3章 魔法

第7話 聞いたよ、転校生だって

  ●


 外の陽射しはうららかで、私の心情なんか歯牙にもかけてはくれない。穏やかな陽気は、私の荒んだ心にはしかし、届かない。

 このまま辞めることも考えていた仕事に、こうしてまた戻って来た。

 娘は病室で眠っている。その瞼を開いたことは、未だない。

 原因はわかっている。今はどうにもならないことも、わかっている。

 けれど私は、その原因を取り払えるかもしれない。魔法の研究を進めれば、あるいは。

 今までにもそれが研究されたことはあった。そして今、私たちが研究していたのもそれだった。それを、娘が死ぬ前に完結させれば、娘を救える。

 やるしかない。魔力移植を可能にするより他に道はない。

 私は、今まで以上に研究に打ち込んだ。研究の端緒は、既に掴んでいたのだ。魔力を移すという研究は、後数年で完成する段階にいた。

 それを、今すぐに成し遂げなければならない。私は、寝食も、看病も忘れて、仕事に打ち込んだ。


  △


 悪夢は見た。けれど、それはどこか、遠かった。少なくとも、前程の生々しさはなかった。もちろん、何かを掴めることもなかった。

 起きたら、ミリアは朝練をこなしているのかいなかった。さすがだな、と思う。たぶんミリアは、あれを苦にしていない。本当に尊敬だ。二人ともあたしの才能を誉めるけど、たぶん一番凄いのは、ミリアだ。この努力という才能には、たぶん、勝てない。

 あたしは、ふああとあくびをして、リビングへと向かう。それから、ママさんを見付け、声を掛ける。

「何か手伝いましょうか」

「あ、じゃあお願いするね。お店のテーブルの、拭き掃除をお願い」

「わかりました」

 布巾を受け取り、あたしはそれを手に取って、店舗部分へ出て行った。それから、いくつかのテーブルをそれで拭く。その必要性を感じないぐらいには既に綺麗だったけれど、それでもあたしは丁寧に拭いた。

 洗面台で布巾を軽く洗い、それからリビングに戻ってママさんに手渡した。

「ありがとう、ジルちゃん」

「このぐらい当然ですよ。っていうか、もっと何かすべきじゃないかって」

「まあ、もちろんこれからは色々と、手伝ってもらうよ。当たり前の子どもがするぐらいには忙しいんじゃないかしら」

「本当に、お世話になります」

「いいのよ別に。さ、そろそろミリアが帰って来るから、食器運ぶの手伝って」

 あたしは言われるままに、料理をテーブルに並べて行く。匂いからして既においしそうだ。

「ただいま。あ、おはよ、ジル」

「おはようミリア」

 ミリアが、額の汗を拭って、それからどかっと自分の席に座った。

「いっただっきまあす」

 それからミリアは、凄い勢いで朝食を呑み込んで行く。だいたい慣れたから、あたしはそれを無視して、自分のペースで食べることにした。

 やっぱり、おいしい。少しずつ慣れて来たとはいえ、まだ感動は色あせない。ゆっくりと、それを噛みしめた。


  ○


「お邪魔します」

「いらっしゃいアリス。上がって上がって」

 小脇に少し大きめのかばんを抱えて来たアリスを自室に案内する。ジルが、そのかばんを認めて、言った。

「ああ、魔法の本持って来てくれたんだ、ありがとう」

 ああ、そういえばそんなこと言ってたな、なんて思うあたしをよそに、アリスは平然と答える。

「どういたしまして。選りすぐって簡単なの選んで来たから、たぶん大丈夫だと思うよ」

 かばんから二冊取り出して、ジルに渡した。ジルがそれを見て、なるほど、と頷いた。

「わかる気が、しなくもない。読んでみないとわからないけどね」

「うん。あ、後さ、あんまりあたしがここに出入りしてると、いざジルが学校に行った時に、怪しまれると思ったんだけど……」

 最後の方で尻すぼみになるアリスの発言に、あたしは確かにそうかも、と頷く。ジルも、そこに異論はないようだった。

「転校生と、初めから仲良かったら変だもんね」

 ジルが言い、アリスも頷いた。

「だから、あたしはもう帰ろうかなって思うんだ。どうせ、昨日の時点で、今は何やってもどうしようもないって結論が出ちゃってるし」

「わかった。わざわざ来てくれて、ありがとう」

 ジルが、そうやって言う。あたしも、それを止めることはできなかった。アリスと遊ぶのは楽しいけれど、ジル問題が山積している今、楽しく遊べるとも思えないし、遊びも調査もできないのにアリスを引き留めることは、できない。

「そっか。じゃ、明日、学校で」


 アリスを送り、部屋に戻ると、ジルが魔法の本を熟読していた。邪魔するのも悪いと思って、あたしは部屋で、筋トレとか柔軟とかをしていた。力と、俊敏さ。それを両立させるには、しなやかな筋肉が必要不可欠だ。あたしに今できるのは、来たるべき時に向けて、力を蓄えることだけだった。


  △


 なるほど、そうなってるのか。

 魔法にまつわる本だが、アリスが簡単なのを選りすぐって来たと言うだけあって、スムースに理解できることばかりだった。というより、あたしは気付いた。あたしはこの内容を知っていて、理解するというよりはただ、思い出しているだけだ、という事実を。

 魔法における初歩の初歩な知識ばかり。初等魔法もいいところだ。しかし、記憶喪失から今までの間に唱えろと言われても、無理だったということもわかる。完全に忘れていた。それを今、こうやって読み返すことで思い出している。そういうことなのだろう。

 ふと顔を上げると、ミリアが筋トレをしていた。あたしは伸びをして立ち上がると、それを見下ろしながら言った。

「手伝おうか? 腹筋の重しとかにならなれると思うけど」

「あ、大丈夫だよ。ありがとジル。だけど、ジルは自分のことに集中してて。魔法と去年の勉強とやらないと駄目なんだから、時間いくらあっても足りないでしょたぶん」

「魔法は読むだけで思い出せるからたぶん大丈夫だよ」

「あ、そうなの」

「うん。忘れてるだけだったみたい」

「凄いよね、あたしより年下なのに」

「まあね。でも、ミリアの剣にはたぶん負けるよ」

「ありがとう」

 ミリアはニコリと笑う。あたしはそれを見てから、また読書に戻った。


 日曜日は、そうして過ぎて行った。そして、その日の夕食で、ママさんが言った。

「ジルちゃん、水曜から学校に行くことになったよ」

 水曜か。思ったよりも、リミットは迫っているらしい。幸い、算数は大半を終えられたし、魔法もさらっと目を通して思い出せたから、間に合わないことはないだろう。

「間に合うよね、ジル」

 心配そうなミリアの問い掛けに、あたしは頷いた。

「間に合わせてみせる。月曜火曜は、二人とも学校でしょ? その間に、済ませておく」

「頑張れ」

 半ば祈るように、ミリアは言った。あたしは、少し、微笑んでみせる。

「心配しないでよ。明日で言語学完コピして、明後日で一通り復習すれば、もう完成」

「さ、さすがだね」

「まあ、理想論だけど。でも、目算は立ってる」

「ごちそうさま。頑張ってね。お風呂用意してくる」

 そう言って、ミリアは立ち上がった。


  ○


 翌朝、あたしは学校に向かった。なんだか途方もない時間が経ってしまったような気がするけれど、時間的には普通の週末を過ごしただけなのだ。そんなことが意外で、あたしは思わず、笑ってしまう。

「おはよ、アリス」

「ああ、おはよう、ミリア」

 アリスに声を掛け、それからあたしは席に着き、荷物を整理する。それを済ませると、あたしは校庭に出て、男子たちに混ざりドッジボールをやった。

 チャイムの音で教室に戻り、それからは普通に授業を受ける。ありふれた、普通の学校の風景。

 けれど、休み時間のあたしは少し、いつもと違った。ジルが来る、ということを噂として流すのだ。あたしの従姉妹で、あたしの家に寝泊まりすることになるジル。それなのに、あたしが全くの無言では、おかしいだろう。そう思った。

「マジ? 転校生、こんなすぐに?」

 そう快活に反応したのは、フームだった。

「そ。なんか、親の仕事の都合で微妙な時期になっちゃったんだって」

「へえ。どんな奴なんだ?」

「ちょっとクールで、頭も良さそうだったよ」

「なるほど」

 そう言って、フームは朗らかに笑う。

「楽しみだな」

「明後日までのお楽しみ」

 あたしも笑って返す。フームはクラスの中でも上位の地位を築けるタイプなのに、誰とでも分け隔てなく話す、本当に正しい人だ。心配はなかったが、フームにきちんと話しておくのは、溶け込むにあたっての第一段階な気がする。

 それをジルがありがたがるかはまた別だけど。

「じゃ、また」

 休み時間が終わり、あたしはまた、日常に戻る。


 昼休み、あたしはアリスと一緒に、奇数学年の入っている旧校舎の屋上でお弁当を食べる。新校舎の屋上は六年、旧校舎は五年っていうのが、通例だった。だから大概、五年生のグループ何組かが、屋上には散見される。

「いただきます」

 お弁当を広げ、それからアリスが、あたしに言った。

「いい感じに広められてるね」

「ほとんどフームのお陰だけどね」

 苦笑する。あたしひとりじゃ、ここまでは上手く行かなかっただろう。

「とりあえずはオーケーかな。後は、当日を待つばかりって感じだよね」

「そうなるね」

 頷くアリス。あたしはほっと息を吐く。

「後は、自然に。バレないようにってぐらいかな」

「だね。ねえアリス、こんなに元気にやれるんだから、普段からやればいいのに」

「え……む、無理だよそんな」

「なんでそうなるかなもう。ほら、アリスは凄い! 元気出して行きなさい!」

 あたしはポンと背中を叩く。アリスも、一応は「ありがとう」と笑った。けれど、自信を持って快活に話せるようになるのは、当分後なんだろうなとも思う。

 あたしやジルとだけいる時は、そうでもないのに。なんなんだろう、本当に。

「ごちそうさま」

 あたしは食べ終わり、弁当を片付ける。アリスも心得たもので、あたしの食べる速さに何も言わない。で、あたしはただ、アリスの横に座って、それからたわいもないことを話す。天気のこととか、授業のこととか。アリスはゆっくりと食べ続け、チャイムのなる数分前に、食べ終えた。

「じゃ、戻ろっか」


 ルミアが、あたしに声を掛けて来た。フームが気楽な感じで軽く手を上げると、ルミアはそれに小さく微笑む。

「どったの、ルミア」

「聞いたよ、転校生だって」

 そう言って、彼女は笑みのまま、続ける。

「よろしく言っといてね」

「あ、うん。いいよ」

 断る理由もないので、あたしは頷く。ルミアはそのまま、歩き去った。


 帰り道、あたしはいつものようにアリスと歩く。道すがら考えるのは、ルミアの意味深な笑み。あいつは、何の意味もなくそういう行動をするタイプじゃない。きっと、何かしらの狙いがある。ぐるぐると考えて、ひとつのぼんやりとした仮説に至る。

 たぶん、軽い宣戦布告というか、ジルに対して、あたしに逆らわないで、仲良くしてねって意味を込めてるんだ。よろしくって言うような立場であることをジルに事前に伝えておくという感じだろう。普通はだって、よろしくなんて、その場で言って親しくなっていくもの。それをこうやってあらかじめ言っておくことで、意識すべき存在なんだと主張したいのだ。たぶん。

 考え過ぎだってよく言われるけど、他人が本当に考えていることがさっぱりわからないから、こうやってつい考え込んでしまう。だけど、ルミアに関して言えば、穿ち過ぎってことはないように思うのだ。

「どうしたの、なんか怖い顔して」

 アリスがあたしを覗き込み、不安気にそう言う。あたしは慌てて首を振った。

「あ、ううん、なんでもない」

「ならいいんだけど……」

「大丈夫だってば。心配しないで」

 あたしは、ニッと笑ってみせる。

「大丈夫、だってジルはあれ、ルミアに呑まれるタマじゃないよ、たぶん」

「まあ、そうだね」

 アリスが、苦笑を浮かべた。

「で、今日どうする? 来る?」

「ああ、いいや。今日は、設定的にはジル受け入れ準備でミリアの家は、忙しくないといけないから」

「わかった。じゃ、また明日。バイバイ」

「バイバイ」


  △


「ただいま」

 ミリアが帰って来た。あたしは教科書から顔を上げると、少しのびをする。そして、気付いた。

 さすがに疲れた。体も少し、凝っている。

 あたしは立ち上がり、軽く体操をしながらミリアが部屋に入ってくるのを待った。そうしているうちにミリアが入ってきて、かばんをどさりと下ろすと、言った。

「今日はアリス、来ないみたい」

「うん。そうだと思った」

 うちに来る回数を、不自然にならない程度に留めなければならない、という判断だろう。

「にしてもどうしたの、体操なんかしちゃって」

「さすがにお昼以外ぶっ通しで勉強続けるのはしんどくて」

「ああ、なるほどね。しんどいよねえ体動かさないと」

「まあね」

 ミリアが息を吐き出しながら座り込む。

「で、どう? 間に合いそう?」

「多分ね。言語学はもう、終わり見えてる。だから、ちょっとリフレッシュしたいんだけど、散歩でも行かない? 誰かに見られたら面倒だから、誰にも見付からないようなとこでさ」

 ミリアは、軽く考える素振りを見せて、首を横に振った。

「そんな場所、心当たりないよ」

「そっか、ならいいや」

「ごめんね」

「いいよ、別に。それじゃまあ、手早く済ませて寝ちゃいますか」

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