第72話 密着

 「………え?」


 俺は耳を疑った。だって俺の想像の斜め上すぎる言葉だったから。

 しかも、それが近藤さんの口から出たものだということも、それを疑う要因の一つではあるのだが。


 「だぁかぁらぁ〜。ぎゅぅーってしてぇ~」


 もう一度聞いたが、やはり信じられない。あの近藤さんが……?


 「こ、近藤さん。一回落ち着いて……」


 「えぇ、なんでぇ?」


 「な、なんでって……」


 そんなのに決まってる。俺の理性が崩壊してしまうから。もう一度言う。俺の理性が(以下略)。


 近藤さんは熱でうなされているのか――ってかそうだろうけど、言動年齢がだいぶ幼稚園児になっている。

 でも、虚な瞳でこちらを見ながら両手を広げている近藤さんは、紛れもなく高校生の近藤さんなのであって……。


 どうすれば……どうすればいい……?

 ここには俺と近藤さんの二人しかいなくて、近藤さんは熱で正常な判断ができなくなっている。


 俺がもしここで何かしてもバレないかも――いやいや。そんなのはダメだろ。いくら状況が状況でも、それに乗じて――なんて卑怯である他に言いようがない。

 俺は理性を蝕む虫を必死に振り払い、近藤さんに目を向ける。


 「ぎゅーはちょっとあれだから……これで勘弁して……」


 「――っ!」


 俺はゆっくりと手を伸ばすと、それを近藤さんの頭に着地させる。


 「えへへぇ……きもちぃよ、高岡くん」


 ぎゅーをしてもらえなくて不機嫌になってしまったかと思いきや、近藤さんは破顔してとろけるような笑みを浮かべている。


 頭を撫でるなんて昔美咲が小さい頃以来だったから、ぎこちない感じになってしまったけど、それでも近藤さんは嬉しそうだった。


 ――っていうか、髪の毛ふんわりしてて柔らかいなおい!

 自分の髪の毛は毎日触れてるから、近藤さんの髪の毛の柔らかさが際立って感じる。手でさするたびにほんのりと甘い香りがふわっと香ってきて……やばい。


 女の子ってすごいな、なんて自分でもよくわからないことを考えていると、俺の右腕に近藤さんが抱きついてきた。


 「えへへぇ……高岡くんの腕太くてかっこいいなぁ……」


 「……ちょっ⁉」


 突然の近藤さんの奇行(?)に動揺が隠せない。心臓の鼓動がどんどんと早まっていき、全身が熱くなる。

 ただ、気分は自らの動揺とは対照的に、高揚していくばかりだった。


 これが……ハグのチカラ。

 どこかで聞いたことがある。一回のハグによる精神の回復力は、布団で寝るのと同じらしい。

 実際にそんなことはないのだが、何かが身体の内から漲ってくる感じがする。


 「近藤さん、そろそろ――って!」


 さすがに抱きつく時間が長くなってきて、俺の腕も疲れてきたから声をかけてみたんだけど、俺は目の前の光景に思わず息を呑んだ。


 近藤さんは熱できっと汗をたくさんかいているのだろう。パジャマがしっとりと身体に張り付いていて、妙に身体のラインがはっきりと見える。


 それに、やっぱり身体が熱いのだろう。パジャマのボタンが上から二つまでが空いている。さらに、近藤さんは俺に前屈みになって抱きついているから、その……し、下着とか、鎖骨あたりからの二つの膨らみまで見えてしまっていた。


 しかも、結構密着態勢で、顔と顔が近く、近藤さんは俺のすぐ耳元で呼吸しているから、めちゃくちゃくすぐったい。それに呼吸音が妙に色っぽい。

 再び俺の理性が蝕まれていく。さっきよりもずっと早い速度で。


 もう理性のダムが決壊を迎えようとする寸前に近藤さんが俺から離れてくれたから、なんとかその場に踏みとどまることができた。


 もしあのままだったら――。

 冷静になって考えてみると、自分がいかに危険な一線を越えようとしていたかがよくわかる。高ぶった一時の感情に流されなくて本当に良かった。


 ――さてと。


 「こ、近藤さん、お腹とか空いてない?」


 「うぅーん、ちょっと空いてる」


 「じゃあ、何か作ってきてもいいかな?」


 「ほんとぉ? やったぁ、高岡くんのお料理だぁ! えへへぇ……」


 近藤さんは両手を頬に添えながら、「ふんふん♪」と鼻歌を口ずさんでいる。

 よほど俺の料理が期待されているってことか。これは気合が入るな。


 「えっと、それじゃあキッチン借りるね」


 「はぁ〜い」


 俺はゆっくりと立ち上がり、キッチンへと足を向けた。

 

 「――よし」


 俺は今、彼女の家のキッチンに立っている。彼女の家の冷蔵庫を開けて食材を取り出して、彼女のために料理を作る。


 何これ。俺ってもしかして婿入りしちゃうの?

 もしかして、今流行りの「主夫」ってやつ?


 自然と笑みが溢れてきてしまうが、もしこんな顔を近藤さんに見られてしまったら、一瞬で嫌われてしまいかねない。

 すぐに笑みを引っ込めて、俺は料理に取り掛かった。


 「――近藤さん、できたよ」


 「わぁ、いい匂いぃ」


 近藤さんはベッドから起き上がって目をキラキラさせている。

 作ったものは大したことのない平凡なものであってもそんな目をしてくれるなら、それは料理人(?)名利に尽きるというものかもしれない。

 

 俺は持ってきた料理を、部屋の中央にある丸テーブルに置いて近藤さんの様子を見つめる。

 近藤さんはちょこんとそこに座ると、俺に向かって手招きをする。


 「――?」


 どうしたんだろう。俺は疑問に思いつつも近藤さんの側に座る。


 「高岡くぅん……あーんして」


 「あ、あーん!?」


 俺は思わず後退りしてしまった。今日の近藤さんはやばい。何がやばいって、俺の理性をピンポイントで貫いてくる。


 そ、そりゃ……付き合ってる男女がお互いに「あーん」するなんて、お祭りとかで散々見せつけられてきた。だからなんとなくではあるが、そういうことをするということは頭ではわかっていた。


 ただ、今この状況。

 目を閉じてほんのりと赤い頬をこちらに向けて、小さく口を開けている近藤さんは……破壊力が大きすぎる。


 「ねぇ、はやくぅ……あーん」


 近藤さんは俺の内心の葛藤をもろともせず、ひたすらに「あーん」をねだってくる。

 くそっ! かわいいっっっ!


 俺はここにいるかわいらしい小動物を抱きしめたい衝動をグッと堪え、震える手でスプーンを握った。


 「は、はい。あ、あーん」


 「あーん」


 近藤さんは俺の差し出したスプーンをパクっと口で覆う。


 「高岡くぅん、おいひーよ」


 もぐもぐしながらうんうんと頷いている。こらこら、美味しいって言ってくれるのはうれしいけど、食べ物を食べているときには喋っちゃいけないよ。レッツもぐもぐタイムだよ。


 それから、近藤さんは病人とは思えないくらいの食欲があって、ぺろりと平らげてしまった。


 「美味しかったよぉ……」


 そう言ってベッドにもたれかかると、そのまますうっと眠りについてしまった。


 「よし、もうそろそろかな」


 これ以上長居してもかえって迷惑になると思い、俺は近藤さんに毛布をかけると、食器をシンクに持っていき、そのまま近藤さんの家を後にした。


 今日の近藤さんはちょっと色々あれでかなり疲れてしまったけど、それでも、お見舞いに来れて良かったな。


 明日にはまた元気な近藤さんの姿を見たいな……。

 俺は駅に向かう道中、そう思いながら傾き始めた夕日を見上げた。

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