第57話 それぞれの想い
陸上を辞めてすぐ、最初にした「もう陸上でこんな思いをしたくない」という決意。これは紛れもなく自分の意思でしたものだった。
人間の黒い部分をあの短い期間で感じてしまったから、思っていたよりもずっと濃縮して自分に降りかかってきたのだろう。それが自分の中で粘着質のように知らず知らずのうちに溜まっていったのかもしれない。
それから途中、体育祭によって道を大きく踏み外しそうになったときもあった。
しかし、それでも今回この決断に至ったのは、その決意が自分の意思決定の根底に残り続けたからこそ導かれた結果であると言っても決しておかしくはないだろう。
「た、高岡先輩……」
ずっと俯いて黙っていた村井が少し顔を上げてこちらを見る。
「私は……。もし高岡先輩ともう一度陸上ができたらどんなに楽しかって、いつも想像していました。だから……こうして先輩と話すことができて、自分の考えていることを、文字ではありましたけど……きちんと伝えることが……できました」
段々とその声に震えが混じり始める。
「その上で。最後は先輩の意思次第なので、私は……先輩がどんな決断をしても、それを……それを尊重しようって……決めて……今日、ここに来たんですけどね……」
村井の額に一筋の水滴が伝っていくのが見えた。
ゆっくりと、ゆっくりと、その水滴は村井の頬を流れていく。
そして、それが部室の床に滴り落ちる。
それがリミットだったのだろう。床に落ちた水滴を見た村井の瞳から、溢れんばかりの涙が流れてきた。
「ぞれでぼ……やっばりダメでじだぁ……。やっばり私は……先輩と一緒に陸上じだがっだでずぅ……」
嗚咽を漏らしながら、それでもため込んでいた気持ちを涙と一緒に外に出していく。
そんな村井を俺は初めて見て少し驚きはしたが、それが村井の本心からの言葉であることに、俺はうれしさを覚えた。
嘘偽りで塗り固められた善意なんかよりも、自分の本心をこうやってさらけ出せる方が、言う方も、言われる方もずっと気分がいいのではないかと思う。
「え、えっと……村井ちゃん、大丈夫……?」
本郷は一体なんで急に村井が泣き出してしまったのかよくわかっていないようで、あたふたとしていた。
俺の過去を知っていないと、村井がなんでここまで顔をくしゃくしゃにしてまで嗚咽を上げているのか。その理由を理解することは到底できないだろう。
しかし、正直言って本郷には悪いが、この場面でそれを本郷には言うつもりは毛頭ない。
これ以上俺の過去に関する話題が広まってしまうと、また変なことに巻き込まれかねないからな。
それに、中途半端にに事情を知られて、中途半端に心配されて変な気遣いを相手からされるのもどこか気持ち悪い。
「……村井。少し深呼吸して落ち着けって」
「は、はい……」
慌てる本郷の横で、村井はさっきよりかはだいぶ落ち着きを取り戻してきたようだ。
「あ、あの……急に泣いちゃってすいませんでした……」
「別に気にするな。ため込むよりもそうやっている方がずっとお前らしいぞ。……それよりも、目元真っ赤っかだぞ……ほら、これ使って早く拭いとけよ」
「……っ!」
村井は俺が差し出したハンカチをひったくるように取って目元に当てる。
「……もう、こういうところなんですよ、高岡先輩は。まったく……」
「……ん? 何が?」
「べ、別にっ! 何でもないですよっ!」
「む、村井……⁉」
村井はそう言って勢いよく立ち上がると、俺と本郷の間を足早に通り抜けていった。
俺、村井のこと怒らせちゃったのかな……?
なんかすごく顔を真っ赤にしていたような気もするし……。
村井が去った後の部室にはちょっと気まずい雰囲気が漂っていた。
ただただその場にい続けるのも辛くなってきた頃合いで、俺と本郷は黙ったまま、決してどちらかが言い出したわけでもないが、二人そろって帰り支度を始めていた。
「――あ、あの、高岡くん」
部室を出ると、本郷が部室の鍵を閉めながら、ボソッとした声で、しかし何か決意めいたような声で俺に話しかけてきた。
「な、何ですか?」
「今回はダメだったけど、まだ僕は諦めてないからさ。もし高岡くんの気が変わったりしたら、またいつでも来てほしいと思ってる」
「そ、そうですか……」
「うん。それじゃあ」
そう言ってそのまま本郷は下校する生徒たちの流れの中に紛れていった。
――その夜。
[近藤さん、部活のことなんだけど]
俺は今日のことを近藤さんにラインをしていた。
[やっぱり断ることにしたよ]
[そっか]
[うん]
ほとんどが短文のやりとりだったが、それでも伝えたいことはきちんと伝えることができたし、近藤さんにもそれが伝わってくれていると思う。
それから、しばらく俺と近藤さんは他愛もない会話をしながら時間が過ぎていった。
―――――。
[じゃあ、また明日。学校で会おうね!]
[うん。また明日だね。おやすみ、近藤さん]
[おやすみ、高岡くん]
それ共に送られてきた眠たげな目をした猫のスタンプは、今日一日の疲れを癒してくれるような、そんな感じがしてぼんやりとしてくる。
俺は携帯を手に持ったままベッドに入って横になると、そのまま夢の中に落ちていった。
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