第20話 魔法研究所、所長の娘でした
◆
「でも、どこ向かってるの?」
ゾーイの先導は迷いがなく、ラーニャは不思議そうにそう問い掛けた。ゾーイは小さく答えた。
「魔法研究所。そこに、あの子は戻って来るはずだから」
立ち止まる。ゾーイがこちらを振り向いた。
「うん、訊きたいことがあるのはわかる。だけど今は、それは関係ない。とにかく、あの子は魔法研究所にいる。それがわかれば充分よ」
答える気は、ないようだ。これは魔法研究所による依頼ではないのか。それなのにどうして彼女はそこにいると断定するのか。
「ごめん。これを知ったら、みんなが不幸になる。だから言えない。言いたくない」
そう言われてしまうと、俺はもう黙り込むしかないのだ。ラーニャはゾーイの背中にそっと手を置いた。
「終わっても教えてくれないの?」
「うん。知らない方がいいことは、たくさんある。これを知ったら、あなたたちは苦しむことになる。だから」
「わかったよ。それなら、訊かない。約束する。秘密を全部さらけ出すのが友達って訳じゃないからね」
「……ごめん」
ラーニャが微笑んだ。それからその表情を曇らせ、言った。
「だけどさ、そこはごめんねじゃなくて、ありがとうって言うとこだよ。ゾーイは悪いことしてるんじゃないでしょ?」
「……ごめ、あ」
ゾーイが俯いていたその顔を上げラーニャを見、それから思わずというように吹き出した。そしてすぐ、その表情を凍らせる。けれど彼女の感情は、ふっと漏れ出していた。
「できれば、ただの友達になりたかった。あなたと、ニールと。こんな関係じゃなくって」
「それなら約束しよ。終わったら、ただの友達になろう」
ゾーイがラーニャを見るその目が、呆気にとられたように開かれる。そしてすぐ、ゾーイは半泣きの表情になりながら、「そういうのは終わってからにしてよ」と顔を逸らす。
「でも、ありがとう」
ラーニャは笑ってそれに答えた。
「どういたしまして! それじゃ、行こうか」
「……うん」
ゾーイはこころなしか速足になっている。ラーニャがそれを小走りで追う。俺はといえば、そんな二人を眺めながら、いつも通りの足取りで歩みを進めた。
◆
「着いたよ」
ゾーイが振り返り、そしてその顔をうつむけた。
「魔法研究所。ここに、あの子はいる」
ゾーイのその言葉に、俺たちは建物を見上げた。少し大きいだけで、見た目にはただの建物にしか見えない。これ見よがしに魔法絡みの何かが置いてある訳でもなければ、周りを水路で囲まれている訳でもない。
「入れるの?」
「表からは無理。だけどあたしなら、裏から入れるよ」
そう言って、ゾーイは敷地内に入っていく。庭を通り抜け、それから何もない壁を前にして、ゾーイが何やら呟いた。ラーニャがその体を震わせた辺り、恐らくは相当強力な魔法なのだろう。ただし、俺にはわからない。
「一時的な魔法の無効化。急がないとまた入れなくなるよ」
ゾーイが扉を開く。俺たちはそれに続いた。扉が閉じると、辺りは闇に包まれる。
「明かり、つけていい?」
「ご自由に」
ラーニャの問い掛けにゾーイが頷き、ラーニャは小さな炎を灯す。ぼんやりと辺りは照らされ、俺たちは辺りを見回す。
「敵がいるとか、そういうことはないんだな?」
「まだ、ここにはね。だってただの入り口だよ」
そう言いながら、ゾーイがかちりと何かをならす。と、辺りに明かりがついた。ただのスイッチだ。
「魔法で閉ざされてるからといって、大切な何かが隠されている訳じゃない。ここをまっすぐ行けば、普通に表口から行けるエリアだよ。そこにしか行けない。……普通ならね。万が一の避難ルートでしかないの。で、あたしたちは別に、隠されたエリアに向かう必要はない。向こうも気付いてるよ、あたしたちの、正確には、ラーニャの侵入を。だけど、全てが敵じゃない。敵は、一部だけ。味方もいる。ただ、大乱闘になる前に、あの子は仕掛けてくる。あたしたちはそれを、迎え撃たないといけない」
「内部分裂?」
「って程でもない。大部分は何も知らないから」
「じゃあ中で仕掛けてくるのか? 喧伝はしないと思うが」
「必ず来るよ」
それにかぶせるようにして、ラーニャの方から、小さな悲鳴が聞こえた。俺たちはそちらを振り返る。
「離れてっ!」
ラーニャが魔法を唱える。ラーニャの周りにはしかし、何もなかった。
「幻覚よっ!」
ゾーイが何やら唱えた。これは魔法の無効化だろう。さっき聞いた文言が聞き取れた。ラーニャははっと顔をあげ、それから辺りを見回す。
「今、襲ってこられた……」
「それは幻覚。だけど、幻覚に怯えるのをやめたら駄目ね。本物がいつ紛れ込むか」
「これが揺さぶり?」
「ええ、そうよ。だけど、そんなまどろっこしいことはそうそう何度もはしてこない。手っ取り早く、ラーニャの命が欲しいはず。あたしたちを魔法で隔離して来ると思う」
「そんなこと……」
「できる。だけどただではさせない。フィールドの設定に干渉して、あたしたちに最低限、不利にはならないようにする。これでウィンウィンよ。後はもう、真っ向勝負しかない」
「……わかった」
「来るのは間違いなく今。それがわかっているだけ、こちらに有利よ」
そう言うと、ゾーイは黙り込む。ラーニャも目を閉ざした。呼吸の音すら聞こえるような静寂の中、俺だけが周囲を見回して、二人は精神を集中させている。
と、不意に世界が切り替わる。突然、スクリーンに全然違う映像が現れる。いや、これは現実だ。
「来た。ごめん、有利には運べなさそうね」
ゾーイの言葉に、俺が応えた。
「不利じゃないだけいいだろ。んじゃ、やろうぜ」
ラーニャも目を見開く。周囲を見ると、そこは草原のようだった。周囲に遮るものは何もない。敵がいるなら、すぐに見付かるはずだ。
ラーニャが何かを唱える。ゾーイが「魔法消去。今のラーニャの魔力なら、相手を隠す魔法は消せるけど、このフィールドは消えないから」と補足した。
「あたしがやると、フィールドごと相殺しちゃう。それじゃ駄目なの。ここで決めないといけないから」
「なるほどね」
視界が揺らぎ、そこには例の少女が立っていた。彼女の表情には、先程の陰鬱はなかった。
「お前になんの事情があるのかはわからんが」
俺はそう、彼女に言った。
「例えそれが同情すべきものだったとしても。ラーニャを、殺させはしない」
「……そっか」
彼女は一言、そう呟くと、その瞬間、辺りに炎が巻き起こる。ゾーイがそれを、すぐに鎮火した。攻撃対象たるラーニャが、愕然としていた。
「あたし……今、燃やされかけてたよね」
「このぐらい素早いバトルになるよ。ラーニャも」
ゾーイが魔法を念じ、あの子の剣がはじけ飛ぶ。彼女はそれを追い、振り返る。そこをラーニャの魔法で生まれた雷が撃った。あの子はすんでの所でそれを防いでいたようだが、俺はその隙を突いて走っていた。
狙いは剣。俺は戦力外もいい所だが、せめてこのぐらいは回収したかった。恐らく彼女は、俺を殺しはしないはずだ。虚を突かれた彼女が一瞬立ち尽くす間に、俺はその剣を拾い上げる。
「さて、これで丸腰だぜ。まあ、魔法があるんだろうけど」
彼女はきっとこちらを睨み、それからその手を一閃する。俺はそれだけで、抗いえない程の眠気に襲われた。そういう魔法もあるのだろう。
「ゾーイ……頼むぞ……」
俺の役目はここまでだ。剣でしか戦えない底辺戦士に、彼女の相手は荷が重すぎる。せめて、この剣だけは返さない。俺はそれをきつく抱きかかえたまま、崩れ落ちた。
◆
とろけるような、甘美な空間。ひんやりと冷えたその剣の感覚が、俺をこの世界へと誘っていた。世界が融けていく。曖昧に境界が融けて、俺は何かと、ひとつになっていく。包み込まれて、俺は何かとひとつの意識となる。
ふと、体が燃やされる。意識の中に、真っ黒な炎がたぎっていた。俺は目を見開く。そこには、ひとりの少女がいた。ラーニャの命を狙う、彼女だ。彼女は膝を抱え、うずくまり、声を殺して泣いていた。
「なあ、おい」
言いかけて、俺は彼女の名前も知らないことに気がつく。当たり前だ。彼女は敵なのだから。だけど、彼女のその涙を、俺は放ってはおけなかった。だって、知っているから。彼女の殺しは、本心ではないことを。
今や俺は、確信していた。これは、彼女の意識の中だ。剣に導かれて、俺はここにいるのだ。
「おい、大丈夫かよ」
彼女は顔をあげない。俺の脳内に、声が響いた。
――無駄だよ。この子には、誰も干渉できないから。私は、見せてるだけだから……。
辺りを見回す。少女と、それを囲む真っ黒な壁を除き、ここには何もなかった。声の主はどうやら、剣そのものらしい。
「私は……この子の剣の中にいたんです。しがみついてた、って言った方が正しいかもしれないけど……」
「事情を、知ってるんだな?」
「はい……。あの、ごめんなさい。この子が、こんな……」
「謝ってもらう必要は大いにあるが、それは今はどうでもいいんだ。こいつを、止められるのか?」
「いえ、無理……だと思います。この勝負で、この子が勝つ可能性は、高いと思ってます。強いし……今のこの子は」
うずくまっている少女は、ふと呟く。
「生き返り……」
俺はそれを聞きとがめ、振り返った。そう。それが鍵になるのだ。だが彼女は、またその顔を埋める。俺は諦めて、俺にこの光景を見せている少女に問い掛けた。
「それで、お前はなんて言うんだ?」
「私の名前は……」
彼女はそこで息を呑む。そんな声が聞こえた。しばしの沈黙の後、彼女はそっと囁いた。
「アリス。魔法研究所、所長の娘でした」
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