第三話 甘い誘惑に負けました。

 翌日、私は徹夜で王子を待ち構えた。夜明け前に鍵が開く微かな音がして、そっと扉が開く。テーブルの上にトレイが置かれ、人の気配がそそくさとベッドに近づいてきた。


「おはようございます」

 私の声に、その人物がびくりと体を震わせたのがぼんやり見える。


「あ、あら。おはよう。起きていたの?」

 起き上がって魔法灯ランプを点ければ、豪奢なドレスではなく、素朴な藍色のワンピースに生成色のふりふりエプロン姿の王子が見えた。髪は普段の私と同じ、ポニーテールにしている。……可愛い……かもしれない。美形怖い。マジ怖い。


「ユリノ、ちゃんと寝ないとだめよ? 寝不足はお肌の敵よ?」

 じりじりと近づいてくる王子を避けながら、テーブルを挟んで対峙する。


「朝食を頂いてから、少し仮眠します。今日は休みですから」

「あら。それならユリノが眠っている間に甘いクッキーを焼くわね」

 王子の甘い誘惑に、私の心は瞬間で屈した。


 王宮には甘いお菓子というものが存在しない。甘味といえば高そうな果物か、飲み物に入れるはちみつだけ。町では平民向けに甘すぎるお菓子が売っているけれど、私は王宮外に出してもらえないから騎士仲間に時々買ってきてもらって食べている。甘いお菓子は私にとって貴重品。


 昼過ぎに王宮庭園で待ち合わせの約束をすると、王子は満足気な笑顔で部屋から出て行った。


「あ。ハンカチ返すの忘れた」

 後で返すかと気を取り直して、私は美味しい食事に手を付けた。


     ◆


 待ち合わせの時間が近づいてきたので、私は王宮庭園の東屋へと向かっていた。庭園は瑞々しい緑の木々と色とりどりの花で溢れている。


 時折吹く強い風が枝葉を揺らしても、花々は爽やかな芳香を漂わせながら、しっかりと咲き誇る。


 道を曲がると、私の前を銀髪の宰相が早足で歩いて行くのが見えた。どうやら宰相の目的地も私と同じ場所。迷いながらも東屋の裏の木に身を隠す。


「ヴィンセント様のお望み通り、隣国王女との縁談は無かったことになりましたよ」

 呆れたような宰相の声が聞こえた。


「そうか」

 王子が平坦に短く答える。顔が見えないので、その感情は読み取れない。

 成程。私は内心溜息を吐いた。王子は縁談を潰したいがために、女装をして私を追いかけるという奇行を皆に見せつけていたのか。


「そろそろ、その馬鹿げた芝居は終わりにして頂けませんか。王宮に滞在中の各国大使にも知れ渡り始めておりますよ」

 広大な王宮には、各国の大使が賓客として滞在している。私が魔王を倒した後、各国の王からのお礼状と豪華な品々を届けてくれた。


 次々と申し込まれる面会に疲弊した私を助けてくれたのは王子だったことを思い出した。私が疲れて眠っている間に何もかもが終わっていて、私は手紙と品物の確認だけですんだ。


「芝居ではないのだ。……ユリノの嫁になるには、何が足りないのだろうか」

 王子の呟きに驚いた。芝居ではなく本気だということだろうか。


「どんな技術スキルがあれば、嫁にしてくれるのだろうか」

「それ程お気に召しているのなら、嫁ではなく、正式に求婚されてはいかがですか」


「これまで一度も欲しいものを言わなかったユリノが、初めて欲しいと言ったのが嫁だ。叶えてやりたいと思っている」

 王子の声はとても優しく聞こえる。


 あの時は本当に疲れていて、部屋に戻ることも億劫だった。体力よりも、心が悲鳴を上げていた。ささくれ立った心を癒してくれる優しい嫁がいてくれたらいいのにと、願望がそのまま口から零れた。


 ……確かに初めて「欲しい」と口にした。何もかも不自由なこの世界に来て、一度も言ったことのない言葉。


 何もいらない。この世界に来て、そう思い続けていた。旅の間は勇者が隣にいてくれて、私の心は満たされていた。旅の終わりに残酷な現実を見てしまった今は、元の世界に帰るのだから何も必要なかった。


「だからと言って女装というのはやり過ぎではありませんか?」

「それがな。このスカートというものは、意外と着心地がいい。風が通って、アレが涼しくて気持ちいいぞ。上はキツイが、下は自由を満喫している」


「ヴィンセント様、……まさか……下穿きを着けていないと言わないでくださいよ」

 宰相の心底嫌そうな声が聞こえてきて、私は笑いを噛み殺す。いつも澄ました顔の宰相がどんな表情をしているのか見てみたい。


「まぁ、冗談だ。……普段の姿で近づいた時には見ることができない表情がある。理由はわからないが、無意識に男が嫌いなようだ」

「……ユリノ様は勇者に好意を寄せていたようです。目の前で自分とは正反対の王女を選ばれたことが心に痛手を負わせたのでしょう」

「それは報告を受けていないぞ」

 王子の声が少し固くなった。


「書面にして報告するようなことではありませんよ。知っているのは魔王討伐に出掛けた三人と私だけです。他に気が付いた者はおりません」

 宰相の言葉を聞いて、私は木に頭を打ち付けたくなった。私の恋心が勇者本人と魔術師、神官に気が付かれていたことが恥ずかしい。


 旅の間、極限状態に居ながらも私は完全に勇者に熱を上げていた。だから勇者の隣に立つ為に頑張った。勇者の足手まといにならないように、迷惑を掛けないように自分なりに努力を重ねた。


 ……勇者は私の恋心を知っていながら、目の前で王女を選んだのか。


「この世界にユリノが残ってくれるなら誰を選んでもいい。できれば私を選んでほしいと思うがな」

 王子の言葉の後、宰相が大きな溜息を吐いて東屋から離れて行った。時報の鐘の音で、約束の時間だとわかっていても動けなかった。涙が目から溢れていく。


 強い風が私の髪を、心を乱していく。


 この世界に来てから、一度も涙を流したことはなかった。世界を救うという使命感と、恋した勇者の隣で戦えることに満足感を覚えていたから、ホームシックになることもなかった。


 勇者が王女を選んだ瞬間を見ていても涙は出なかったのに、何故か涙が止まらない。


「ユリノ?」

 いつの間にか、王子が側に立っていた。髪を撫でられて抱きしめられても抵抗する気力がない。


 私の恋心に気が付いていたのなら、優しくなんてして欲しくなかった。恋人だと錯覚しそうな程の気遣いと優しさで、私は勝手に舞い上がって結婚することまで考えていた。


 何もかも気が付いていたから、私の目の前で王女の手を取ることで明確に縁を切りたかったということだろう。


「私が一緒に行きたかった」

 王子はそれだけを口にして、抱きしめる。少し早い心音と温かい腕に包まれながら、私は泣き続けた。


 しばらくして涙が止まると目が痛くて視界が狭い。まぶたがはれ上がっているのだろう。きっと酷い顔をしている。


「……まぶたを冷やしてもいいかしら?」

 王子の言葉に頷くと、そっとまぶたにキスが落ちてきた。ひやりとした感触の後、視界がすっきりと元に戻る。冷却魔法なのか回復魔法なのか、私には判別がつかない。


 女装の衝撃が凄すぎて忘れていたけど、王子は剣も魔法も使える人で国民からの支持も厚い。そんな立派な人が、私の願いを叶えようと頑張っていることにようやく気が付いた。


「ありがとうございます」

「どういたしまして」

 優しく微笑む王子に手を引かれて、東屋へと向かう。


 心が落ち着くと猛烈に恥ずかしくなってきた。まぶたとはいえ、キスなんて誰にもされたことはない。顔が熱い。きっと顔が赤くなっている。


 私を見つめる王子が、くすりと笑って私の髪を撫でる。王子の手はやたらと心地よくて、恥ずかしさがさらに倍増していく。


「今、お茶を用意するから」

 そう言った王子が私に背を向けてベンチに置かれた籠を手に取った時、強い風が王子のスカートをふわりとめくり上げた。


「あ。穿いてるんだ……」

 なんだ。つまらない。王子は男物の下穿きをちゃんと穿いている。


「……っ!」

 振り向きながら顔を赤くして震える王子は涙目。初めて見る表情に、何故かときめく。可愛いかもしれない。


「ユ、ユリノ……ちょっと待って、私、心の準備がっ!」

 王子はそう叫んで、私に籠を押し付けて走り去った。心の準備と言われても、私は何もしていない。


「あ。ハンカチ……」

 突然のことに私は呆然として、王子の背中を見送るしかなかった。

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