1年半前・折れる音②



「公爵令嬢ともなれば、当然か。僕もそろそろ、婚約者を立てたいんだがな」

「え……」

「ああ……すまない。独り言だと思って、聞き流してくれ」


 ジョゼフは、そう言って少し照れたようにはにかむ。


(婚約者を立てる……? まさか)


 思い浮かぶのは、焦げ茶色の髪を揺らす彼女。


(うそ、そんなの、どうして……?)


 心の中に、否定したい気持ちや疑問が湧き上がる。けれど、そんなの聞かなくとも本当はわかっている。私がどれだけ、ジョゼフの顔を見てきたか。隣で、愛しい人の表情をどれだけ。


 彼が、あの人に恋をしていることくらい、本当はずっと……。ずっと、わかっていたはずだ。


(わ、わかっては、いても、わかりたくない、こんなの)


「女性は、どのように縁談を申し込まれるのが嬉しいのだろうか。あいにく、そういうことに疎くてな。ここで会ったよしみで、どうか助言をもらえないか」

「…………そう、ですね」


 声が震える。なんて、ひどい人。なんて、残酷なことを聞くのだろう。

 婚約者である私にそれを聞いて、いったい誰に申し込む気でいるのだろう。


「君は、婚約者にどう縁談を申し込まれたんだ?」


 魔力の欠片が照らす、愛しい人を見上げる。思い出すのは、幼い彼の言葉。


 ――『ジョゼフ・リー・リードだ。きみのことをしょうがいかけて大切にするとちかおう。みらいのはなよめどの』


 あの日、拙い口調で誓った彼に、私は恋をしたのだ。


「……生涯をかけて大切にすると、誓ってくださいました。まっすぐに私を見つめて、真摯に、誓ってくださったのです」

「生涯をかけてか……。実に誠実な言葉だな」


(あなたが、言ったのよ)


 いや、違う。きっと、もう目の前の彼ではないのだ。あの日、私を生涯をかけて大切にすると誓ってくれた彼はきっと、もういない。


(いないんだわ……)


 半年かかって、ようやく理解をする。


 私と過ごした日々を失った彼は、もう私の知る彼ではない。いくら彼の中に私の居場所を求めても、もうその席にはきっとユリが腰掛けてしまっている。


 どれだけあがいても、しつこく食い下がっても、二度と元居た場所には戻れないのだ。そしてたとえ、戻ったとしても、その時の彼は私の知るジョゼフではない。


 だって私が好きだったのは、求めているのは、あの日私に生涯を誓ったジョゼフだ。一緒に長い時を過ごし、時には兄のように慕い、時には喧嘩をし、意識をしたりして過ごしてきた彼だった。


 私を忘れ、別の女性に恋をしている彼ではない。


 いきついた結論に、思わず自嘲じみた笑みがこぼれた。


(だめね、私。ずっと期待をしていたんだわ)


 物語のように、愛の力で彼が記憶を取り戻すことを。再び恋をしてもらうなんて、そんなことを言っておきながらずっと、期待をしていたのだ。


(現実は、物語のようにはいかないのね……)


 小さく息を落とし、立ち上がる。私を見上げたジョゼフに、ひとつ問いかけた。


「……殿下は、いま幸せですか?」

「? そうだな……」


 突然の問いかけに不思議そうにしつつ、ジョゼフが少し思案する。そして柔らかく微笑んだ。


「幸せだよ」

「……そう、ですか」


 ——『僕の幸せは君なしでは考えられない』


 かつての彼の言葉を思い出し、無理やりに笑みを作った。


「それでは殿下、私は先に失礼いたします。どうか、素敵な夜を」

「ああ。おやすみ」


 愛しい人に、背を向けた。瞬間、涙があふれだす。ぼろぼろとこぼれる涙を拭わずに、まっすぐと寮へ向かって歩く。


 まるで、走馬灯のようにジョゼフとの日々が頭の中を巡っていた。どれも、どれもが幸せな日々。ジョゼフがいたから、私は幸せだった。


 そんな日々が、ずっと続くと思っていた。一緒に学園に通い、図書館で勉強をしたり学園祭をふたりで回ったり、時には空き教室でこっそりキスをしたり。そんな風に思い出を積み重ね、学園を卒業したら王太子と王太子妃として、この国を共に支えていくのだと思っていた。


 そしていつかは家族を増やし、幸せを分かち合いながら、生涯を共にするのだと。


 誰かに見つかってしまうことなど、もうどうでもよかった。それよりも早く自室に戻りたくて、早足で静かな廊下を駆けて、勢いよく自分の部屋へ飛び込んだ。そのまま、ずるずると床に座り込む。


「うっ、く……っ」


 視界を遮るほどの涙が溢れる。目をつむると愛しい人の姿ばかりが浮かんで、一向に涙が止まってくれる気配はない。


(ああ神さま、もしもいるならば、どうか私の記憶も消してください)


 心の中の特別な場所で、ずっと座り続ける彼を。溢れんばかりの思いを全て、彼のように消し去ってほしい。そうすればこんなに苦しい思いをしなくて済む。


 これからの人生を、彼なしで歩むなど考えられない。明日から、どう生きればいいというのか。


 情けない考えばかりに包まれて、自分が嫌になる。


(いいえ、もう記憶だけでなくて構わない。私のすべてをどうか、消してください)


 いるかもわからぬ神さまに願う。けれど、願いもむなしく、私の心は彼を想ってじくじくと痛み続けるばかりだった。



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