2章 発端
第4話 今日、転校生が来たんだ
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どうして。
どうして。
どうして。
あたしはそっと手を触れた。どくどくと染み出す血液の温かさ。次第に、失われて行く。お母さんが、あたしの名前をそっと呼ぶ。あたしはいやいやをするように首を振る。
ナイフを手に取り、それからあたしはお母さんの方を見た。
彼女はまた、あたしの名を呼ぶ。あたしは、ただ、身を守りたかっただけだった。最低な父の心ない暴力から、あたしと、お母さんを。
振り回したナイフは、あっけなく父の腹部に刺さり、父の命を奪っていた。
目の前で倒れている父の表情や、その時の母の声色は、正直覚えていない。だけど、この血の赤さと生ぬるさだけは、今でも鮮明に覚えている。
これがあたしの、初めての殺人だった。
◆
「ただいま、お兄ちゃん」
ラーニャが勢いよく家に戻って来て、俺はお帰りと声をあげる。彼女はそのまま、部屋へと駆け込む。俺は苦笑しながら、また手元のお尋ね者討伐レポートに取り掛かる。レポートと言っても、指定されたことを記入するだけなのだが、正直こういうのは大嫌いだ。戦いだけできればいいのに、そういう訳にはいかないのだろうか。
とは言いつつも、トップクラスの戦士や魔法使いは、こういうことは人を雇ってやらせることができるらしいので、やっぱりこういうのが底辺の辛い所なのだろう。
「所見……特になし、っと。終ーわり」
俺はうーんと伸びをして、それから確認のために記入漏れがないかを確認して……それからふと気付く。名前の欄が、空白だった。寝ぼけてんのかな俺と愚痴りながら、その欄を埋める。
「ニール、っと」
他に漏れはない。それを確認している最中に、数滴汗が紙に滴った。ため息を吐きながら立ち上がり、それから時間を確認した。そろそろ夕食を作らないといけない。俺もラーニャも、夕食の頃にはくたくただ。しっかり食べて、よく眠る。これさえ守れば明日も元気だ、というのは母親の教えである。
「さてと、今日の献立は……」
「いただきます」
「いただきまーす」
ラーニャが勢いよくごはんをかき込んで行く。その食いっぷりを見ていると、作った甲斐があるというものだ。
「ところでさ、お兄ちゃん。今日、転校生が来たんだ」
「今か」
汗の滴る額を拭い、それからラーニャの方を見ると、ラーニャは頷いた。
「うん。親の都合なんだって」
「どんな子?」
「かわいいよ。まあ、あたしの方が美人だけど」
苦笑い。兄のひいき目を抜きにしても、確かにラーニャは美人だ。それでも彼女は、それをわかっていてあえてこういう言い回しをする。そして、ラーニャはたぶん、それが許される。これは兄バカだろうけれど、ラーニャはどこか、放っておけない気質をしている。同性に嫌われないタイプ。実際、ラーニャは男女ともに友達が多い。ただし、彼氏いない歴イコール年齢なのだけはなんとかして欲しいけれど。
「でも、かわいさではたぶん負けるなぁ」
「そっか。で、どんな子?」
「さあ。まだそこまで向こうも心開いてくれてないからなんとも言えないけど、その見た目がもったいないよってぐらい暗い顔してたな、あれ」
そうか、と頷きながらも、その少女について想像を巡らせてみる。よっぽど前の学校の友達と仲良しで、その別れの辛さを未だに引きずっている、とかだろうか。
「ま、でもとりあえず、仲良くはなれるんじゃないかなって思ってる。魔法が得意みたいでさ。あたしも、これでも一応魔法について勉強してる訳じゃない」
「ああ、うん」
「まあとにかく、もしかしたら家に呼ぶことになるかもしれないからよろしくね」
「わかった。その子、名前は?」
「ゾーイだって」
「オーケイ」
そこからは、普通の夕食時の会話だった。今日やったことにまつわる愚痴だったり、今からやるべきことだったり。
夕食を済ませ、風呂に入り、それから俺たちは、二人揃っていつものように早寝した。
◆
それからの数日は、そんな風な日常の中で過ぎて行った。そして、終業式の日、仕事を終えて家に戻ると、ラーニャは見たことのない少女を連れて来ていた。
「あ、お兄ちゃんお帰り」
「初めまして」
彼女は丁寧に頭を下げる。こちらの方が恐縮してしまう程に。
「ああ、いやこちらこそ初めまして。えっと、ゾーイさん?」
「ああ、はい。あたしがゾーイです」
かわいいという形容は、確かにしっくり来た。ラーニャの身長はどちらかというと低い方だが、彼女の背はそれに引き比べてもさらに小柄だ。失礼だけれど。
「お邪魔しています」
「ああいえ、こちらこそうちの妹と遊んでくれてありがとうございます」
「それじゃゾーイ、続きを教えてよ」
「うん。ここは……」
覗き込むと、魔法の本を二人で読んでいた。どうにも、ラーニャの方が教わっているらしい。これにはかなりの驚愕を覚えた。ひいき目抜きに、ラーニャは魔法を得意としていて、同学年の中で負けることは滅多にないはずだ。それがあったからこそ、俺は今、こうして戦士をして賞金を稼いでいる。ラーニャの勉強に、金銭の影を落とさないために。それを知っていてラーニャは、いっそう魔法の勉強に打ち込んでいる。そんな彼女に、同学年で魔法を教えられる人がいるのか。びっくりしながら、俺は晩飯の献立を考え始めた。
晩飯時の会話で、俺はゾーイについて聞いてみた。
「どんな子だった?」
ラーニャは、しばしうーんと悩むそぶりを浮かべ、それから言った。
「案の定というか、クールな子だった。別に敵を作る訳でもないし、過度に引っ込み思案って訳でもないんだけど、あたしに話しかけるなオーラを感じちゃうことが多いな」
「でも、うちには来てくれた」
「そうなの。あたし的にも嬉しかったんだけど、誘って、いいよって言ってもらった時には思わずびっくりしちゃった」
「魔法好き同士で通じ合ったのかもな」
「だったら嬉しいんだけどね」
「そういや、そんなに魔法凄いのあの子」
「そうなの」
ラーニャは興奮気味に叫んだ。それから食事中だというのに立ち上がり、一冊の本を手に戻ってきた。
「今これ読んでたんだけどさ、難しいなって思ってたとこ、ゾーイに見せたら一瞬でわかっちゃって」
「そ、そうなのか」
俺自身は、魔法を上手くは使えない。必要最低限以上の魔法はラーニャに教わって使えるけれど、根本的に不向きらしいのだ。こういう適正は、多かれ少なかれあるらしい。
「まあ、仮に全く使えない子がいるなら会ってみたいけどさ」
とこれは、過去にラーニャが言っていたことだ。誰でも最低限の適正は持っていて、でもその最低限程度しか使えないという人はどうしたっているらしいのだ。
「とにかく、凄いのゾーイ」
まるで自分のことのように喜ぶラーニャのその微笑みに、よくわからないながらも釣られて嬉しくなって来る。伝染した上機嫌に釣られながら、俺は勢いよく食事を終えた。
◆
連続失踪事件。今世間を賑わしている、大事件。数多の戦士や魔法使いがこの事件を調査しているらしいけれど、俺みたいな端の剣士は普通、こんな大事件には関われないし、関わらない。
だけど今日、俺はその普通から外れてしまった。
「おいニール」
「なんですか」
そう言って話しかけて来たのは、先輩同業者だった。別段仲がいい訳でもないが、話しかければ気さくに答えてくれるし、逆もまた然り。よくも悪くも単なる同業者だった。
「今日ちょっと手伝えるか?」
「ものによります」
妹を育てながらの仕事だ。しかも、本来ならまだ俺の方も養育を受けていてもおかしくはない年齢なのだ。無茶はできない。
「大丈夫だ。本当にただ、手伝うだけだから」
先輩はそう、笑って言った。
「もちろん、お礼の報酬は出すよ、仮にスカでも」
「で、中身はなんですか?」
「事件の調査だ。連続失踪な」
え、と驚いて、俺は彼を見る。彼は情けないとでも言わんばかりに頭を掻いて、それから詳細を口にした。
「調査。事後なんだよ。だから、危険は何もない。どうだ? 早帰りのニール」
「ああ、それならいいですよ」
拍子抜けし、それから笑う。彼もはははと笑った。
早帰りのニールというのは、俺の通り名だ。早く帰れる割にそこそこの報酬を得られる、近場の事件ばかりを持って行くから、俺が来る前に仕事を取れというのはある種の冗談として成立しつつあるとかなんとか。もっとも、俺の場合は事情が事情なので、いい仕事を優先的に選ぶことを咎められることは滅多にない。気を遣って残す程俺のことを気に掛けてくれる人も、滅多にはいないけれど。
そして、この仕事は時間も掛からず割もいい。今の発言には、ほぼ間違いなく、そういう意味が込められている。
「で、どこですか?」
先輩に連れられやって来たのは、街外れの公園だった。
――俺としては、馴染み深い場所だ。
「ここ、ですか」
「ああ。女の子がひとり、この公園から消えたらしい」
「それで、俺に」
街外れ。俺の家は、この辺りにある。事件はまだ広まっていないから、知らないのだろう、小さな子どもを遊ばせる主婦が、俺を見て、それから気の毒そうな表情を浮かべる。それからすぐに、自分の子どもの方へと視線を向け直した。しっかり見ていれば安心、もとい、目を離した隙に消えてしまったらという不安。事件がここで起きたことは知らなくても、今世間を騒がしている事件には、それだけの力がある。けれど、俺の存在は、それに少しだけ影を落とすぐらいには、大きいものだ。
わかっている。本来なら俺は、学校にいる時間だ。俺の年齢の子どもなら、本来は。
それでももう、こういう目線にも慣れてしまった。今はもう、何も思わない。それでも先輩は、察して俺に声を掛ける。
「悪いな」
「いいんですけど。確かに俺は、この辺の地理には明るいし」
なんならきっと、ラーニャは今日辺り、先生やクラスメイトからその失踪にまつわる情報を得るのではないか。この辺りで起こった出来事だ、と言って。
「消えた少女の名前は……」
それを聞いた瞬間、え、と思った。
知っている。あの日、ラーニャと一緒にいたから。
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