第74話 少しの勇気
――歩き始めてから数分。
途中、近藤さんは何度か口を開きかけていたが、あと一歩踏み出すことに躊躇しているのか。なかなかに険しい表情を浮かべていた。
「――えっと、それで……。近藤さん、俺に話したいことって?」
「……っ⁉ えっと、その……昨日のこと、なんだけどね……」
「うん……」
「わたし、高岡くんが帰った後に熱も下がって体調もよくなったの……」
体調がいいという割に、近藤さんの顔はまだだいぶ赤い気がするのは気のせいだろうか……。
「そ、それでね……」
「う、うん……」
「思い出しちゃったの……」
「思い出した? 何を――ってまさか……」
もしかして、近藤さん……?
「高岡くんに……だ、抱きついたりとか、あ、あーんしてもらったりとか……」
「……っ⁉」
マジか⁉ あのとき近藤さんは熱でうなされていたから、てっきり覚えていないと思ってたのに……。
それを聞いて、それを許容していた俺も恥ずかしさを感じ始める。
「え、えっと……その、なんか……俺もそれを止められなかったのは……ごめん」
「……え?」
近藤さんは少し驚いたような声を出す。
「ほ、ほら……。やっぱり……そういうのって嫌、だったかな……って」
「い、いや! そうじゃなくて! お、俺は……うれしかったかな……」
……ってちがーう‼
お、おい! 何を言っているんだ高岡伊織‼!
言いたいことと伝えたいニュアンスが絶妙に噛み合ってないじゃないか。
「そ、そっか……。でも、わたし熱があってぼんやりしてたから、抱きついたりとかしたのは覚えてるんだけど、自分がどんな感じだったとかはあんまり……」
「そ、そうなんだ……」
汗ばんでパジャマが……とか。ちょっと肌けて……なんていうのは口が裂けても言えない。言ったら即死レベル。
頬に冷ややかな水滴が流れるのを感じて、慌ててそれをハンカチで拭う。
「高岡くん、どうしたの?」
「い、いや? ナンデモナイヨ?」
「そう? なんか汗ばんでるみたいだけど……」
「ゼ、ゼンゼンヘイキ、ボクゲンキ……ハハッ‼」
「そ、そう……。ならよかった」
ごめんね、ほんとにごめんね……。でもこれは何があっても言えないから。
会話が一段落すると、近藤さんに集中させていた俺の意識が少し周りに向けられる。
さすがこの時間ということもあってか、部活帰りの生徒が俺と近藤さんの周りに大勢いることに今更ながら気づいた。
やっべ……。当事者でさえ恥ずかしいと思うような話をしているのに、それを周りに聞かれてでもしまったら………。
慌てて周りの表情を伺うが、幸いにも耳を立てているような輩はいなかった。
一安心していると、右の袖が引っ張られる。
なんだ? と思って振り向くと、近藤さんが俯きながら左手を伸ばしていた。
「あ、あのね……高岡くん」
「……うん」
その上目遣いと袖掴みのダブルパンチは、疲弊しつつある俺の精神を容赦なく貫いていった。
「わたしもね……別に……嫌じゃ……ない、よ」
「こ、近藤さん……?」
少し歩く速度が緩まるのと対照的に、袖を掴む力が強まる。袖口から近藤さんの体温がほんのりと伝わってくるような感じがした。
「たぶんわたしもそういう気持ちが――」
そこまで言ったところで、自分が今何を口走ったのかを自覚したのだろう。
掴んでいた袖からぱっと手を離すと、俺から少し距離を取って、顔を両手で覆ってしまった。
「わ、わ、わ、わたし……な、なにを言ってるんだろう……」
耳まで真っ赤にして挙動不審に陥っている。それも人目を気にしている余裕のないくらいに。
「こ、近藤さん落ち着いて!」
「あっ……ご、ごめんね。わたしったら……うぅ……」
近藤さんは涙目になって俯いてしまう。
「ぜ、全然そんなことないって! むしろそういうことを聞けて――って俺も何言ってんだろ……はははっ」
俺の自爆に近いような発言に近藤さんも思わずこちらを見る。
「なんだか今日はわたしも高岡くんもとっても空回りしちゃってるね……ふふふっ」
お互いひとしきり笑っていると、視線の先に駅のロータリーが見えてきた。
「もう着いちゃうのか……」
俺はおもわずそう呟いていた。
近藤さんとこんなにも笑ったのが久しぶりで、本当に楽しくて。それだけ時間があっという間に過ぎてしまったように感じる。
また明日になれば会えるんだろうけど、この時間、この一瞬は今だけの大切なものだから。名残惜しい気持ちもどこからか湧き出して俺の身体を満たしていく。
「そうだね……」
近藤さんも駅の方を見ているけど、もっと瞳はその先、もっと先を見ているような、そんな様子だった。
それからまたしばらく歩き、改札の近くまで来た。
同じ制服を着た学生が後ろから大量に迫ってきているから、この場で立ち止まって長話、というわけにはいかなかった。
「今日は部活あったのに一緒に帰ってくれてありがとう。楽しかった!」
「うん、俺も」
「じゃあ、また明日……ばいばい」
「――また一緒に帰ろうよ」
いつもなら「ばいばい」の四文字で終わらせてしまう。だけど、近藤さんが背中を向けたとき、俺はそう告げていた。
帰宅ラッシュで人が溢れていて、一人一人の話し声でかき消されそうだったが、近藤さんはこちらを振り返ると、とびっきりの笑顔で頷いた。
「ふぅ……」
俺も少しは勇気が出てきたのかもしれない。
いつもなら黙って見送っていたところを、こうやって一言声をかけることができたのだから。
近藤さんの姿が改札の奥に行って見えなくなるのを確認すると、俺は家路へについた。
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