第4話 天使

 退院後は色々と手続きだの、薬の受け取りなど、面倒なことが立て続けに起きて、気づくともう月曜日――登校初日を迎えていた。


 チャリ通の俺は、学校に行かなくてはならないという使命感と、ボッチが確定している完全アウェーな空間に自ら身を投じることへの恐怖感との間のジレンマに陥っていた。


 そのジレンマという名の沼に嵌ってしまった俺の足は鉛のように重く、その足でペダルを漕ぎ続けた。

 なんとか学校には着いたものの、いつもの倍くらいの体感時間がかかった気がする。


 俺は駐輪場でチャリを置き、まずは職員室へと向かった。

 二年生に進級したわけだが、クラスや出席番号、おまけに担任が誰なのかも一切わからない。だから、とりあえず去年の担任である柳先生を呼んで聞いてみることにした。


 トントントン――


 「失礼します…。二年の高岡伊織です。柳先生はいらっしゃいますか?」


 「おぉ、高岡か。退院おめでとう。元気になってよかったな。……それで? こんな朝っぱらから私に何の用だ?」


 柳先生はコーヒーカップに口をつけ、ダルそうな目をしながら歩いてきた。

俺は柳先生の胸元に視線を落とす。

 いや、今日も主張が激しいようで…………。

 柳先生の暴力的なまでの双丘は、性別関係なくその視線を集めることになる。

 病気のことがあったからかどうか定かではないが、柳先生は俺のことをよく気にかけてくれていて、二人で話す機会が何度かあった。そのとき、その双丘を見まいと視線を泳がしている俺のことを、あの人は良くからかっていたっけ――。


 そんな回想をしているうちに、柳先生は俺の目の前にやってきた。

 頭の中で考えていたことが先生にバレると色々と面倒なので、平静を取り繕い、ここに来た用件を伝える。


 「お、おはようございます、柳先生。……あの、俺のクラスと出席番号を教えてください。このままだと教室に行けずに校内放送で迷子のお知らせを喰らってしまいます」

 

 「……は? なんだお前、クラスのこと、友達に聞いてないのか?」


 柳先生は俺の言葉が予想外だったのか、俺の少し戸惑っていた。


 「友達がクラスにいれば、の話ですよね、それって…」


 「あぁ……」


 この反応を見るに、どうやら柳先生は俺が置かれた状況をわかっていなかったらしい。

 そりゃそうだ。いくら担任といっても、各生徒の詳細な友人関係まで知っているなんてありえないもんな……。逆に知ってたらビビるわ。


 だが、さすが現国の教師といったところだろうか。すぐに俺の考えていることを読み取ったらしく、ニヤっとした笑みを浮かべると、


「なるほどなるほど……高岡ぁ、お前友達少ないもんなぁ……。まあ、いいか。とりあえずお前は一組二〇番だ。……ふふふ、まあ、せいぜい頑張るんだな、青臭い少年よ。……あ、あと今年もよろしくだな」


 そう言って奥に行ってしまった。

 ……………………………頑張れ? 今年もよろしく?

 何を言っているのかよくわからないが、とりあえずクラスと出席番号がわかったので、予鈴が鳴る前に教室に行くことにした。


 学年が上がると下駄箱も位置が変わる。

 万が一間違えて下級生の女子の下駄箱になんて靴を入れてみろ。明日から俺がお世話になるのは学校ではなくお巡りさんになるだろうな。……妙にリアルでちょっと笑えない。


 そんな恐怖を感じながら、細心の注意を払いつつ、自分の番号を探す。


 「二年一組、二〇番。ここで合ってるね……。よかった……………………」


 父さん、母さん、俺は明日からもこの学校に通えそうです。

 俺は安堵の息を漏らす。


 そして、上履きを履いて二階に上がり、教室の引き戸に手を掛ける。すると、中から楽しげな声が聞こえてくる。


 「っ…………………」


 俺は一瞬開けるのを躊躇った。

 なにせ、ここから先は完全アウェーな空間。なんの躊躇もなく入れるほど、俺は陽キャなメンタルを持っているわけではない。


 まあ、陽キャならそもそもアウェーなんかにならないか。むしろホームだろうからクラスメイトから歓迎されるレベル。もういっそうそのままどっかの神社で奉られてしまえばいいのに。


 まあ、まさか、この陰キャなんかを歓迎するクラスメイトがいるわけ……。

 誰も俺のことなんか気にもせずに、おしゃべりにでも花を咲かせるのに夢中のはずだ。

 べ、別に、歓迎されたくないなんて言ってないんだけどねっ!

 と、そんな誰得だよというようなテンプレなセリフを吐き捨てると、


 「………………………………よし」


 覚悟を決めて引き戸を引いた。


 「っ…………⁉」


 賑やかな話し声がほんの一瞬止む。そして、クラス中の視線のほとんどが俺に集まる。

 おいおい、うそだろ? 何でここで静かになるの? やめて! 見ないで!

 俺を捉える無数の視線は、俺の身体を容赦なく貫いていく。


 「うっ……………………………」


 もしかしたら、こうなるかもしれないということは、万が一の万が一ということで、ある程度は想定していたが…………。


 ここまで露骨に「お前誰?」みたいな目で見つめるのは良くないって。効果抜群だよ。きあいのハチマキ下さい……。


 かろうじてHPが残った俺は、未だに向けられ続けている視線から避けるように、俯き気味になって、足早に自分の席に向かった。


 俺の席は周囲の喧騒とはまるで別世界のようにすっぽりと空いていて、ひんやりしているように見えた。

 そりゃそうだ。なにせ一週間も使ってないわけだし……。


 俺は焦りと緊張で火照った身体を冷やすように椅子に座る。

 すると、あることに気づく。

 あれ…?

 誰も使ってなかったはずの机の中には、プリント類がきれいに整頓されて入っていた。

 きっと隣の席になった人が整理してくれたんだろう。

 俺がもし逆の立場だったらそんなことまで気にかけることはできないかもしれないな。

 そんなことを考えていると、不意に俺の左側から声を掛けられた。


 「おはよう。高岡くん」


 「……………?」


 誰だろう、こんなボッチに声をかけてくれるなんて……。そう思いながら声のする方を振り向く。


 「あ、おは………………………っ⁉」


 俺は人間の最低限のマナーであるあいさつの言葉すら言えなくなるほどの衝撃を受けて、全身が硬直してしまった。


 そこに立っていたのは、一人の少女。

 朝日の逆光にも負けず劣らず、艶やかに光るダークブラウンのミディアムロブ、青く澄んだ瞳、少し上気したようにほんのりと赤く染まった頬。小柄ではあるが、しかしその可憐なシルエットは、まるで今しがた咲いたばかりの花のような瑞々しさを感じさせる。

 不躾なことではあるが、あえて一言で彼女を表現するとしたら……。


 ――天使。


 これに尽きる。


 「お、おはよう……。え、えっと……君は?」


 「あっ、ごめんなさい。名前も名乗らずに……。わたしは……近藤結衣です」


 天使のような彼女は近藤結衣というらしい。

 彼女――近藤さんは椅子に座る。俺の隣の席だった。


 そして、スクールバッグから筆箱やらノートやらを取り出すと、机の中に入れ始める。

 少し前かがみになったときにさらりと流れる髪の毛、それを耳にかける仕草……。


 「…………………⁉」


 近藤さんの横顔を見ていると、自分の中に起きた変化を感じる。

 あれ、何だろう………。

 胸のあたりがおかしい……。鼓動がいつもより大きく跳ねている。それに、このモヤモヤとした感じは一体………………。

 それは今まで生きてきて一度も感じたことのない感覚だった。

 

 分厚い雲が身体全体に充満し始めるが、それと同時に、その間をすり抜けるように大きな電流が全身を駆け巡っている――そんな感じ。


 普段は全くといっていいほど役に立たずに鈍りきっている俺の感情のレーダーが、今このときは冴えわたっていた。

そのくらい彼女の姿が衝撃的だった。


 レーダーは体の中で起きている何かを俺に必死に伝えてようとしているようであったが、残念なことに、その正体を知ることはできなかった。

 しかしそれでもまだ、モヤモヤした気持ちは胸の奥で燻り続けている。


 俺は近藤さんに視線を奪われ、そのまま身動きが取れなくなってしまった。


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