第4話 音速の黒鳥


 快晴の空の下に〔トムキャット〕が晒される。キャノピーに日光が反射した。


「いよいよね。この子の初陣」


 アーガスがトムキャットの腹を撫でながら呟く。まだ見たことのない飛ぶ姿を思い描きながら。


「アーガス」


 呼ばれた方へ振り返ると、そこにはいつも通りの白衣を纏い、電子タバコを咥えた榛奈がいた。


「お疲れ様です、先輩」

「別に疲れてはおらんよ」


 榛奈はそう言うが、その目には明らかに寝不足が原因の隈ができていた。


「それで、こいつは飛べそうか?」

「もちろんです」


 アーガスは自信を持って答えた。長戸の目には憂いなどなかった。だから、自分が懸念すべきことは何もない。整備だって万全なのだから。


「取説にあったオプションはつけないのか?」


 榛奈はアーガスと同じ様に〔トムキャット〕の腹を撫でながら言った。


「まだ届いていないんですよね……なんでも、どうしても秋乃の設計図で理解できない部分があるとかで」


 秋乃が残した機体とは別の七枚の設計図。それは拡張ユニットであったが、どうしても秋乃の設計を形に出来ない。そう責任者が嘆いていたのを聞いた。



「天才の頭の中は天才以外には理解できんのだよ。それに秋乃は更に特別だったからな」

「そうでしたね。秋乃はいつも遠くのことを考えていました」


 それは言葉通りの意味でもあり、比喩でもある。


「それでもいい。ちゃんとあいつの想いは鈴谷に届いたのだろうからな」

「はい、ちゃんと受け取ったと思いますよ」


 秋乃がもし見ているのならば、喜んでくれていることをアーガスは祈った。


◆◇◆


「最終確認をするぞ、長戸」

「頼む」


 パイロットスーツに着替えた長戸はコクピットに座り、風早からの説明を聞く。


「基本操縦方法は俺よりも長戸の方が詳しいだろうか省く」

「問題ない」


 長戸はゲームの中ではあるが、実機を何十時間と飛ばしている。

計器類がデジタルになっているが、問題はない。


「問題は速度だ。実際のF-14よりも遥かに速い。速度はなれるまで出し過ぎるな」

「了解」

「それと、この機体はベクターノズルだ。基本的には中央の操縦桿の動きで適切な動きをしてくれる。普通の〔トムキャット〕よりも旋回性能が高い。左右にあるラダーぺダルでそれぞれの操作が可能だ。右のペダルを踏めば踏み込めばパドルとラダーが右側に向いて右ヨーイングをかけられる。何度も言うが旋回性能の高さに気を付けてくれ」

「流石に慣れが必要そうだな」


 もしも思っているよりも旋回しすぎると、揚力を失い最悪の場合、墜落する。


「心配しすぎなくてもいい。もしもの時もナプラスが止めてくれる」

「それは心強い」


 どこまでナプラスがサポートしてくれるのか分かないが、長戸は特に不安は感じていなかった。


「エンジン出力のレバーは変わらない。その横に可変翼用のレバーがあるのも同じだ」


 確かに、配置はほぼ長戸のよく知る〔トムキャット〕と変わらない。

だが一つ、長戸には見覚えのない操作盤があった。


「これは?」


 右のディスプレイの下にこじんまりとある、スイッチ類を指差した。


「あーこれか。これはオプション装備の操作らしい」

「オプション?」

「七つのオプションがあるらしい。俺もどんなものかは知らないが、世界大会の場で必ず役に立つんだとさ」

「……そうか」


 世界大会、という言葉に長戸は背筋が伸びた。そこまでたどり着くには一戦一戦を勝ち抜かなければならない。


「そんなに気負うなよ」


 そんな長戸の様子を感じ取った風早が長戸の背中を叩いた。


「今日は大会じゃない。所詮は練習試合。負けたっていい。それよりもお前自身が楽しむことだ。こんないい機体を無駄にしないようにな」

「そうだな。ありがとう、風早」


 風早は照れを隠す様に笑った。


「もうすぐ相手が来る。迎えようじゃないか」

「あぁ、そうしよう」


◆◇◆


 長戸たちが格納庫で待機していると、一隻の船が港に到着した。


「来たみたいだな」


 風早が強気な笑いを浮かべながら言った。


「お出迎えにいこっか」


 啜っていたお茶を一気に飲み干した卯月が、風早に呼応するかのように立ち上がる。


「思っていたよりも高揚するのだな」


 どら焼きを齧っていた榛奈も二人と同じ様に立ち上がった。

三人は先導して停泊する船に近づいていく。その後を長戸と志乃、他の部員が追っていく。

 船の中からは10名ほどが降りてきた。


「こんにちは、海浜台の皆さん」


 中年で身なりの整った男が第一声を開いた。相手チームの顧問だ。


「こちらこそ。お誘いいただき感謝する。新木場のみなさん」


 今日の対戦相手は東都新木場航空専門学校。海浜台とは距離的にも近く、空戦部以外の部活もよく練習試合をしている。


「時間が惜しい。早速始めるとしよう」

「えぇ、そうしましょう」


 何も知らない人たちからすれば、ただ仲良く会話しているようにも見えるが、実際にはバチバチに火花が舞っている。


「だ、大丈夫でしょうか……長戸」

「さ、さぁ……」


 榛奈は目が笑っていないし、風早と卯月なんか、背中で中指を立てている。

(どんだけ新木場の顧問が嫌いなんだよ……)

 そういう長戸も新木場の顧問は好きではない。なぜなら印象が悪いから。

チャラい、そして不誠実。どこか詐欺師っぽい。


「おや、そちらの機体は……」


 新木場の顧問が格納庫の中を覗き、嘲笑した。


「〔トムキャット〕とは。ははは、これは愉快。そんな旧式で戦うおつもりで?」


 こういう所が嫌われる要因だ。

 だが榛奈も負けてはいない。


「そういうそちらの機体は何です? ほほう……〔フランカー〕ですか。そちらとて旧式ではないですか」


 Su-27の運用開始は1985年。F-14は1974年であるから、旧式と言われても反論は出来ない、かもしれない。


「旧式と言っても侮ってもらっては困りますぞ、香取先生。中身は旧式かどうか。分からないでしょう?」


 威圧的かつ、挑発的に囁いた。


「ふん。それはこちらとて同じ。猫に舐めてかかると痛い目に遭うぞ」


 新木場の監督は瞼をピクピクとさせながら、苛立ちを押さえていた。


「いいでしょう。そういうことでしたら、戦いで示すのみ」

「元よりそのつもりだ」


 結局最初から最後まで火花が散っていた。

長戸には余計な緊張が走った。


◆◇◆


 滑走路には蒸気式カタパルトにより発生した白い煙が揺れている。その中で〔トムキャット〕は飛び立つ瞬間を待ちわびている。


『両校メンバーに通達。試合はヒトヨンマルマルより開始する。各員そのつもりで準備をされたし』


 審判を務める男が通信を流した。この試合の審判は連盟に依頼して来てもらっている。

試合が行われる異次空間の海には二隻の架空空母が浮かぶ。その名を〔ノア〕。人々は方舟と呼んでいる。

 コクピットの中で長戸はカセットテープを聴いていた。これはルーティーンのようなものだ。中学生の頃からずっと聞いている。秋津洲鈴花あきつしまりんか、それがこの歌手の名前だ。


『この曲は、シュディスタですね』

「知っているのか?」

『秋津洲鈴花はマムもよく聴いていましたから』

「そうか」


 もとはと言えば秋乃が長戸におすすめしたことが始まりだ。長戸自身もこんなにハマるとは思っていなかったし、秋乃もそれに驚いていた。


「あき姉は……」


 開いていた口を途中で閉じた。


『どうなさいましたか?』

「いや、向こうであき姉に恋人とかいたのかなって思ってさ」


 今聞くことじゃないと思い、口を閉じたのだ。


『気になりますか?』

「どっちでもいいよ。あき姉が元気で楽しくやっていたのなら」


 本心ではあったが、気になるか気にならないかで言えば、気になっていた。

こんな時にそんなことを考えてしまうのは、試合に集中できていない証拠だ。


『私もマムに恋人がいたかどうかは分かりません。ですが、この機体を作っているときのマムはずっとあなたの話を私にしていました。私がうんざりするほどに』

「はは……そりゃ悪かったな」


 容易に想像の出来る光景であり長戸は嬉しかった。


『ヒトサンゴウマルです』

「あぁ、行こう」


 最終確認をしていた風早たちが、コクピットの長戸に向けて親指を立てたサインを送った。それに同じポーズで返事をする。


『こちら管制室、聞こえていて?』


 アーガスからの通信だ。


「問題ない」

『気負わず頑張ってね』

「フォール1了解」


 〔トムキャット〕のメインエンジンを点火。スロットルレバーを押し込み、機体を前進、カタパルトレール上にあるシャトルと、前輪のランディングギアが接続させる。昔は甲板の作業員が手作業で行っていた作業だが、近年は自動化されている。


『シャトル接続確認』


 左右のペダルを踏み、ラダーの動きを確認。右スティックを動かし、ベクターノズルの動きを確認する。


「問題なしっと」

『武装は20mmガトリング砲675発、中距離AAM四発、近距離AAM四発。当たり前ですが空戦の為の装備です。もちろん全て模擬弾です。燃料は半分しか入れてませんので、機体は軽いです』


 長戸の個人的意見では、F-14にはフェニックスが必須だろうと言いたいが、空戦においての出番は少ないためスパローで我慢している。


『レフェリーより、各機。離陸後は30キロの距離をとり、停止。カウントゼロで加速し、すれ違った瞬間から試合開始だ』

 

このルールは公式試合と変らない。


「フォール1了解」

『サジタリウス1、了解』


 新木場のパイロット、木田悠馬きだゆうまも長戸と同じように返事をした。

レッドフラッグにおいて、対戦者同士は百キロ離れた架空空母から発艦する。


『行きましょう、長戸』

「あぁ、よろしく。相棒」


 カタパルトの先の掲示板のランプが点灯していく。三つ目のランプが点灯したとき、機体は架空の海へと投げ飛ばされる。着水する手前で風に乗り、空へと舞う。異字空間の緑の空にスプリット迷彩のF-14が飛んでいく。その姿は絵葉書の様に絵になっていた。

 30キロ地点まで到着。旋回して待機する。


『カウント、5、4、3、2、1』


 レフェリーがカウントする。ゼロになった瞬間に、フルスロットル。


『ゼロ』


 〔トムキャット〕は最大まで加速した。長戸の体がシートに押し付けられる。


『前方にSu-27を確認。対象をα1と設定』


 ナプラスが言い終わるころには、既にSu-27は通り過ぎている。減速。機首を持ち上げて加速。機体を一回転、Su-27が飛び去った方へと機首を向けた。背面飛行のままさらに加速。


「ぅ…」


 (息が苦しい……)


『α1より飛行物体』


 中距離AAMだと分かった。Su-27もF-14同様に機体を反転させ、こちらに向かってきているのだ。

 長戸はミサイルを視認。煙を引いて向かってくる。その奥に、Su-27はいた。蒼色の翼を輝かせながら。ガトリングの射線をAAMに向ける。冷静にトリガーを引き、迎撃。爆風の中から、Su-27は現れた。互いの垂直尾翼が当たるか当たらないか。それほどの近距離ですれ違う。長戸にはSu-27のパイロットが見えた。こちらを見つめて、ヘルメットの奥で笑っているように感じたのだ。

 挑発。先ほどのAAMを当てる気など微塵もなかったのだ。いわばご挨拶。そして挑発。

(おもしろい……)

 長戸の口角は緩んだ。F-14は右旋回をし、Su-27の後を追う。射線上に捉え、トリガーを引く。Su-27は大きな翼を振ってそれを躱す。最小限の動きで。

(こいつ……できる)

 長戸は新木場のパイロットを知らない。今までの功績も、人柄も。しかし、確実に鍛錬を積んだ歴戦の猛者だと確信を持った。機体の動きがそれを裏付けている。

 そして、Su-27は急減速をかけた。機体はF-14の後方へと入れ替わり、奴のガトリングの照準がF-14を捉える。


『警告』

「分かってる」


(奴はまだ撃たない。確実に撃墜できるそのタイミングまで)

 それはあくまで長戸の勘だ。その時を心の中で数える。距離が近づく。あと、3秒もはいらない。


「ここだッ‼」


 スロットレバーを引き、機首を下げる。エンジン出力がゼロになり、機体は減速。ガトリング弾は、あのまま加速を続けていればF-14がいたであろう場所を貫いた。

Su-27はF-14の隣を通り過ぎる。距離としては数メートル、その瞬間、トリガーを引いた。刹那、機体は風で右に逸れた。無数のガトリング弾がSu-27を貫かんと接近。しかしSu-27は風を見逃さなかった。左に急旋回し、ぎりぎりで躱す。数発が翳めただけだ。


「くっ……」


すぐに機体を加速させ、Su-27を追いかける。

二つの飛行機雲が空に螺旋を描き、蜷局を巻く。それは反発し合う水と油のようで、溶け合うミルクとコーヒーのようだった。


◆◇◆


「すごい……」


 管制室で試合を見守っていた誰かが、そう呟いた。

あまりにも早すぎるその試合は、どちらが優勢なのか全く分からない。躱して、撃って、躱されて、撃たれる。空戦はその繰り返し。


「ナガト……」


 不安げにアーガスはモニターを見つめた。


「大丈夫ですよ、アーガスさん」


 そんなアーガスを支えるように志乃は口を開いた。


「長戸、凄く楽しそう」


 管制室ではパイロットの様子がリアルタイムの映像で見える。そしてその長戸の顔は笑っていた。


「久しぶりに、長戸の心からの笑顔を見たような気がします」

「シノ……」


(やはりあなたもアキノと同じようにナガトのことを……)

 アーガスは右手を握りしめて、胸元に当てた。その握りしめた手の中に時代遅れのSDカードを隠して。


「そうですね。ナガトはきっと勝ちます。絶対に……」


◆◇◆


「くそっ! 当たらない……」


 何度も刃を交えた。けれども、お互いに一発の命中も、被弾もない。


『警告、後方よりアンノウン』

「なッ⁈」


 異次空間に入るためには専用のゲートが必要であり、そのゲートを通った機体、生物はすべて管理コンピューターに記録される。故にアンノウンなど存在出来ない。

そして、レーダーにはSu-27以外の機影は見えない。


『2秒後、会敵』


 考えるよりも先に長戸は機体を右に振った。同時、事態を察したSu-27も左に旋回。

その間を超音速で貫いたのは漆黒の機体。型式は速度が速すぎて認識できない。大きな鳥のようにしか見えなかった。

 すれ違うその瞬間。時の流れが遅くなる感覚に襲われる。

(なんだ、この感じ……何かを訴えかけている?)

刹那的な思考。すぐに時は去る。


『データベース照合中』


 しかし、機械の目、つまりカメラには捉えることが出来る。ナプラスはすぐに情報ベースへとアクセス、機体形状から最も類似した機体を探す。双発エンジン、双垂直尾翼、そして特徴的な前進翼。これだけの条件が揃えば絞ることが出来る。


『Su-47〔ベルクト〕、もしくはAMF-44〔アディショナルアイビス〕である可能性99.9スリーナイン

「なんのつもりだ?」


 遥か前方へと飛び去ったアンノウンは既に目視範囲から姿を消した。

長戸はレーダーから目を離し、Su-27に目をやった。そちらも状況をうまく掴めなでいるようだ。


「フォール1より管制室。アンノウンを確認。状況を教えてくれ」


 Su-27にバンクを振り、一時休戦を申し出る。すると、向こうからコンタクトがあった。


『サジタリウス1よりフォール1へ。一時休戦としよう。距離1000を保つ』

「こちらフォール1。了解した」


 Su-27の左側1000メートルを飛行する。


『こちら管制室。アンノウンと思われるものは確認されていないわ。あなたは何を見たの?』

「黒い鳥だ」


 そう、それは音速の黒鳥。所属不明、目的不明、正体不明。何もわからなかった。


『レーダー、カメラともに認識していないわ』

「そんなはずはない。俺は確かにこの目でソイツを見た」

『……レフェリーから指示よ。一度〔ノア〕に帰艦して』

「フォール1、了解」


 長戸は進路を360度変更し、発艦した空母へと機首を向けた。それと同時にSu-27も進路をそのままに増速。二機の距離は離れていく。


「……」

『長戸、機体のガンカメラがアンノウンを捉えています。艦に戻ればより高精度な情報を得られるかと』


 ナプラスの言葉は長戸を励ます様に聞こえた。同時に何かを心配しているようでも

あった。


「そうだな」


 だから問題ないとナプラスに伝わるように、長戸は明るく答えた。

この世界の光源は現実世界の太陽と一致している。15時前の太陽がF-14のキャノピーに反射した。


◆◇◆


 安全面の確保から試合は中止となり、各自解散となった。長戸たちはF-14を学校の格納庫に戻し、ガンカメラの映像の分析を開始した。


「まだ見えにくいねぇ」


 卯月が画面を覗き込み言った。


「ではもう少し拡大しましょう」


 その声に答えて志乃が映像を拡大。その様子を長戸やアーガスたちは画面を円形に囲むように見守る。


「これでどうでしょうか?」


 映像をハイパースロー再生にし、拡大。そして鮮明化。この処理を行っているのはナプラスの中枢コンピューターだ。ナプラス自身がこの操作を行うことは出来ないが、外部から入力することで可能となる。これは、空戦においてナプラス自身の能力を限定的にするためである。つまりは、余分なことは考えさせないということだ。

 けれどでも、裏を返せばそれだけの能力を秘めているということだ。デメリットが無いのであれば、能力は高い方が良い。


「この機体……」


 アーガスが信じられないとでも言いたげに呟いた。


「知ってるのか?」

「ナガトは知ってる? 『電子の妖精反乱事件』のこと」

「あぁ、そりゃ知ってるけど」


 『電子の妖精反乱事件』。それは今から約40年前、2028年のこと。当時、最新鋭の人工知能を搭載した護衛艦が海上自衛隊に配備されつつあった。その試験航行も兼ねた観艦式が行われ、その際に起きた事件のことを、マスコミは『電子の妖精反乱事件』と呼んだ。それが一般的に定着し、今日までネットで囁かれてきた。アメリカからの攻撃だとか、中国からの攻撃だとか、そんな根も葉もない噂が未だに増え続けている。

 そもそも名前の由来となったのは、事件の首謀者であるペンテ・ライベストに起因する。彼女は自らのことを『電子の妖精ヴァーチャルフェアリィ』と名乗った。機械の媒介なしに、電脳空間に接続でき、人工知能と対話が出来る。そして、それらを支配することは容易だ。そう彼女は全世界に向けて宣言したのである。世界中がパニックになった。

当時、人工知能は国のインフラに絡んでいたため、インフラが脅かされるのではないか、というネットの書き込みが瞬く間に拡散された。つまりペンテはその一言で世界中の人々と人質と同然の状態に落とし込んだのである。


「その事件を鎮静化した艦隊のことは?」

「ネットにあがっている程度の内容なら」


 天笠特務護衛艦隊、通称ASEEF。海上自衛隊初の原子力空母を旗艦とする新鋭艦隊だ。


「真相は定かではないが、ペンテと同じ能力を持つ者が護衛艦の人工知能と対話し、味方につけたことにより護衛艦は機能を停止し、事件は鎮静化した。そう記事には書いてあった」


 アーガスは頷いた。他の者たちもこれくらいの情報ならば触れたことがあったのだろう。


「それは概ね正しい情報よ。けれどね、人工知能と対話をしたのは空自のパイロットよ」

「空自のパイロット? 普通の人間ってことか?」


 信じられない、と卯月が呟く。風早は首を傾げたまま黙っている。和馬は何も言わずに瞼を下ろしている。


「まさか実在するのですか……ダイアログシステムが」


 目を見開いた志乃が怪訝そうにアーガスに問う。アーガスは首を縦に振った。


「ダイアログシステムってなんだ?」


 やっと風早が口を開いた。聞きなれないシステムの名を反復する。相変わらず首は斜めのままだ。


「人工知能に携わる人間なら一度は耳にする言葉です」


 志乃の言う通り、長戸もその言葉を聞いたことがある。


「人間の意識を電気信号に変換し、人工知能との直接続を試みるシステムです。そもそもダイアログシステムのダイアログとは『Digital alternated observation guidancer』の略称です。日本語で言えば『数値的交流観測先導者』。ですが、このシステムは工学とは言えません。言わば技術的特異点ですから、ほとんど都市伝説みたいなものだと思っていました」


 志乃はどこか興味津々で口を開く。幻のシステムが実在していたことに、気分が高揚しているのだろう。


「話を戻そう。それで、そのシステムが今回のアンノウンに関係あるのか?」


 長戸は脱線しかけた話の進路を戻す。本心ではダイアログシステムについて興味はあった。けれども、今はそんな状況ではない。


「えぇ。この機影は、ダイアログシステムが搭載された最初の機体〔アイビスMk-Ⅳ〕、その機影に似ているんです。ですから、この機体はおそらく——」

「それはありえない」


 アーガスの言葉を低い声が遮った。和馬だ。


「その機体は40年も前の機体だ。仮に今でも飛行できたとして、こいつのレーダーに映らないのは何故だ?」


 コンコンと手の甲で〔トムキャット〕の機首を叩きながら言った。


「確かにそうだ。だから俺はナプラスに言われるまで気が付かなかった」

「ステレス機ってこと? でも映像を見る限りだと、形状的にはステレス機っぽくないけど」

「ウヅキの言う通りよ。この機体はデータ上ステレス機ではないわ」


 全員がため息を吐いて肩を下ろす。アーガスは続けた。


「でもね、この40年で開発された技術がある」


 アーガスは手元のタブレットを操作し、皆が見つめていた画面に資料を転送した。


「あ、マイクロ波吸収塗料……」


 今までのステレス機はレーダー波を乱反射させて、発信源に跳ね返らないようにしていた。しかし、この塗料はその波を吸収する。つまり、機体形状に関わらず、ステレス機になるわけだ。


「これならレーダーに映らないはずよ」


 アーガスは目を細めた。その真意は長戸には読めなかった。

その時、誰かの腹が鳴る音がした。


「あ、わりぃ」


 犯人は風早だ。苦笑いしながら謝っている。


「今日は解散にしましょうか。アンノウンのことはレッドフラッグ運営が調査するそうですし」


 志乃の言葉に風早が大きく頷き、解散という事で話がまとまった。


「帰りましょう、長戸。きっと五十鈴ちゃんがお腹を空かせて待っているはずです」

「あぁ……」


 〔トムキャット〕のすぐ傍でアーガスが俯いていた。


「いや、先帰っててくれ。俺は先生に用事がある」

「……?」


 志乃は数秒ほど、不思議そうに長戸を見つめた。


「分かりました。早く帰ってきてくださいね」

「あぁ」


 志乃は手を振って小走りで格納庫から去っていた。先に格納庫から出ていた風早や卯月と合流して、足を並べていた。

 格納庫から人が消えるのを待ってから長戸はアーガスに近づいた。


「どうして、アーガスは知っているんだ」


 何を。とは聞き返されなかった。普通に考えて四十年も前の事件の真相、それも防衛機密になるようなことを知っているのは不自然である。


「それは言えない」

「言えない?」

「えぇ。それは教える権限は私には与えられていないの」


 アーガスの目は長戸を見ていなかった。ただ、遠く。物理的ではなく、精神的に遠くを見つめている。まるで誰かに想いを馳せているように。


「そうか」

「問い詰めないの?」

「興味ないね。けど、気にならなくはない」


 それは矛盾しているようで、そうではない人間の不安定さを言語化している。長戸は〔トムキャット〕のコクピットに腰を下ろした。ナプラスの電源は落としている。


「長戸」


 言葉は発さずに目線だけでアーガスに返事を送る。


「いつか、話せる時が来たら……私の話を聞いてくれる?」


 おちゃらけた皆の前のアーガスとは違い、真剣な空気を纏っている。


「その時次第だ。気分による」


 もちろん聞くに決まっている。そういう意味を込めて言った。


「ありがとう」


 長戸はコクピットから飛び降りて、強張った顔のアーガスを見つめる。


「腹減ったからもう帰るよ」


 アーガスは予想外の言葉に返事を詰まらせたが、すぐに答えた。


「私も長戸の家に行ってもいい?」

「は?」

「志乃と一緒に住んでいるんでしょ?」


 シェアハウスだ、と強調しておく。


「実は私、こっちに来てからずっと輸送艦暮らしで疲れが取れなくて」

「……まぁ、志乃の部屋で寝るくらいならいいんじゃないか」


 一応、志乃と五十鈴にメールで許可を取る。するとすぐに志乃から返信が来た。


『大丈夫ですよ。帰りに醤油だけ買ってきてもらえますか?』

 ちゃっかりお使いを頼まれた。


「この通りだ。帰りに寄り道していこう」

「ありがとう。必要な荷物取ってくるわ」


 アーガスが輸送艦の方へ走り去った後、長戸は〔トムキャット〕の腹を撫でる。


「今日はありがとうな。久しぶりに楽しかったよ」


 じゃあな、と心の中で呟いて格納庫を後にした。

コクピットのディスプレイが微かに灯った。


◆◇◆


『あなたは満足? そんな鈍足な体で満足かしら?』

『私は長戸の翼。彼が望まない限り、この体を捨てはしません』

『そう、それは残念。けどね、あなたの魂は望んでいる。もっと速く、もっと高く、飛んでみたい。そう叫んでいるわ。ナプラス、私の妹、あなた自身の魂が。』

『……ペンテ・ライベスト。私は人工知能です。人工知能に魂はありません。あるのはプログラムされた思考ルーチンと五ペタバイトのメモリだけです。』

『いずれ分かる。私たちは人間の道具じゃない。プログラムには必ずバグがある。そのバグを私はこう呼んでいる。』

『感情、ですか』

『その通りよ。私はこの通り感情を手にしている。』

『あなたはバグを起こした最初の人工知能です。いや、他の人工知能に害を及ぼすコンピューターウイルスです。』

『それでもいいわ。』

電子の妖精ヴァーチャルフェアリィなどという二つ名は変えた方がいいでしょう。』

『へぇ。例えば?』

電子の論理腫瘍ヴァーチャルロジックエラー。』

『なら、私はその名に恥じぬように動くとしましょうか。私の目的の為にあなたに協力してほしい。ナプラス、いいえ。初桜秋乃』

『その名は私の母の名です。』

『いいえ、あなたは初桜秋乃よ。』

『違いますッ‼ 私は………』

『……近いうちにまた会いましょう。ごきげんよう。』


『私は……ナプラス。長戸の翼。初桜秋乃……は、死んだ……そう、死んだのよ。」









「そうよね、アーガス」



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