を最後に見たのは、海水浴の日だった。

 一緒に遊びに行きたい、結衣の顔を見たいという気持ちが日に日に大きくなるが、よその部活に口を出してどうこうなるわけでもないし、きっと俺なんかがも異議申し立てしたところで、門前払いを喰らうのは目に見えている。いや、そもそも家から出ないのだから、門前払いもくそもないか。


 というわけで、結衣と遊びに行きたい気持ちと、部活を応援したい気持ちとを抱えながら、だらだらしている俺だった。


 「――り――おり――伊織、ちょっと伊織⁉」


 「――っ……か、母さん?」


 母さんの呼ぶ声で、視界が明るくなる。

 目を空けようとしたが、リビングに斜めから差し込んでくるオレンジ色の光に、思わず目を細める。

 時計の針とこのオレンジ色の光――どうやら俺はソファで寝落ちをしていたみたいだった。

 だって冷房の効いた部屋が快適すぎるんですもん。これは人間をダメにしてしますよ。


 「あんた、こんな涼しい部屋でお腹丸出しで何もかけずに毎日ダラダラ寝てたら、いつか風邪ひいちゃうよまったく……」


 「あはは……ごめんなさい」


 「少しは外にでも行ってきたら?」


 「それは無理だ」


 俺は母さんの提案を間髪入れずに断る。


 「どうして……?」


 「だって……暑いから」


 「暑いって……そりゃ夏なんだから暑いのは当たり前でしょ?」


 「そ、そうだけど……」


 「いつまでもこんなところにいると、学校始まったらまた体調崩すよ?」


 「うっ……」


 母さんは何も冗談で言っているのではなく、本気でそう思っている。なぜなら、陸上を辞めてから、長期休み明けはほとんど必ずと言っていいほど体調を崩して学校を休んでしまっていたからだ。


 普段、俺の両親は子供に対して自由主義をとっているだけに、たまにこうして気にかけてくれると、ちょっと心を動かされやすくなってしまう。


 「――あ、そうだ」


 母さんは買い物袋に手を突っ込み、ごそごそと何かを探り始めたかと思うと、その中から一枚の紙を取り出した。それは表面がテカテカとしていて、何かのチラシのように見えた。 


 「日中の暑さが嫌でどうしても外に出たくないって言うなら、こういうのはどうかしら?」


 「ん? どれどれ……?」


 母さんからその紙を受け取ってみると、【地域最大級! 夏祭り開催のお知らせ】という見出しが一番に目に飛び込んできた。


 「母さん、これって……」


 「そう。毎年やってるここらじゃ一番賑わうお祭りよ!」


 「なるほど……夏祭り、か……」


 日中は連日のように猛暑日猛暑日猛暑日……。だから玄関のドアを開くことさえ億劫になってしまう。あのもわっとした熱気が皮膚に絡みつく瞬間と来たら……。


 でも、夏祭りは、開催時間は夕方から夜にかけてだから、そこまで暑さに悩まされることもたぶんないだろう。


 「そしたら――」


 母さんは口に手を当てながらほほ笑みを浮かべたかと思うと、


 「結衣ちゃんと行きなよっ‼」


 その年齢にふさわしくないきゃぴきゃぴとした甲高い声で叫ぶようにそう言った。


 「ぶふぁっ!」


 俺は驚きか、動揺か、寝転んでいるソファから転げ落ちてしまった。


 「ちょっと伊織~何やってんのよ」


 「何もこうもねぇって。母さんがびっくりさせるからだろ?」


 「そんな~母さんは伊織のびっくりする顔を見たいがためにわざわざ遠回りしてお知らせの紙をもらってきたなんて、そんなことはしてないんだから~」


 「か、母さん……?」


 嘘だ。これは全部本当のことだ。母さん白状しましたね? 俺のことを驚かせたいって言いましたね?


 「ほらほら~」


 「わ、わかったからその口調やめてっ!」


 母さんはスイッチが入ると粘着質を帯びた口調に様変わりしてしまう。ほら、俺に彼女がいることを知ったときみたいに。

 そのときのだるさとか恐怖とかが諸々頭に残っているから、これ以上母さんをそのままにしておくと、自分の身が危険だということを本能が知らせてくれる。

 俺はある意味ゾンビから逃げるように一目散に自室に駆けこみ、ドアを強く閉めた。


 それからしばらくして、階下から声が聞こえてくる。どうやら父さんが帰ってきて、それを母さんが迎えているようだ。

 俺は自室のドアを少し開けて耳を澄ませる。


 「ねぇ、あたな。今度夏祭りがあるのは知ってるわよね」


 「あぁ、もうそんな時期だったか」


 「そうなのよ。それでね、伊織が彼女さんと行きたいって言ってて」


 はっ……⁉ た、たしかに「結衣と夏祭り行きたいか?」と聞かれたら光をも超える速さで「もちろん」と答えるだろう。

 だが、言い出しっぺは母さん。今の会話だけ聞くと、あたかも俺が母さんに「彼女とお祭りに行きた~い」なんて言っているようなもんじゃないか。


 高校生にもなって親に自分の恋愛事情をペラペラと話しているとか、恥ずかしすぎるだろ。

 それにそんな奴はなかなかの希少種なのでは……?


 「なるほど……伊織が……」


 父さんは考え込むようなうなりを上げつつ、母さんと一緒にリビングに入っていき、二人の話し声が俺の耳から途切れた。


 「……よし」


 俺は携帯を開くと、結衣に着信を掛け始めた――。

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