第2話 出会い
あれは、まだわたしが中学二年生だった頃。友達の応援に行こうと誘われ、県内の競技場に来ていた。
女子の競技が終わった後、どうせなら最後の表彰式までは見ていこうよ、と友達に言われて残ることにしたけど、表彰式までは時間があったから、ついでに他の競技も見ることにした。
「へぇ……陸上の大会ってすごいなぁ……」
わたしは大会の規模の大きさに少し圧倒されていた。
テニス部の大会はギャラリーは多くはないから、他人の目を気にすることはないけど……。
陸上は大きな競技場で行われるから、見渡す限り、多くの人が観戦に来ていて、テニスのギャラリーとは観客の数の桁が違う。それにあちこちで歓声や生徒の応援の声が響き渡る。
テニスはそこまでギャラリーはいないからいいんだけど、それでもわたしはギャラリーの動きに反応しがちで、集中をそがれてしまうことがよくある。
だから、こんなにたくさんの人に見られながら競技をするなんて、わたしには到底できないことだろうな、と思っていた。
そんなことをいっても、競技場のトラックにいる選手たちは観客を気にするそぶりひとつ見せず、自分の競技に集中している。
しばらくは注目するような種目はなかったのか、場内の観客は同伴の人たちと楽しそうにおしゃべりをしていた。
しかし、あるアナウンスで場内の空気は一変した。
『これより、男子100m決勝を行います』
今までの弛緩した空気はどこへ行ったのか。場内は異様な緊張感に包まれる。
わたしもなんだか緊張してきた……………。
すると、近くにいた夫婦が大会冊子を広げて話している声が聞こえてた。
「男子100m決勝か。今年は粒者ぞろいだから、誰が優勝するか楽しみだな」
「そうね。でも、一番の注目はほら…………高岡くん……高岡伊織くんよ。最近すごく伸びてきてるらしいわよ。まだ二年生なのに決勝に残るなんて、すごいことよね~」
わたしはそれを聞いて、さっき入り口でもらった冊子を鞄から取り出して開く。
【男子100m ゼッケン8 高岡伊織 自己ベスト:10秒86 二年生ながら、ここ最近になってタイムが急激に伸びてきた。上級生にも引けを取らないほどの実力を持つ。今後の成長にかなり期待できる、中学陸上界の逸材といっても過言ではない。】
冊子の中の選手紹介の欄には、そう書いてあった。
「はやっ……………………⁉」
わたしは思わずそう呟いてしまった。周りの人がちらっと振り向き、わたしに視線を向ける。
「っ…………………」
恥ずかしい………………。
だって、すごくびっくりしたんだもん。100mを11秒弱で走るなんて……。わたし、50mでさえ8秒くらいなのに……。
そんなことを思っていると、所々から今までで一番大きな歓声が聞こえてくる。
何が起きたのか一瞬分からなかったけど、すぐに歓声のもとは選手入場口からだということに気づく。
決勝に出場する選手である八人が入場してくる。
わたしは入場してくる選手たちを見つめる。
―ものすごく緊張しているようで、顔を俯けている人。
―ニコニコとした笑みを浮かべている人。
―たぶん気合がものすごく入っているようで、体のあちこちをベシベシ叩いている人。
―ずいぶんと余裕があるようで、周りの観客の声援にこたえようと、必死にあちこちに手を振っている人。
色んな表情をした選手が見える。
―しかし。
「…………………………っ!」
わたしは、今入場している選手の中で、ある一人の姿に視線を奪われていた。
周りの声援をものともせず、周りに人を近づけさせないような雰囲気を放っている人―ゼッケン8、高岡伊織。
「うわぁ、すごい集中力……………」
わたしは遠目から見てもわかるほどの彼の集中力に、つい感嘆の声を漏らしてしまった。
他の選手は、緊張したり、それをごまかすかのように周りに視線を向けているように見える。それは明らかに観客を意識しているということでもある。
一方、彼、高岡くんは、ただただひたすらに自分だけの世界にいるようで、それがかえって異様なほどの存在感を出している。
それはまるで『ゾーン』に入っているみたいだった。
ゾーン。わたしもその言葉をどこかで聞いたことがある。集中力が極限まで高まると、他の思考や感情、周囲の風景や音が意識から消え、感覚が研ぎ澄まされる。その結果、活動に完璧に没頭することができるようになる状態。
そういうのって一流のスポーツ選手によくあることだったと思うんだけど………。
それをわたしと同じ中学生が、今目の前でやってのけている。
「すごいな……………………」
わたしはそんなありきたりな感想をつぶやく。
そういえば、最近タイムがすごい伸びてるって冊子にも書いてあったし、どうせならちょっと注目して見てみようかな。
最初はそんな軽い気持ちだった。
しかし。
―スタート地点に立ってスターティングブロックをセットする姿。
―深呼吸をする姿。
―軽くジャンプする姿。
―ユニフォームを少し直す仕草。
気がつくと、わたしは彼の一挙手一投足に至るまで、じっと見つめてしまっていた。
このとき彼に注目したのも、わたしはもうすでに彼に見惚れてしまっていたからなのかもしれない―。
スタートラインに選手が並ぶと、ひとりひとりの名前が呼ばれていく。
スタートが近づくにつれて、わたしの緊張感もさっきとは比べ物にならないくらいに高まり、心臓の鼓動が早まっていく。
この競技場にいるすべての人の息遣いが聞こえくるのではないかと思うほどに、会場が静まり返る。
「オンユアマーク…………セット……………………………パァン‼」
ピストルの大きな音とともに、選手が一斉に走り出す。
「わぁ~~~‼」
「行け~~~~~~‼」
「頑張れ~~~~~~~‼」
選手が走り始めると同時に、さっきまでピタッと止んでいた歓声が再びおおきなうねりとなって競技場を包み込む。
わたしも応援しようと声を出したけど、周りの声に完全に負けていて、自分が声を出しているのかさえわからないように感じる。
陸上、特に100mみたいな短距離はたいていは後半になるまで勝負は分からない、と友達が言っていた。
ましてや、今回は決勝。予選で勝ち抜いてきた選りすぐりの選手たちが走るんだから、勝負は後半だろう。
わたしを含め、ここにいる人の誰しもがそう思っていた。
しかし、レースは思いもよらない展開を見せる。
他の観客も私と同じことを感じていたのだろう。歓声が次第にどよめきへと変わっていく。
「おいおい、うそだろ⁉」
「あの子、なんなの?」
「速すぎる‼」
そう口々に言ってしまうのも無理はない。わたしも同じことを思っていたから。
だって―50mくらいを過ぎたあたりで独走をする選手がいたのだから。
その選手は―ゼッケン8、高岡伊織。
「…………………っ!」
わたしは、高岡くんのあまりの速さに言葉を失っていた。
彼はその大きなストライドで他の選手を圧倒していた。まるで、小学生の徒競走に高校生が混ざって走っているような、そんな感じ。
みるみるうちに差が開いていく。
そして―高岡くんは圧倒的な差をつけてフィニッシュ。
「「「わぁぁぁ~~~~‼」」」
そしてその瞬間、会場に今日一番の歓声が沸き起こる。
その原因となったのは、高岡くんのタイムだった。
―10:52
はちきれんばかりの歓声がわたしの耳を襲ってくるが、その中である言葉が聞こえてきた。
「高岡が………………日本中学記録を更新した‼」
「…………………………⁉」
え……うそ、でしょ?
わたしは耳を疑った。中学日本記録……………更新⁉
すぐにスマホを取り出して調べる。
すると、今日の大会までの男子100mの中学記録は10:57らしい。
つまり、今、目の前で、その記録が塗り替えられた。
……………も、ものすごいところを目撃することになってしまった。
カメラを抱えた記者と思しき人たちは高岡くんを取り囲み、その記録更新という快挙を少しもも余すことなく記録として残そうと、まばゆいフラッシュを何度も焚いていた。
当の高岡くんはというと……。
いきなり大勢の大人たちに囲まれて、最初は何が起きたのかわからなくてキョロキョロと視線を泳がせていた。
でも、自分が成し遂げた事の大きさに気づき始めたのだろう―だんだんとレース前のあの冷静沈着な雰囲気に戻っていき、記者の写真の要望にも応えるようになっていった。
ただ、相変わらず表情は少しも変わらず、淡々としているように見えた。
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