第55話 電話越し

 「――っとまあ、現状こんな感じ」


 俺は近藤さんに相談に乗ってもらうため、放課後にあったことを、そしてさっきの村井からのメッセージについて一通り説明し終えた。


 「――なるほど……。その村井ちゃんって子が高岡くんの中学のときの部活の後輩だから、高岡くんのあのことも知ってるってことなのね……」


 「うん、そういうこと」


 「でも、村井ちゃんが他の部員さんに言いふらさなかったのはすっごく偉いと思うんだよね」


 「うん、俺もそこは本当に感謝してるよ」


 これはお世辞抜きにそう思っている。

 万が一そのことを事前に知っていたら、なりふり構わず引き抜きに来るのは自明の理。そうならなかったのは、村井のおかげだと思ってる。

 だから、改めて村井には助けてもらった、そういう気持ちを強く感じる。


 「でも……」


 近藤さんの声に曇りが混じり始める。


 「それでも村井ちゃんは高岡くんに入部してほしいって……」


 「う、うん……」


 「でも、高岡くん。陸上には……」


 「そ、そうだね……。もともと断るつもりではいたんだ」


 本郷にもらった猶予期間というのは、即決で断ることをせず、むしろ礼儀としてのそれであるという側面が俺の中では大きかった。

 本来は即決して断るくらいの気持ちが俺の中には確実にあったから。


 しかし。そこに村井の登場という予想だにしない事態によって、状況は大きく変わることになった。


 俺の過去を知っていても、それが俺にどんな影響があるか未知数な中でも。最後は俺自身が決めろと、村井自身がそう言っていた。

 それでも、俺に入部してほしいというのが村井の本音であることを、あのメッセージが何よりもよく表している。

 これは、生半可な気持ちでは決して言えることではないと思う。


 あれだけのことがあって、部活を辞めるまでに追い込まれた俺に。

 陸上という競技から距離を取った俺に。

 そして走ることにさえトラウマを感じるまでになった俺に。


 あそこまで自分の本心を言える村井の本気の気持ちに、俺の決意は大きく揺らいだ。


 「そ、そっか……」


 近藤さんの声音が弱くなる。数秒の間があった後、


 「――わたしね」


 そう前置きをしてから、ゆっくりと話し始める。


 「――実は、わたしも……。もっと走っている高岡くんを見たいなって……思ってるの」


 「えっ……」


 近藤さんの言葉が一瞬信じられなかった。だって、俺の過去を話したときに、近藤さんは陸上に対して肯定的だったとは思えなかったから。

 本心として抱えていたけど、それを相手には言えないこともある。でも、それを今、俺に話してくれたのは……。


 「それにね。言葉にするのはちょっと恥ずかしいんだけど……。わたしね……走っている高岡くんを見て……その……一目惚れしちゃったって……。この前話したよね」


 「う、うん……」


 たしかにそういわれた記憶はあるが、改めてこう言われるとちょっとムズかゆい気分になるし、それにちょっと照れ臭くもなる。


 「だから、陸上部に入れば、高岡くんがもっともっと輝く場面がたくさん出てくると思うんだ。大会で優勝して、表彰されて……。そこで見せる高岡くんの笑顔をもっと見たいと思ってるの。でもね――」


 電話越しではあるが、近藤さんが今何かを必死で堪えているような、そんな息遣いが伝わってきた。


 「…………でも」


 ついに、その我慢が限界を迎えたのか、近藤さんは嗚咽を漏らし、呼吸する音が小刻みに震え始める。

 しかし、それでも彼女の言葉は止まることなく続いていく。


 「わ、わたしは……高岡くんがもっともっと輝いていてほしいって思っている以上に……これ以上高岡くん自身が傷ついて欲しくないって……そう思ってるの……」


 「こ、近藤さん……」


 近藤さんの中で相反する気持ちが。

 そのとめどない、行き場のない気持ちが。

 電話越しに痛いほど伝わってくる。


 その言葉の一つ一つが、それらすべてが優しく身体の内側にすっと浸透していくようで、俺もどこからか、熱くこみ上げてくるものを感じた。


 「高岡くんにこれからも陸上をやってほしいって思っているのは、きっとわたしも村井ちゃんも同じ。だからこうして思いを高岡くんに伝えていると思う。でも、でもね……。一番大事にしなきゃいけないのは、高岡くん……高岡くん自身がどう思っているかだと思うの」


 「俺が、どう思っているか……?」


 「うん……」


 たしかに、俺は陸上からは完全に距離を置くと決めておきながら、体育祭では結局リレーをすることになった。

 あれだって、断ろうと思えば断れたはずなのに。


 竹下先輩焚きつけられたからとか。周りの人に煽られたからとか。そうやっていつも自分の決断には他人を動機にしていたのではないか?


 自分の決断が失敗したら、それは他人のせいだから、と自己保身を掛けていたに過ぎない。そんなのただの傲慢で自己中で利己的などうしようもない奴じゃないか。

 今振り返ってみると、それらはほとんど間違いのない事実だ。


 「わたしたちの意見っていうのは、あくまでも他人の言葉。高岡くん自身が抱えている問題の方がずっとずっと深刻で、また前みたいに具合悪くなっちゃうのであれば、入らない方がいいと思う。でも、最後にどうするのか、どうしたいのかっていうのは、最後はやっぱり高岡くんが決めるべきだよ……」


 そう、まったくその通りだ。

 近藤さんも、そして村井も。最後に決めるのは俺であるべきだと言っている。


 電話越しからも伝わってくるその意思のこもった言葉に、俺は――。

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