第103話 名前

 近藤さんとの間に生じ始めた微妙な距離感や停滞感やらをひしひしと感じつつ、それについてどうしようと思い悩んでいても、時間だけは規則正しく進んでいるようで……。気がつくと遊泳時間の終了を告げるアナウンスが砂浜一体に流れた。


 それに気づいて顔を上げると、さっきまで主役だった、身体を焦がしてしまうのかと思うくらいの日差しは舞台から姿を消し、その代わりに幻想的な夕日がちょうど目線の先くらいにぼんやりと佇んでいた。


 「いや~遊んだね……。楽しかった楽しかった」


 そう言いながら、佳奈さんは髪をかき上げると、そのままパラソルへと引き返し始める。


 「ほら~みんなもさっさと引き上げようよ」


 佳奈さんの声に、俺たち三人は一斉に動き始める。


 「――はい、みんな揃ったね」


 それから数十分後。海の家の前にて。


 「今日一日楽しく遊ぶことができてよかったよ~」


 「う、うん。楽しかったね……」


 「あっ、結衣は……まあ色々あったけど……。伊織くんのナイスカバーで一大事にならずに収集させることができました」


 「あはは、そ、そうだね……」


 俺と近藤さんの乾いた返事を聞いた佳奈さんはなぜか「チっ」と小さく舌打ちしたのを、俺は聞き逃さなかった。

 え、俺たち何かしましたかね……?


 「と、とにかく、今日一日お疲れさまでした。それではまっすぐお家に帰る――とでも思った?」


 「「えっ⁉」」


 佳奈さんの急な切り返しに、足がバス停の方向に向いていた俺と達也はピタッと引き留められる。


 「――花火をします。砂浜で」


 「花火……?」


 「そうそう。なんでもさっき使った海の家の人が余ってる花火を分けてくれてさ。あ、でも時間は日が暮れるまでだってさ。おじさんも帰らなきゃいけないみたいで」


 「マジか、花火‼」


 テンションが急上昇してくる達也を佳奈さんがびしっと呼び止める。


 「はじゃぐのはいいけど……達也、ちょっとこっち来て」


 頭に疑問符を浮かべながらも、佳奈さんとなにやらコソコソと耳打ちをしている。


 「――ふんふん。ほぉ~。なるほど。おっけおっけ」


 達也と佳奈さんは話し終えるとニヤッとした表情をする。うわぁ、めちゃめちゃ気になるぅ!


 「――じゃあ伊織、花火しようぜ」


 「そ、そうだな……」


 達也が俺の背中を押す力はいつにも増して強く、どこかうれしそうにも感じた。


 ――さすが日本でも有数の絶景を誇るビーチなだけある。

 人気も減り、落ち着きを見せ始める波打ち際。夕日のオレンジ色に染め上げられ、砂浜との境界線がくっきりと見えてくる。

 夕日が沈み始める水平線。夕日から水面に一直線に伸びてくるラインは、まるで俺たちをこちらに誘おうとしているようだった。


 「ね、ねぇ近藤さん……」


 達也と佳奈さんが花火道具を取りに行っている間、二人きりになったところで、俺は満を持して近藤さんに声をかける。


 「ど、どうしたの……?」


 近藤さんも、さすがに無視とまではいかないようで、ぎこちない口調で言葉を返してくる。


 「お、俺……近藤さんに何か変なことしちゃってたかな……?」


 「えっ……?」


 「ほ、ほら。お昼ご飯の後くらいから、近藤さんの様子がいつもと違うなって思って……。俺そういうのまだ鈍感かもしれなくて。もし何かやらかしちゃったのであれば、遠慮なくいってほしいな……って思って」


 こんなの、言い換えれば「なんで俺だに冷たくしてるの?」と捉えられかねないけっこうリスキーな発言だったのかもしれない。でも、俺はなんで近藤さんの態度がお昼を境に代わってしまったのかがどうしても気になって仕方かなかった。


 「そ、それは――」


 近藤さんが俺の方を向く。その顔は夕日が当たっているからなのか、和らげに赤く染まっていた。


 「――呼んでくれないから」


 「な、何を……?」

 

 最初の方がよく聞き取れず、もう一度聞いてみる。


 「名前……」


 「名前って……俺ずっと近藤さんって――」


 「そうじゃなくてっ!」


 「っ……!」


 近藤さんの勢いに押されて、言葉に詰まる。


 「だ、だから……ゆ、結衣って。下の名前で呼んでほしいの」


 「ふぇっ⁉」


 「そ、そんなに驚かないでよ……。だって、さっきわたしを助けてくれたときは迷いなくそう言ってた……」


 「うっ……」


 たしかに、あのときは必死で自分の頭で考えるより先に口が動いていたから、咄嗟にああ言ってしまったけど……。

 自分から言うのと、相手から求められて言うのでは抵抗感というか、羞恥心のレベルが比にならない。


 「下の名前で呼ぶのいや、なの……?」


 近藤さんは俺に顔を近づけてきて、耳元で甘美な声音でそうつぶやく。

 近藤さんの吐息が脳内を駆け巡り、心臓の収縮を一気に加速させる。

 夕方になって涼しげな気温になってきたにもかかわらず、俺の身体はロックバンドのライブを終えたときみたいにガンガンとビートを刻み、燃えるように熱くなっている。


 「わ、わかった!」


 近藤さんのうっとりとした声に耐え切れなくなった俺は、ちょっと距離を取って大きく深呼吸をする。だが、そんな簡単に心拍は収まってくれず、依然としてバクバクと胸を貫いていきそうなほどの脈を感じながら向き直る。


 「じゃ、じゃあ…………ゆ、結衣」


 「うん……。な、なんか面と向かって真剣な表情で言われるとわたしもドキドキしてきちゃうね……」


 「お、俺の方がドキドキしてるからっ!」


 「そ、そうなの? じゃ、じゃあ……そ、その……わたしも……呼んでもいい、かな?」


 「えっ⁉」


 「いや……?」


 「そ、そんなことない! ウェルカムベリーマッチだよ」


 「え~何それ……ふふふ」


 口に手を当てながら小さく笑うが、すぐに落ち着き、すっと俺に視線を向ける。


 「さっきは助けてくれてありがとう……い、伊織」


 「お、おう……」


 やばいやばいやばい……。

 彼女に初めて下の名前で呼んでもらった。このふわふわとした感覚は一体何だろう……。


 もしかしたら近――じゃなくて結衣も同じ気持ちなのかもしれない。

 いつかはお互いに下の名前で呼び合いたいとは思っていたけど、なかなかそのタイミングを掴むことができず、きっとどこかもやもやした気持ちを抱えていた。


 達也と佳奈さんがここにいないのは偶然だったけど、それを今逃すことなく伝えることができて本当に良かった。


 それからはお互いに黙って海を見つめている。会話はなくても今は想いが繋がっている気がしていて、むしろ沈黙の方が心地良かったりする。


 結衣が俺の肩に頭をちょこんと乗せてくる。

 俺は結衣の肩に手をまわして自分のそばに抱き寄せると、沈みゆく夕日の向こうはるか水平線の先を二人でゆっくりと眺めた――。

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