第15話 ゆびきり
「中学二年生の春だから……ちょうど三年前だね。近藤さんもさっき体育館で聞いたと思うけど、俺は中学日本記録を二年生で更新したんだ。あのときは本当に調子が良くて……」
絶好調だった日々を振り返り、懐かしさと、その後に味わうことになる苦しみを知っているだけに、複雑な気持ちがする。
「だから、記録を計測するたびにタイムが伸びていったんだ。周りからも、三年生になるときにはもっとすごいことになるんじゃないかって、そう言われてたんだ。でも――」
ここからが俺がずっと隠してきた過去、いわゆるトラウマというやつだ。
俺は深呼吸をつき、呼吸を整える。
「俺はその数か月後に陸上を辞めたんだ……」
「――えっ……なんで?」
近藤さんが驚愕の表情をする。
タイムが伸び続けている選手が突如としてそれを辞めるなんて、そんなこと普通では考えられない。だから、近藤さんのその表情だって納得がいく。普通なら、の話だけど。
「それはね……あの後――春の大会の直後に病気になっちゃって……」
「そんな…………」
「入院して手術とか色々して、なんとか病気は快復したんだ。だから、すぐに部活に戻れたんだ……」
でもね、と俺は続ける。
「……タイムが恐ろしいくらいガクンと落ちちゃって……二秒も」
「そんな……」
近藤さんでさえも、この言葉の意味の重大さを理解している。
陸上の世界――それも短距離となると、百分の一秒の争いになる。
それが二秒もタイムが落ちたとなると、上位入賞どころか、本選にすら進めなくなる。
「俺は復帰した後、病気前の調子に戻すために、誰よりも早くトラックに出て、誰よりも遅くまで練習をしたんだ。いろんな人に相談して、できる限りの最善を尽くした」
そこで俺は言葉を区切り、ふうっと息をつく。
「でも……ダメだった」
「………………」
近藤さんは黙って聞いている。
タイムが思うように戻らなかった俺は、その後はいうまでもなく予選落ちが続いた。
そして、三回続けて予選落ちしたときだっただろうか。
競技場を後にしようとしたとき、陰で俺をバッシングをする会話が聞こえてきた。
「――あいつ、また予選落ちだって……」
「――将来有望なのにあんな情けないタイムしか出せないなんて」
「――あいつ、どうしちゃったんだろーな?」
「――噂だと、入院してたらしいわよ」
「――なんで戻ってきたんだよ」
「――さっさとやめてくれれば俺らにもチャンスがあるのによ」
「――あいつはもう終わったな」
あいつ、という言葉で周囲に勘繰られないようにしたのであろうが、ちょくちょく感じる視線とともにその言葉を受けようものなら、誰だってわかってしまう。
「見知らぬ人にああだこうだ言われるくらいなら、気にしなければそれで済む話なんだけどね……」
窓の外に視線を送り、どこか遠くを、そしてあの苦汁を舐めたあのときを思い出し、目を細める。
「一番精神的に堪えたのは――部活の仲間からの陰口だったんだよ」
「か、陰口…………⁉」
近藤さんは目を丸くする。
部活の仲間は、家族の次に長い時間一緒にいるといっても過言ではない。
俺は部活の仲間とはそれなりに仲良くやってこれていると思っていた。
しかし、あるとき、後輩の女の子がお見舞いに来てくれたとき、
「先輩がいないときの部内がほんとうにひどいんです」
と、こっそり教えてくれた。
そこで俺は思いもよらない事実を知ることになる。
――あいつがあっという間に俺のタイムも抜いていって気に食わない。
――タイムが良くてもあんまり表情に出さないところが、かえって鼻につく。
――はやくいなくなれば、俺たちも注目してもらえるかもしれないのに。
俺はその言葉の数々に耳を疑った。
しかし、それはどうやら紛れもない事実で、日を追うごとにその陰口のひどさがエスカレートしているらしい。
これらは別に俺が彼らに何かをしたわけではない。
もしかすると、自分たちの結果のふがいなさの捌け口にされたのかもしれない。
当時調子が良かった俺が、たまたま病気で一時的に部を離れたことで、俺の活躍を妬む奴らが、俺を共通の標的として向けただけのようにも見える。
――そうか、そうだったのか。
きつい練習をお互い励まし合いながら乗り越えてきた仲間に。
俺が入院したときにお見舞いにも来てくれた仲間に。
そういった仲間に、俺は陰でズタボロに言われていた。
そんな、理不尽なことがこの世にはあるのか、と。
そのとき、俺の中で何かが「プツン」と切れる音がした。
これ以上この部にいても、記録はもう戻らないだろうし、それになにより、陰でしか悪口をいえないような奴らと同じ場所にいたくはない。
だから、俺はその事実を知ったすぐ後に陸上部を辞めた。
ただ、部活を辞めたといっても、同じ学校に通っている以上、クラスが同じであったり、廊下ですれ違うなど、完全にそいつらと決別することはできなかった。
それどころか、ふとしたときに向けられる視線、ひそひそと聞こえる話し声。その後に起こる笑い声。その一つ一つがすべて自分に向けられたものではないかと思い始めるようになってしまったのだ。
それからというものの、俺は人との関わりを極力抑えていくようになった。
誰かと話していても、その言葉には裏があるかもしれない、嘘を言っているのかもしれない、などと考えてしまうからだ。
もちろん、そんな奴には誰も近づこうと思う奴はいるはずもなく、一人、また一人と俺の周りから離れていき、学校では独りでひっそりと過ごす時間のほうが多くなった。
そのような一連の出来事がトラウマとして、俺の頭の中に染みついてしまった。
だから、ニュースのスポーツコーナーとかで陸上の話題が出ると、それらが一気にフラッシュバックして、過呼吸に陥ってしまうほどにまで深刻化していた。
時間の経過とともに、症状はだいぶ収まってきたが。
「――っとまあ、こんなところ……かな」
「そんなことが……あったんだね……」
そのときの近藤さんは、何かを確信したような、そんな表情をしていたように見えたような気がする。ただの気のせいだろうか。
「う、うん……。あぁ、もし俺の話で不快に思っちゃったら……その……本当にごめん……」
「そ、そんなことないよ……。わたしがどうしても聞きたいって言ったんだから……。それに……………」
そこで、近藤さんの言葉が詰まる。
どうしたんだろう、と近藤さんのほうを向くと、
「………………⁉」
近藤さんの瞳からは大粒の涙が零れ落ち、いつものその温和な顔を泣き腫らしていた。
「それに……そんなの……酷過ぎるよ……。わたし……高岡くんにそんなことがあったなんて……知らなかったから……酷いことを聞いちゃった……。わたしこそ……謝らないと……。本当に……ごめんね……」
「こ、近藤さん………………」
俺は思う。
人の辛い過去なんて、誰も進んで聞きたいとは思わない。
たとえ聞いたとしても、せいぜい「ふーん、そうだったんだ。大変だったね」くらいに、どこか他人事のように軽く受け流されてしまうのが普通のことなんだろうと思う。
しかし、彼女は――近藤さんは違った。
近藤さんは俺の話を最後まで真剣に聞いてくれた。おそらく、今まで同じことを話した人の中で、最も、誰よりも真剣に。
――そんなふうに困ってる人を放っておけないの。
いかにも、近藤さんらしい言葉だと思う。
誰に対しても優しく、明るく、笑顔で接している近藤さんという女の子には、そういう印象を抱いている。
そして近藤さんは、俺の話したことをまるで自分のことのように悲しみ、そして涙まで流してくれた。
ここまでしてくれた人はいただろうか――いや、絶対にいない。今はそう思う。
「ありがとう……………」
俺の口から本心の言葉が零れる。
「俺……近藤さんに話してよかった」
近藤さんに話したことで、自分の中だけで抑え込んでいたものを吐き出すことで、少しは楽になったような気がする。
「うん……うん……。高岡くんがそう思ってくれるなら……」
近藤さんはさっきまで嗚咽を漏らすくらい泣いていたが、今は少しずつ落ち着き始めたようで、いつもの温和な表情になっていく。
気がつくと、太陽はもう傾き始め、保健室のカーテンの隙間からオレンジ色の光が差し込んでいる。
俺は思わず目を細める。
保健室に来てからもう一時間くらいは経ったのだろう。
でもまあ、感情というのは不思議なものだ。
ついさっきまであんなに辛く、重たい気持ちを抱えていたのにもかかわらず、今ではそれがほとんど残っていない。
「――近藤さん」
「な、何……?」
これはすべて近藤さんのおかげだと思っている。
感謝してもしきれない。
だから、俺は近藤さんにこう告げる。
「俺がこんなことを言うのもあれかもしれないけど、近藤さんも何か困ったことがあったら、俺にも相談してよ」
近藤さんは一瞬ぽかんとしたが、すぐにあの笑顔で、
「うん! そのときはよろしくね。頼りにしてるから」
そう言って小指を向けてくる。
「――え?」
え、何々、どうしたの?
「ほら、ゆびきり!」
「え、いや、でも……」
戸惑う俺を、近藤さんは力のこもった瞳で見つめる。
それを見た俺はついに観念し、手の震えを抑えながら、ゆっくりと近藤さんのほうに身体を寄せる。
そして近藤さんの小さな小指に、俺の小指を絡ませる。
「ゆびきりげんまん、うそついたら針千本飲ーます……指切った」
そしてお互いの指がすっと離れていく。
「今思うとなかなか怖いね……それ」
「たしかに……ふふふっ」「はははっ」
二人だけの穏やかな空間に、笑い声がゆっくりとこの空間にとけていく。
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