第3話 初恋の奇跡

 記録更新の快挙から数十分後。

 会場はだいぶ落ち着きを取り戻したようで、閉会式に向けて着々と準備が進んでいる。


 わたしも、さっきの感覚がまだ若干残っていたけど、なんとか平静を保つことができている。


 『これより、表彰式並びに閉会式を開式いたします』

 

 アナウンスが入ると、ブラスバンドの演奏とともに、各種目で上位に入った選手たちが入場してくる。

 たくさんの選手がいたけど、わたしの視線は無意識のうちに高岡くんに向いていた。


 ほんの数十分前、中学記録を塗り替えたのにもかかわらず、その顔は先ほどとあまり変わらず、その表情も微動だにせず、全く変わる気配がしなかった。


 幅跳びや高跳び、砲丸投げや円盤投げなど、様々な種目の表彰が行われていく。選手にメダルや賞状が渡されるたびに、温かく、そして大きな拍手が送られる。


 わたしは、ここにいる選手のことは全然知らないけど、メダルや賞状という形がその人の努力を証明している思うと、自分のことのようにうれしくなる。

 

 そして、ついに、表彰も残るは一競技―男子100mだ。

やはり高岡くんが表彰されるということもあり、拍手やそれに伴う歓声の大きさも最高潮に達する。


 メダルを持ったおじさんが表彰台に向かって歩いていく。もちろん最初にメダルが渡されるのは、優勝した高岡くんだ。

 …………………………。

 なにやらプレゼンターと話しているみたいだ。

 もちろん、この距離からでは会話の内容は聞こえてこない。


 しかし、次の瞬間――。


 「……………………………っ⁉」


 わたしは雷に打たれたかのような衝撃に襲われた。

 

 なぜなら――高岡くんが満面の笑みを浮かべたのだ。

 今日一日、わたしが見ている中では、高岡くんは一度たりとも表情を変えるようなことはなかった。


 ――走る前も。


 ――中学記録を塗り替えるという快挙を成し遂げたときでさえも。


 会場中の観客が自分のことを見て、「すごい!」とか、「おめでとう」といった歓声を受けると、たいていは、歓喜のあまりうれし泣きをしたり、ガッツポーズをとってうれしさを爆発させるものだと思っていた。少なくともわたしの中では。


 ただ、高岡くんの場合、何か自分の中に持っている信念みたいなものを大切にするように、顔色一つ変えずに自分のタイムと向き合っていた。


 ――初志貫徹。


 高岡くんにはこの言葉がぴったりくる。

 だから――表彰式でもその表情を貫き通すものだと思っていた。


 そんな高岡くんが。

 今までのあの冷静沈着な雰囲気は鳴りを潜め、今はまるで小学生に逆戻りしたかのような笑みを浮かべている。


 あんな表情もするんだ……。

 いつのまにかわたしは見惚れていた。心臓の鼓動が一気に早くなる。

 

 まだ五月の上旬だというのに、真夏の直射日光を浴びたかのように身体が熱くなり、全身から汗が噴き出してくる。


 そして今まで感じたことのない、得体の知れない何かが、猛烈な勢いで体中を巡り始める。

 とてつもない違和感を感じずにはいられない。

 どうしちゃったの、わたし……………。


 高岡くんを見ていると、こんなにも胸がギュッと締め付けられる。

 苦しい……苦しいはずなのに――なぜだろう………………ドキドキが止まらない。気分も高揚していく。


 この気持ちはいったい…………………………。

 このとき、わたしは自分の心の中で起きたある変化に気づくことはできなかった。


 わたしは冊子を閉じてベッドに仰向けに寝っ転がる。

あの日以来、わたしは毎日のようにあの日のことを思い出していたっけ。

 何度も、何度も…………………。


 そしてあるとき、わたしは気づいてしまった。


 ――あの日、高岡くんのことを偶然見たこと。


 ――そしていつのまにか彼の姿を目で追うようになってしまっていたこと。


 ――ずっと無表情だった高岡くんが表彰式で見せた表情の変化を見たときに感じた、あのドキドキ、高揚感。


 それはすべて――高岡くんのことを好きになってしまったからだ、ということに。


 それから、わたしは高岡くんを見るために、次の大会にひとりで足を運んだ。遠くから彼を眺めるだけでもいい。直接お話なんてできなくてもいい。ただ、彼の姿を見るだけで、わたしの心が満たされると思ったから。

たったそれだけの理由だった。


 でも――。

 あの日以来、わたしは彼を目にすることは二度となかった。

 競技場に行けば必ず彼に会える――そういう思いが強かっただけに、彼を見つけることができなかったときのショックはかなり大きいものだった。


 一回くらいは調子が悪くて試合に出られなかったと思えば、自分の中である程度納得することができた。

 でも、それが何回も続くと、さすがに不安になる。


 行くたびに、行くたびに。

 今回は会える、今回は会える。

 そう思いながら。


 でも、その期待は毎回のように裏切られた。

 そして、中学三年生の春の大会を最後に、わたしは大会に行くことをやめた。

 彼に会えないのなら、ここに来る必要なんてない。


 あの頃は、彼のことを考えるだけで胸いっぱいに温かな気持ちが広がっていたけど、今は全くの逆。考えれば考えるほど胸の中には悲壮感が漂う。


 なぜここまでの気持ちに変化が生じてしまったのだろう。

 それは、今思い返せば、自己嫌悪ではなかったのかなと思う。

 遠くで見て、話しもしたことがない人にひとりで勝手に恋をして。会えなくなったらひとりで勝手に落ち込んで。


 彼が大会に出なくなった理由なんてわたしにはわかるはずもないのに、それを誰かのせいにしようとして。

 誰かを責めたところで何も変わることなんてないって知っていながら。


 そんな自分が許せなかった。いつまでも後ろばかり見ている自分が。過去にいつまでもすがっている、みじめな自分が。


 彼との出会いは、わたしの人生で遭遇するはずのなかった単なる偶然だった。

 彼とのすべての記憶さえなくなれば、この気持ちからも解放される。

 そうすれば、前を向いてまた新しい一歩が踏み出せる。

 だからわたしは……………。


 彼のことはもう忘れよう――そう思った。


 ――なのに。

 高校二年生になって、まさか彼と同じ高校で、しかも同じクラス、それに加えて隣の席だなんて………。


 これが有名な、「運命のいたずら」というものなのだろうか。

 もう彼とは二度と会うことはないだろうと思っていた。

 あんなの、一度きりの奇跡としか思っていなかった。


 あの日、わたしの心のスペースになんの前触れもなく入ってきて、ずっと残り続けた存在。

 あのとき、自己嫌悪から逃れるために彼のことは忘れよう。そう自分の中でそう決心したはずなのに。


 「そんな……そんなことが…起きる……なんて…………………」


 これを奇跡と呼ばずに何と呼べばいいのだろうか。

 蓋をしたはずの気持ちが、どんどん大きくなっていく。忘れたはずの彼の笑顔が脳裏に浮かんでくる。

 

 あのとき感じて抱いた感情の数々が、まるで太陽の光を存分に浴びてとどまることを忘れた植物のように、どんどん膨れ上がっていく。そして今まで抑え込んでいた蓋から溢れそうになる。


 わたしは、彼の名前が載っている冊子をゆっくりと胸に抱く。

蓋をしてきた気持ち。叶うはずがないと諦めた気持ち。


 ――もう限界だ。


 もうこれ以上この膨れに膨れ上がった気持ちを抑えることはできない。そう思ったとたん、涙腺のダムが決壊した。

 ボタボタと大粒の涙が冊子に滴り落ち、しみとなって広がっていく。


 「っ…………高岡くん…………高岡くん………………………」


 嗚咽を漏らしながら、彼の名前を呼び続ける。

 涙で顔がぐちゃぐちゃになっていようが、関係ない。誰にも見られることだってない。だって、自分の部屋なんだから。


 今はこれまでの我慢をすべて出し切ろうということしか頭になかった。

 嘘に嘘を重ねても、それは土台のない建物となんら変わらない。だってそれらは、いつか必ず崩れ去るのだから。


 わたしは心の隅ではわかっていたと思う。いくら蓋をしても、いくら忘れようと努力をしても、最初からわたしにそんなことはできない、と。


 ――高岡伊織。


 その名前は絶対に忘れない。


 だってこの人は、わたしの――初恋の人なんだから。

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