第14話 決心

 ――数分後。

 近藤さんが体温計を持ちながら帰ってきた。


 「――はい。これ、使ってね……」


 「――う、うん。ありがとう……」


 俺はさっきの罪悪感が残っていて、近藤さんを直視することができない。


 俺は俯きながら体温計を脇に挟んで、じっと待つ。

 そして、数秒後、体温計測の終了を告げる電子音が響く。


 「熱は……………?」


 心配そうに見つめる近藤さん。


 「あ、あぁ……。それなら心配ないよ」


 そう言って俺は体温計の数値を見せる。


 「『36.7』ね……。うん、だいじょうぶそうでよかったよ……」


 近藤さんはふふふっと表情を緩める。


 それから他愛もない会話が続いて――なんてことはなく、再び保健室は静寂に包まれた。


 それからどのくらいの時間がたっただろうか。

 その静寂を破るかのように、近藤さんがボソッと言葉を漏らす。


 「――高岡くん……。もし……高岡くんさえよければ……なんだけど」


 「……………」


 そう前置きした近藤さんだったが、なかなかその続きが出てこない。

 俺の脳内では、先ほどいいところで中断された伊織of天使と伊織of悪魔の戦いが再開せんとしていた。


 そんなこんなで、どうしようかと頭を悩ませていたが……。

 その直後に近藤さんから発せられた言葉で、すぐに現実に引き戻されることになる。


 「高岡くんに何があったのか………………知りたい」


 「……………………っ」


 頭をバットでで殴打されたような、そんな鈍い違和感が全身を包み込む。


 ――放課後の保健室。

 俺と近藤さんの他には誰もいなくて、保健室はひっそりと静まり返っている。

 窓の外からは、運動部の威勢のいい掛け声が聞こえてきて、こことはまるで正反対の世界にいるみたいだった。


 「そう……………だよね」


 近藤さんの気持ちはわからなくはない。

 今まで普通の人だと思っていたのに、実はその人にはとんでもない過去があって、しかもそれを今まで誰にも言うことなく隠してきた。

 隠し事と聞いたら、誰だって知りたくなるだろう。俺だってそうなると思う。


 だから、近藤さんが聞いても、それはなにもおかしいことではなくて。

 でも――。


 「………………………」


 俺は言葉に詰まる。

 高校に入学して、俺の過去を知らない状態で出会った人と、一からそれなりにいい関係を作れそうなところまで来たと思っていた。


 しかし、ここに来てそれを打ち明けなければならないのか。

 なんだ。結局俺が思っていたことなんてただの夢物語だったのか。

 俺は誰と関わるにしても、あの過去がいつまでも付き纏うのか。


 正直にいって、このことはいくら近藤さんでも打ち明けたいとは思わない。

 いくら付き纏うからと言って、それを自分から積極的に口に出そうとは思わない。

 だから――


 「ごめん、近藤さん……………。あのことは……やっぱり言え――」


 「――わたしはっ!」


 近藤さんが俺の言葉を遮った。


 「………⁉」


 俺は一瞬動揺して近藤さんの顔を見る。

 怒気が滲んだような表情、しかしそれでいてもどこか哀愁を帯びた瞳。そして小さくギュッと握られた両手は、自身の膝の上でプルプルと小刻みに震えている。


 いつもの近藤さんの柔和で温かな雰囲気とは、ずいぶんとかけ離れている。

 俺は黙って近藤さんの言葉を待つ。


 少しの沈黙の後、近藤さんがおもむろに口を開く。


 「わたしね……高岡くんにどんなことがあったのかなんて何もわからない。……だから何も言う資格なんてないと思ってたの……。でも……でもね……」


 言葉を発するその唇も小さく震え始める。


 「わたし……今の高岡くんを見て……思ったの。……高岡くんは、一人で何もかも抱えようとしてるんじゃないかって」


 「…………⁉」


 衝撃的だった。

 俺が何年も悩み苦しみ足掻き続けて出した結論の中にすらもない、第三者のまったく別の視点からの結論。


 ……………たしかにそうかもしれない。

 過去のことは、あくまで自分のことだから、周りに迷惑だったり心配だったりというのを極力かけないように隠してきた。もちろん、高校に入ってからは誰にも話していない。


 しかし、出会ってまだ一週間くらいの、こういっては失礼だが――単なるクラスメートにあっさりと見抜かれてしまった。

 まるでなにかで心の内を見透かされているような――そんな気分だった。


 「……どうして……どうして? 近藤さんは……そう思ったの?」


 俺はそう聞かずにはいられなかった。


 「それは……高岡くんの表情を見ればすぐわかるよ」


 近藤さんは少し表情を緩めてほほ笑みながら、そう答えた。


 「そ、そうかな…………」


 一応ポーカーフェイスは得意なほうだと思っていたが、他人から見たら案外そうでもないのかもしれない。


 「それに…………」


 近藤さんは俯きながらそう前置きをすると、


 「わたしは………そんなふうに困ってる人を放っておけないの……。高岡くんが一人で抱えているその気持ちを……少しでも軽くしてあげたいなって。だから――」


 近藤さんはそこで顔を上げ、俺のことを真剣な目で見つめる。


 「教えてほしいの……」


 「そ、それはっ………………………」


 「け、決して……興味本位とかじゃなくて。そこは信じてほしい……」


 「こ、近藤さん……」


 こんな風に誰かにお願いされたことなんて、いつ以来だろうか。

 思い出せないってことは……まあ、そういうことだ。


 だから、俺はこの状況について行くことだけで精一杯だった。ただ、近藤さんの気持ちは痛いほど伝わってくる。


 「……………どう……かな?」


 近藤さんのつぶやきが聞こえた――そのときだった。


 「…………?」


 俺の中でふと、ある考えが浮かぶ。

 別に、何をそこまで隠す必要があるのだろうか。


 俺は今まで自分の過去を隠してきたのは、周りのためだと言っていたが、果たしてそれは本心なのだろうか。

 俺はその考えの根本的な部分に疑問を抱く。


 ――それは自分を守るための建前だったのではないか、と。


 ――惨めな自分を他人に知られるのが怖くて、都合のいい理由を適当にでっちあげていたのではないか、と。


 だからといって、何の躊躇もなく誰にでもペラペラと話せばいいとか、そういうことでは決してないが。

 ここまで自己保身をする意味というのが、自分でもわからなくなってきた。


 もしかすると、ここで近藤さんに話すことで、自分の肩の荷が少しは軽くなるかもしれない。

 今までの後ろ向きな考え方が変わるかもしれない。これからの俺の人生が大きく変わるかもしれない。


 そして、それを話すのは、他の誰でもなく、近藤さんであるべきだ――なぜか、そう感じた。


 人は踏み出さなければなにも始めることはできない。

 いくら悪いことしか想像できなくても、それはあくまでも想像上のことであって、現実ではない。

 やってみてだめなら、またそこで立ち止まって考え直せばいい。


 ――なんだ。意外と簡単なことじゃないか。

 何を今までこんなに悩み詰める必要があったのだろう。

 今となってだからいえることであるが、あんなに考えていた自分があほらしく思えてくる。


 俺は身体を向き直し、近藤さんの瞳を正面から見つめる。


 俺はここで踏み出すんだ。

 いつまでも過去に囚われ続けるわけにはいかない。

 だから、この続きはなにがあっても近藤さんには伝えなければならない。


 ――決心がついた。


 「…………わかった、近藤さん。話すよ。俺に何があったのか……」


 「う、うん……」


 近藤さんは、俺の決心を感じ取ったのだろうか。背筋をピンと張り直し、少し緊張の面持ちになる。


 そして俺は、他人には決して話さないであろうとしていたその重く閉ざされた口を、ゆっくりと開いていく。

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