第78話 挙動
勢いよく歩き始めた俺と近藤さん。
最初の十分くらいは快調だった。前に出す脚も軽く、そのおかげで会話も弾んで結構楽しい時間だった。
うん、そこまではよかったんだけど……。
十分以上登っても未だに目的地が見えて来ない。徐々に歩く速度が落ちてきて、楽しい会話も途切れ途切れになってきた。
そしてここ数分、耳に入ってくるのはお互いの息切れの音くらいだった。
「……た、高岡くん……」
「ど、どうしたの近藤さん……」
「こ、この坂ってどこまで続いてるんだろうね……」
「ど、どうだったかな……」
俺が達也と行ったときは自転車で十五分くらいだったっけ。
ってことは、歩くともっとかかるのか……?
今はもう七月も上旬で、そろそろセミの声が耳をかすめてくるような季節になろうとしていた。
もちろん気温も日に日に高くなっていき、最近では最高気温が三十℃を超える日も珍しくない。
つまり、そんな気温の中で何十分も歩いていたら体力の消耗を感ずにはいられない。いわんや近藤さんをや。
「ちょ、ちょっと休憩してもいいかな……」
ちょうどそこに大きな木が日陰を作っていて、近藤さんがそこを指を指しながら俺にそう尋ねる。
「あ、うん……。俺もきつくなってきちゃったよ」
俺と近藤さんは一直線にそこへ向かう。
「「はぁ~……」」
俺と近藤さんは思わずそう息を吐いていた。
「めちゃくちゃ涼しいね、近藤さん」
「そうだねぇ……。もう出られないかも」
「それじゃあ喫茶店行けないよ?」
「あはは、たしかにそうだね……」
「たぶんあと少しで着くと思うから、もう少し歩こっか」
「うん!」
それからすぐにまた陽炎が見えるアスファルトに足を踏み入れた。
――それから十分後。
「――こ、近藤さん!」
俺は視界に入ってきた建物を指さす。
「もしかして、あれが高岡くんが言ってた?」
「そうだよ!」
「やったぁ!」
体力が限界に達しそうになっていたが、ここに来て近藤さんの瞳に光が戻ったようだった。
近藤さんは走って俺を追い抜き、そのまま建物めがけて一直線に駆けて行った。
俺も負けじと最後の力を振り絞って走る。
そして二人同時にドアの前に着く。何気に最後のこのダッシュが一番きつかったような……。
いや、でも……。ゴールが見えていたから、それに近藤さんと走ったのでプラスマイナスゼロ。むしろプラスかもしれない。
「――じゃ、じゃあ入るよ……」
「う、うん」
――チリンチリン。
「こ、こんにちは……」「失礼しま~す」
「いらっしゃい……っと、伊織くんじゃないか。久しぶりだね」
夏にぴったりな風鈴の涼しげな音とともに俺と近藤さんを出迎えてくれたのは、この喫茶店のマスターの晃さんだった。
「晃さん、こんにちは」
相変わらずの落ち着いた声は、店内の雰囲気と本当によくマッチしている。
「はい、こんにちは。……それと今日は彼女さんも一緒みたいだね」
「こ、こんにちはっ……」
晃さんが近藤さんに視線を向けると、近藤さんは直立不動になって言葉までもが片言になってしまった。
「まぁまぁ、そんなに固くならなくてもいいんだよ。えぇと……お名前は?」
「え、えっと……結衣。近藤結衣です」
「結衣くんだね……」
「は、はい。よろしくお願いします」
「はい。こちらこそよろしくね」
最初は俺がそうだったように近藤さんも緊張でいっぱいだった。
でも、晃さんの誰でも包み込んでしまうような、そんな柔らかい笑みを見たら緊張なんて吹き飛んでしまう。
近藤さんの少し強張っていた表情もだいぶ緩んできて、いつもの笑顔が戻り始めていた。
「そういえば、今日はどうしてここに寄ったのかい? 正直言ってここまで歩いてくるのはかなり疲れるんじゃないかと思うんだけど……」
「そ、そうですね……。たしかに疲れはしましたけど……今日は二人で落ち着いたところで勉強がしたくて」
「そうなんだね。伊織くんと結衣くんも勉強でここに……」
「俺たち『も』ですか……?」
「……あ、いや。何でもないよ。そ、それはそうと……席は窓際の方でいいかな?」
「え、あ、はい。ありがとうございます……」「はい、だいじょうぶです」
一瞬晃さんが言葉に詰まって、どこかに視線を送っていたような気がするが……。まぁ、きっと何かの気のせいだろう。
俺と近藤さんは晃さんの誘導で窓際の席まで歩くと、上質なレザーのソファに腰掛ける。
「――わぁ……すごぉい! 高岡くん、見て見て‼」
近藤さんは窓から見える大海原にテンション爆上がりだった。
「あ、晃さん! ここからの景色最高ですね‼」
「そうかい? そうお客さんから言われると、頑張ってここに建てた甲斐があるよ」
晃さんはうれしそうに顔をキラキラさせて、「うんうん」と息を弾ませている。
「じゃあ、二人ともコーヒーでいいかな?」
「はい!」「お願いします!」
晃さんはお冷をテーブルに置くと、軽快な足取りで作業場に戻り、ゴリゴリと豆を挽き始めた。
晃さんが豆を挽き始めてから、店内には深みのある匂いがふんわりと広がり始めた。
やっぱりコーヒーってインスタントのものと豆から挽くのとでは、香りとかコクなんかも段違いなんだよね。
それからしばらくして、晃さんが湯気の立つカップを二つ運んできて上品にテーブルに並べる。
「じゃあ、勉強頑張って」
そう一言添えると、晃さんは元の場所へと戻って行った。
俺はそおっと息で冷ましながら、店内の照明に照らされて黒光りした液体を少し口に含ませる。
「あぁ~、おいしぃ……」
「そうだね……。思ったよりも苦みが少なくて、わたしでも飲めそうだよ」
「近藤さんは普段はシュガー派?」
「うん。苦いのはちょっと苦手で……。でも、これならブラックでもおいしく飲める!」
近藤さんは「これでわたしも大人♪」みたいにニコっとしている。うん、かわいい、とっても。
「そっか。だったら晃さんも喜んでくれるね」
「うん!」
一息ついて、店内を見回す。まだ二回目だけど、やはりここはどこか現実よりも時間がゆったりと進んでいるように感じてしまう。
もしこれが駅前とかに連なっている他のコーヒーチェーン店とかだったら、もっとガヤガヤしているのかもしれない。そういう意味では晃さんの喫茶店を選んで正解だったと思う。
だから、たとえ見覚えのある人の顔なんかが視界に入ったとしても、全く気にすることなく集中して勉強もできるんだろうな。
しばらくして誰かの立ち上がる音がしたが、そのとき既に俺と近藤さんは勉強を始めていたからそんな些細なことには気を向けないでいた。
――その足音がこちらに向かってきているなんて知らずに。
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