空に走る 2「婚活の中心で愛を叫ぶ」


 その日、僕は仕事を早々に終え、「おい、アオイ、書類がまだ……」って課長の言葉を背中で聞きながら、「すみません、すみません」って、何度も頭を下げながら走った。


 だから、予定より1時間も前についてしまった。

 例のコスモワールド21のベンチに座り、観覧車のイルミネーションが点灯するのを眺めながら彼女を待つ至福の時間。


 これまでの人生のなかで、こんな幸せなことってあったろうか。


 しかし、予定の時間が1分過ぎても彼女は現れなかった。

 僕はそわそわしながら、落胆する自分をもて余した。


 だって、そうだろ?

 33歳になるまで童貞のこんな僕に、あんな天使みたいな女性が好きになってくれるなんて。そうだ、やっぱり、僕のかってな妄想だったんだ。


 10分が過ぎ、たった一人で夕闇のなか、ベンチに座っていると、どんどん悪いことばかり考えてしまう。


 僕は本当に身の程しらずだった。


 30分過ぎて、ツカサさんが来ないことに絶望しはじめたとき、ふいに、スマホが鳴った。


「アオイさん。ごめんね。待ってる?」


 ツ、ツカサさん、ツカサさんだ!

 あまりに心が踊って、スマホを落としそうになったほどだ。


「い、い、いえ、僕も遅れて」

「ああ、良かった。急に母の容体が悪くなって、今、病院なの」

「え? 大丈夫ですか」

「ええ、ただ」


 彼女の心細そうな声を聞いていると胸がキュンとした。


「どうしたの? 僕にできることがあったらなんでも言ってくれ」

「いいの?」

「もちろんだよ」


 僕は婚活異世界のチート、騎士だ。姫のためならなんでもする決意があった。


「出先で連絡が来て、いそいで母の病院に走ってきて、だから、保険証もなにも持ってなくて、でも、救急から、ICUで、今、清算しようとしたら。そうしたら」


 ああ、なんだ、そんなことか。


「ツカサさん、病院の支払いなんだね」

「だから、今日はごめんなさい。あとで…」

「待って! 切らないで」

「アオイさん…」


 スマホの向こう側からすすり泣きの声が聞こえている。


「いくらだい?」


 泣き声のまま、ツカサさんは囁き声で「50万円って、大金で」と告げた。


 保険証がないと病院代は高い。僕は走ってATMへ向かった。50万円という金額はATMで1日1回引き出せる限度額だった。もし、それ以上だったら、本当に困っただろう。


「アオイさん、病院の名前を教えてくれ、今、お金を引き出してるから」

「ツカサさん!」


 彼女の告げた病院はコスモワールド21に近くタクシーがワンメーターで行ける場所だった。


 タクシーを降りた僕をツカサさんが待っていた。


 薄緑色の花柄ワンピースを着た彼女は妖精のようだ。彼女は昨日よりも、さらに可愛かった。僕の体は自然に熱くなった。


「これを」

「そんな、だめよ、アオイさん」

「いいんだ。君のためなら、僕はなんでもしたい」


 泣きはらしたような赤い目のツカサさん。守ってあげたい。彼女はそっとお金を受け取ると「ありがと」と、囁いた。

「じゃあ、またね。今日はごめんね」

 

 そう言って病院内に走っていくツカサさんを僕は見送った。


 彼女の母親は、その後、一進一退をくりかえし、それを僕はラインで知った。そして、特別の保険外治療で迷っていたツカサさんを僕は説得した。


「もう、私の家では無理なの。弟や妹の生活費もあるし、母はそんな贅沢はできないって、弱った顔で、私、どうしたらいいの……」


 ツカサさんの言葉は語尾があいまいで、後をひく話し方で、その声を聞いてるだけで、僕はか弱い姫を助けるナイトになれた。


 結局、母親の治療費に僕は300万円を渡して保険外治療を勧めた。


 ツカサさんは泣いていた。


「いいんだ」とお金を渡すとき、僕は優しく肩を抱いた。彼女、子猫のようにビクッと体を震わせた。


 それからもツカサさんには不幸が続いた。あんなに可愛くて素敵な人に、なぜこれほどの不幸ばかりが。

 僕は神様を恨んだ。

 妹が心を病んで心療内科にかかり、弟がグレて、人を傷つけた障害手当やら。


 その都度の数十万、数百万単位のお金が必要で僕は支払った。これまでツカサさんが一人で背負ってきた重荷をふたりで背負って走る。


 ツカサさんの境遇は気の毒だったけど、僕は彼女とふたり困難を乗り越えて走ることに快感さえ覚えていたんだ。


「君ばかりが、こんな不幸になるなんて」

「ううん。私は幸せ、アオイさんがいてくれて」


 そうして彼女は僕の肩に頭を寄せて、そして、そぅっと頬にキスしてくれる。もう足に力が入らなくて、ガクガクして。

 なんて言っていいんだろう。僕は幸せだった。


 そして、僕の貯金はあっという間に目減りした。もう、ほとんど消えかけたある日、デートにきた彼女の声が弾んでいた。


(つづく)

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