1年半前・折れる音①



 夕方に眠ったせいか、真夜中になっても何故だか寝付けなかった。ベッドの中で寝返りを打ちながら、ぼーっと窓からの月を眺める。


 こんな夜は、ジョゼフたちの入学前夜を思い出す。バルコニーから会いに来てくれたレオとジョゼフ。あの日、私たちは初めてのキスをしたのだ。


(……そうだった、わよね?)


 最近、ジョゼフの思い出を振り返ると、不安になる。私のこの記憶は、本当に正しいものなのかと。もしかして、私が見た都合の良い夢なのではないのかと。


 眠れそうになくて、ゆっくり体を起こした。魔法で明かりをつけると、そのまま部屋の入り口に向かってドアノブに手をかける。


 寮の門限はとうに過ぎている。こんな時間に部屋を出るなど許されたことではない。けれど、今夜はなんだか部屋でひとりでいたくない気分だった。


 音を立てぬようにドアノブをひねると、こっそりと部屋を抜け出す。誰もが寝静まった寮の廊下は、まるで時が止まったように物音ひとつしない。


 忍び足で廊下を抜けると、私は学園寮の裏庭にある魔法の泉へとやってきた。


(なんだかここに来ると、少し元気が出る気がする……)


 噴水の枠に腰掛けて、舞い上がる魔力の欠片を眺める。こんなに綺麗な場所なのに、相変わらず私以外に近寄る人はあまり見ない。もちろん真夜中に来る人など、いるはずもないけれど。


 そんなことを思って気を抜いていると、裏庭の入り口のほうから芝生を踏む音がした。


(え……?)


 もしや、先生に見つかったのだろうか。


(ど、どうしよう……)


 隠れる場所や言い訳が頭の中を駆け巡る。けれど、結局身動きも取れぬまま、闇の中から現れたその人を、魔力の欠片が照らし出した。


 そして、ようやく見えたその顔に目を見開く。


「ジョ、ゼフ……殿下」


 彼も私がいたことに驚いた様子だった。何度か目を瞬いたあと、口を開く。


「君は……シャテルロー公爵令嬢か」

「はい……」


 どうしようもなく他人行儀な呼びかけに、涙腺が引っ張られる。駄目だと思うのに、返事とともに涙がほろりと落ちてしまった。


 瞬間、ジョゼフが驚きつつも困ったように眉をひそめた。


「どうかしたのか? あ……もしや、僕が君を咎めると思っているのだろうか。それなら安心してくれ。こちらも寮をこっそり抜け出した身だ」

「そう、なの、ですね」

「まさか先客がいるとは思わなかったよ。隣に座っても良いか?」

「……はい」


 ハンカチで涙をぬぐうと、ジョゼフが気遣うように隣に腰掛けた。久しぶりの、彼の隣。それだけでまた涙が出そうになるのをこらえる。


「君はよく、ひとりで抜け出すのか?」

「いえ……、初めてです。殿下は」

「何度かな。どうしてか、胸が騒ぐ夜がある。そういう日は、決まってここに来るんだ」


 言いながら、ジョゼフは魔力の欠片に触れる。それは、まるで溶けるように彼の指先の中へ消えていった。


「大胆なのですね」

「知られたら、叱られるだろうがな」


 心臓がはやる。このドキドキは、いったい何が原因なのだろうか。


 ただ甘くときめいていた頃のそれとは違う。一緒にいられることが嬉しいはずなのに、私はどうしてか今すぐ逃げ出したいような気持ちだった。


「君は、婚約者がいるのか?」

「えっ」


 驚いて、思わず声が大きくなる。慌てて口を覆って、震える息を吐いた。


 私の婚約者はもちろん目の前にいる彼なのだけど、そのことをジョゼフは知らない。わかっているはずなのに、いちいちこんな言葉に傷ついてしまう。


「……います」


 消え入りそうな声で答えると、ジョゼフが頷く。



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