第47話 大人の包容力

 「それまではサラリーマンをしていたんだけどね、ちょっとお金が貯まったから、思い切って脱サラして喫茶店を開いてみたんだ。……こうしてお店をするのが子どもの頃からの夢でね……」


 「『子どもの頃からの夢』ですか……」

 

 夢のある大人なんて、今どき珍しいのではないだろうか。

 俺らはまだ高校生だから、社会の厳しさなんてものはこれっぽっちも知らないけど、会社に勤めて会社に生きる、そんなマイナスなイメージしか持っていない。

 年功序列に終身雇用。これが日本の働き方だと思っていたから、こうして幼き夢を実現させることは並大抵の努力じゃできない、ということは俺でもなんとなくわかる。

 

 「――っとまあ、私の過去なんてどうしようもなくつまらないから、話すだけ無駄だと思うな……あははっ」


 俺が真剣に考えていると、晃さんは破顔して少し軽い口調で俺に話しかけてくる。

 ――いや、違う。晃さんはそんな風に言っているけど、俺はそれが心の底から本心で言っているのではないのだと、直感的にそう感じる。


 目の前に立っている晃さんのように夢を抱くことこそ、人間が本来有している本能と呼べるものではないだろうか?

 こんなせわしない時代に真っ向から立ち向かって自分の幼き夢を実現させた人の話を無駄なんて、俺は思わない。


 今の話を聞いた後だと、晃さんの顔刻まれた深い堀は、そうした苦難の連続を乗り切った勲章のように映らなくもない。

 だから、俺から見た晃さんはとってもカッコよく見えた。


 「――すごいです」


 俺は無意識のうちにそうつぶやいていた。

 晃さんや達也は俺のことを不思議そうに見ているが、それでも構わず、言葉が出てくる。


 「俺……夢なんて抱いたことないんです。成り行きで、行き当たりばったりで、そのときその瞬間に自分が見えていることだけをやろうって。見えないものを自分から見ようと手を伸ばすことなんて全くしてこなくて……」


 いつまでも、現状維持を望んでいた。それが自分の賞にあっていることなんだって、そう思い込んでいた。

 でも、晃さんの話を聞いた今だからこそわかる。そんな自分が情けない。そして、どうしようもなくちっぽけな存在に見えた。


 「――俺は……晃さんみたいな人にずっと憧れていたのかもしれません」


 「……………………」


 晃さんは一瞬たりとも俺から目を逸らさずにしっかりと聞いてくれている。その沈黙が、俺に先の言葉を促してくれる。


 「だから、だから…………」


 コーヒーカップに波紋が広がる。自分の手が震えている。緊張か、それとも興奮か――そんなのは分からない。

 視線を晃さんに戻す。そして口を開く。


 「――これからも晃さんのお話を……俺にも聞かせてくれませんか?」


 俺と晃さんは数秒見つめあう。

 次第に店内のBGMが聞こえてくる。今はこの高鳴った鼓動を押さえるのにちょうどいい。

 

 ――何秒このままだっただろうか。


 「――ふふっ」


 晃さんの表情がみるみるうちに柔らかくなっていった。


 「……あ、晃さん⁉」


 俺は今の言葉のどこに笑う要素があったのかまったく見当がつかなかったから、動揺を隠せなかった。

 晃さんは笑いを何とかこらえながら、


 「……いやぁ、ごめんね。いきなり笑い出してしまうなんてんねぇ」


 そう言うと、呼吸を整え始める。


 「でも……君は――」


 晃さんはさっきとは違う笑みを浮かべる。瞳の奥から何かを見ているような、そんな感じに見えた。


 「――実に面白いと思う」


 「……⁉」


 な、何を言っているの、晃さん? 俺が面白い……? 


 「あ、晃さん……。それは、一体どういう……」


 「だって、君くらいだよ。私の話を聞きたいだなんて言ってくれたのは」


 「そ、そうですか……」


 「そうさ。お客さんでお話が大好きな人はたくさんいてね。自分の話は延々とするんだけど、それ以外にはまったく耳を貸さないような人も多いんだよ。私なんかの話でよければ、伊織くんの聞きたいことなら可能な範囲で話そうじゃないか」


 「ほんとですか⁉」


 「あぁ。それに……少ししか見ていないから、間違っているかもしれないが――伊織くん、君は色々と一人で抱えようとするタイプではないかな?」


 「っ……⁉」


 す、鋭い……。初対面の人に自分のことを言い当てられるなんて……。


 「その反応だと、おそらくそういうことなんだろうね……」


 俺は返す言葉すら見つからない。それでも晃さんは言葉を続ける。


 「だから……伊織くんも、楽しかったこと、嬉しかったこと、悲しかったこと……。何でもいい。私に話しれくれてもいいんんだよ。大事なことは誰かに話してみることなんだ」


 「は、はい……」


 「ほら、伊織くん。窓の外を見てごらん」


 そう笑う晃さんだが、ふと窓の方を指す。


 「……っ!」


 窓の外には、広大な海原が広がっていた。


 「ここから見える海のように、広くゆったりと生きることが大切なんだ。だから、何かに詰まったら、いつでもここに来るといい。必ず私が迎えてあげるから」


 海なんて小さい頃から見飽きてしまったと、あまり興味を示さなくなってからは、こんな風にまじまじと見つめることなんてなかった。


 ――広く、ゆったりと。

 なんだか、晃さんの包容力に満ちた言葉を聞くだけでも心がふんわりと軽くなってくる気がする。

 

 「あ、晃さん……。ありがとうございます。ほんとにありがとうございます!」


 こんな機会はめったにない。だから、晃さんには感謝しかない。それにここに連れてきてくれた達也にも。


 感謝の気持ちを伝えるのに傾倒していた俺は、この温かい雰囲気の中、真正面でニヤニヤしていた達也に気づくことができなかった。

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