第17話 復調の兆し
時はダンスの練習開始から数日後まで遡る。
「……」
ダンス練習が終わって学校から帰宅した後、俺は神妙な面持ちで自室のクローゼットの奥にしまってあるひとつの箱を取り出した。
その箱はかなり埃をかぶっていて、そこに放置されたまま経過した時間の長さをしみじみと感じさせる。
俺は埃を払い、恐る恐る箱を開ける――すると、そこには一組のシューズあった。
それは、俺がまだ陸上部に所属していたときに使っていたランニングシューズ。
重量が軽いだけでなく、地面を蹴るときの反発性もとてもよく、今まで使ってきたシューズの中でも特にお気に入りの一足だった。
部活の練習はもちろん、試合のアップでもこれを愛用してきた。このシューズがあったからあの記録が出せたといっても過言でないくらい優秀なシューズだった。
しかし、部活を辞めて以来、あれほど愛着を持っていたシューズすらも見たくなくなってしまった。だから、こうしてクローゼットの奥に突っ込み、視界に入らないようにしてきた。
「まさか、もう一度これを開ける日が来るとはな……………」
もう見ることも履くこともなく、いつかポイっと捨てるもんだと思っていただけに、少し複雑な思いが脳内を巡る。
俺はベッドに寝っ転がり、そのシューズを頭上に掲げながら、ぼーっと考える。
あの日、俺は竹下先輩に焚きつけられて、周りの人たちから煽られて、結局最後はその場の雰囲気に押されてリレーの参加を承諾してしまった。
たしかに、いくら心が強い人でも、あの雰囲気に勝って自分の考えを貫き通せることは難しいと思う。相手に弱みを握られている俺であれば、なおさらだ。
「本当に走れるのかな……俺……」
まだ過去のトラウマを克服できたとは思っていない。
いきなり走れと言われても、万が一拒絶反応が出てしまったらどうしよう。
それでみんなに迷惑をかけて、あのときみたいに除け者にされたらどうしよう。
時間が経つにつれて、やっぱり断るべきだった――そんな後悔の念が少しずつ大きくなっていく。
でも、考えれば考えるほど、底なし沼に足を取られていくような感じがしてならない。
「まあ、とりあえず走ってみるか……」
俺はベッドから起き上がり、ジャージに着替えると、そのシューズを手に持ち、玄関に向かった。
玄関でそのシューズを履いていると、後ろから声をかけられる。
「あら、伊織。どうしたの……?」
「ああ、母さんか……いや、ちょっと……走ってくる」
「走ってくるって……ってその靴は……」
陸上から完全に足を洗ったはずの息子が、いきなりトラウマをえぐるような行為をしているのを目にした母さんは、驚きのあまり言葉が続かなくなっている。
「ちょっと、ね……」
俺は体育祭のことはまだ家族の誰にも話していない。むしろ、話すことで心配されるのが目に見えているから、あえて話していないのだが。
「……そう。あまり無理はしないでよね……」
母さんはそれだけ言って黙って俺のことを見ている。
あまり多くを言わなかったのは、母さんなりの気遣いかもしれない。だが、今はその気遣いが何よりもうれしかった。
「じゃあ……行ってきます」
俺は独り言をつぶやくようにそう言って玄関の扉を開いた。
「――行ってらっしゃい」
母さんの声は、優しい口調だったが、しかし、俺への心配が滲み出ているようだった。
俺は家から徒歩一分くらいのところにある公園にやってきた。
まだ俺が幼いころは、この場所は草が無秩序に生えていてバッタとかが至る所でピョンピョンと跳ねていて、よく捕まえたりして遊んでたっけ。
しかし、数年前にスポーツ広場として整備されたことで、今ではあの頃の面影は完全に消えてしまっていて、無機質な砂利が辺り一面を覆っている。
「さてと……」
俺は部活をやっていたときと同様のストレッチを始めたのだが――
「うっ…………」
始めてすぐに急に吐き気がしてきて、空えずきをしてしまった。
俺はその場にうずくまり、深呼吸をして落ち着かせる。通りかかりのおじいちゃんが何事かと、奇異の視線こちらに向けているが、そんなことに今は構っていられない。
「……………まじかよ」
なんとなく予想していたことだったが……。あまりにもその予想がきれいに的中してしまったことに、少し恐怖を覚える。
こんな状態で、果たして走るところまでのコンディションにすることができるのだろうか。
あまりのコンディションの悪さに、ため息すら出てこない。まさに絶句。
そのまま地べたに座り込む。何もしてないのに疲労がどっと押し寄せてきて、そのまま寝っ転がって、空を見上げる。
ここは決して都会ではないが、かといって田舎というほど田舎でもない。だから、絵にかくような星空を拝むことはできない。見上げる先は、ただただ闇が広がっている。
なんで宇宙なんてできたんだろうな……なんて壮大なスケールのことを考え出すが、それもすぐに思考放棄し、ぼーっと夜空を見上げる。
今の俺はこの夜空のように星一つない真っ暗な世界にひとり放り出されてるみたいだった。
誰の助けも求めることなんてできるはずもなく、頼れるのはここにいる自分だけ――なんて考えていても、これはただの現実逃避でしかなく、この先一か月弱はこうした日々を送ることになるのは確定事項。
冷静に現実を見たときに、何がベストなのか……。
……………………。
しばらく考える。
――少しずつ慣らしていけばいいのでは?
今日一真っ当な結論に達したところで、身体を起こす。
「まぁ、最初はこんなもんか……」
今日はこれ以上はできないと判断し、日が暮れて街灯がぼんやりと照らす公園を背に、家路につくことにした。
だから、そんな俺の姿を遠目で見ている視線には、俺は気づく由もなかった。
体育祭まで残り三週間余り。
正直言ってただ走るだけならすぐにでもできると思う。
問題は、陸上と同じような雰囲気になった場合に、俺の精神が走るということに対して耐えられるかどうかということである。
だから俺は毎日少しずつ公園に出向き、走るための心のリハビリを始めた。
シューズを履く。ストレッチをする。ジョギングをする……などなど、一つ一つの動作に対しての自らの精神の状態を確認した。
最初は今日みたいにストレッチをするだけでも吐きそうになった。
トラウマがダイレクトに俺の未回復で未熟な精神に突き刺さったのだから、仕方ない。
しかし、そういつまでもウダウダしていられるほど余裕もない。
俺は毎日ひとつでも克服できるように頑張った。
苦しくても、少し我慢して一歩踏み出す。ダメかと思ったら、そこでももう一歩。
踏み出したその一歩は、決してマイナスになることはなく、一歩一歩は小さいが、それが積み重なれば、それはやがて大きな前進となる。
走る練習と並行して行っているダンスも、シナジー効果を生んでくれていた。
ダンスが少しずつ上達していけばいくほど、走ることに関しても少しずではあるが、精神的なハードルが下がってきたようになってきたように感じる。
走ることへの精神的抵抗が低くなったことで、以前より負荷を上げてリハビリができるようになった。
走れるようになるまでおよそ一週間余り。
なんだ、思ったよりも順調にきてるじゃないか。
最初は本当に走れるようになるのかと不安で不安で仕方がなかった。しかし、振り返ってみれば、体育祭本番まで十日ほどを残して走れるようになった。
この先も今のペースで負荷を上げることができれば、現役のころまでとはいかないまでも、この体育祭で走る選手並みには仕上げることができるかもしれない。
そうすれば、不安ばかりの体育祭も無事に乗り越えられるかもしれない。
俺は、自分の成長に期待を膨らませ、その日を今か今かと待ち望んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます