第3話 魔法の強さは意志の強さ

  ○


 あたしの朝は早い。まだ太陽が昇る前だが、あたしの目はとっくに覚めていた。隣では、ジルがすやすやと寝息を立てている。あたしの剣の練習を見たいと言っていたが、起こすべきだろうか。迷っている内に、彼女はうめき出す。起きるのだろうかと思って見ていたが、どうにも様子が変だ。

 もしかして、うなされてる?

 あたしは、ジルに向け叫ぶ。

「おーい、起きろジル! 朝だよ!」

 その声に、ジルがびくりと跳ね、それからこわごわと目を見開いた。

「大丈夫?」

「え? あ、うん。おはよ……」

「悪夢でも見てたの」

「たぶん。だけど」

「だけど?」

「何も覚えてない」


  △


 なんだか、ずっとうなされていたような気がする。体はともかく、心が安まった気がしない。けれど、ミリアによると、途中までは特に何もなかったというのだから、きっとただの悪夢なのだろう。眠っている間ずっと見る程重大なものではなかったのかもしれない。

 まだ、朝日の前だ。ミリアが毎朝この時間に起きて特訓しているのだとすると、あの時間にもう眠気を訴えるのも納得だ。

「とりあえず、あたしのお古着ればいいよね。ジル、小柄だし。あたしがでっかいから、ちょうどいいはず」

「あ、うん」

 そう言って着せられたのは、彼女が三年で使っていたという、飾り気の少ない普通の服だった。

「ごめんね、オシャレじゃなくって」

「いいよ、別に。あたしも、こんぐらいのシンプルな方が好き」

 どうしてかわからないけれど、本当にそうだった。けれど彼女はあたしのこの発言を気遣いだと受け取ったようで、ごめんね、と謝って来た。

「悪いと思ってるなら、ミリアの剣捌き、早く見せて。これでもすっごい気になってるんだから」

 彼女は微笑んで、頷く。それから、よっしゃ、頑張るぞだなんて気合いを入れて、あたしを先導し、下フロアへと降りる道を辿る。軽い性格なようだ。もうさっきの、無用な反省の色はない。こちらとしても、それはありがたかった。

 階段に木刀がかかっていた。彼女はそれを手に取って、家の外に出ると、そこから駆け足になった。あたしは、それにピタリとついて行く。


  〇


 ジルがあたしの剣を楽しみにしてくれている。それが嬉しくて、あたしは足音軽く裏口から庭に出て、公園へ向かった。手には木刀。朝の新鮮な、涼しい空気があたしを撫でる。春を謳歌する花々が、風に散らされ、はらはら舞う。その幻想的な光景に、しばし足を止めた。

「綺麗でしょ。これを見た記憶、ある?」

 思わず、問い掛けた。ジルは、あたしの駆け足に遅れることなくついて来ていて、あたしの問い掛けにも息を荒げず答える。

「さすがにね。でも、ここまで綺麗なのは、見たことないな。この、誰もいない朝だからこそって感じ」

 思わず笑みがこぼれる。ジルは、辺りを呆けたようにしばらく見回し、それからあたしに向かって言った。

「ま、とりあえず練習しに行こ」

「あ、うん」

 あたしはまた駆け出す。ジルがそれに、ピタリと並走する。

 凄い、と思った。あたしはかなり足が速く、その上体力もある方だ。それに並走して、息もあがらない彼女。実はジル、とんでもなく運動神経がいいのではないだろうか。

 一定の呼吸を意識しながらあたしは公園に辿り着く。そこにある太い樹が、あたしの剣を受け止めてくれるのだ。

「それじゃ、始めるね」

 あたしはジルに向けそう笑い掛けると、手に持った剣を掲げ、樹をしかと見据えた。

 それからそれに向けて走り込むと、剣を叩き付ける。そして、そのまま後ろに飛んだ。あたしの眼前に、切っ先が振り下ろされる。あたしは着地を決め、それからすぐにバランスを取って、左奥へ向けて回り込み、そのまま剣を斬りつけた。敵がひとり、倒れる。また後ろから攻撃が飛んで来て、あたしは慌てて右へ体を避難させる。あたしがいた場所には、鋭い剣。それをあたしは蹴り飛ばし、そのまま敵に剣を突き付けた。

 ぱちぱちと音がして、あたしは我に返る。そこは公園で、目の前には樹。そして、拍手をするジル。敵なんて、ひとりもいない。

「ふうん、凄いんだ」

 ジルは、どことなく興味のなさそうな表情を浮かべていた。けれど、すぐに、それはただそう見えるだけだと気付く。

「本当に、敵がいるみたいだった。あたしにもイメージできるぐらい。凄いよ」

「へへ、ありがと」

 不愛想なのは、たぶん元々。そんな気がする。昨日は感情が忙しかったのかそんな雰囲気はなかったけれど、彼女の根っこはこれだろう。だから、あたしは素直に喜んだ。

「もうちょい続けるね」


  △


 一気に笑みは掻き消え、彼女は口を真一文字に結ぶ。醸し出す雰囲気は、さながら歴戦の戦士のそれだ。大柄な体格は、成長したらきっと、その威圧感の助けになるだろう。

 ミリアは剣を前に掲げ、恐らく敵の攻撃を受けたのだろうか、それを払いのけると、敵に突きを決めるイメージでか、樹に剣を叩き付ける。彼女の凄いところは、攻撃した後の俊敏さだろう。斬ったと思ったら、既にその場にいない。彼女の前にだけ現れる敵さんも、ご苦労なことだ。あれじゃ、そう簡単には当てられないだろう。

 あたしなら、と考える。あたしが、その敵さんなら。

 攻撃されることは読めるのだ。ヒットアンドアウェイが上手いなら、ヒットのタイミングの前に剣を置いておく。彼女は恐らく、バカ丁寧に突っ込んで来る。もちろん、殺意がないから置いておくだけになる上に、振ろうだなんて考えれば、その予備動作の間にミリアは踏み込んで来る。だから、置くだけ。恐らく構わず振り切って来るとは思う。そうしてから、力を加えて、ダメージを与える。痛み分けが、たぶん一番精度の高いミリアへのカウンターになるはずだ。まあ、それも魔法というのをお互いに一切使わないという前提に立っているのだけれど。

 あれ、なんであたし、こんなこと考えてるんだろう。まったく理由がわからない。ただなぜか、実力者であるミリアをどう倒すか、というのを気付けば考えていた。

 ふう、と一息吐いたミリアが、そろそろ帰ろうと言って来て、あたしは我に返る。いつの間にか、人通りもちらほらと出て来ていた。

「だね」

「どうしたのジル、なんかぼおっとして」

「ううん、なんでもないよ」

 さすがに言えない。どうやってあなたを倒すのか考えてた、だなんて。


 家に戻ると、ママさんが起き出して来ていた。気付いていなかっただけで、既に起きていたのかもしれないが。あたしたちを認めて、ごはんできてるよと笑う。昨日のあの味を思い出すだけで、口の中に唾が溜まった。

「とりあえず、学校行くのよね、ジルちゃん」

「ああ、まあそのつもりです。隠れてるにしても、限界がある。あたしじゃ、昼間はうろつけないから、目立つし」

 まあ間違いなく、周囲から好奇、あるいは同情の目で見られるだろう。服がしっかりしてるから、恐らくは好奇が中心になる。学校に行けない人というのも多くいるにはいるのだが、こんな街中に、身綺麗なそういう人は、そうそういない。

 こんなことは覚えていた。

「だから、カモフラージュ。とりあえず学校に行きながら、ミリアたちと情報を集めようかなと思ってます」

「わかった。だったらまず、設定を考えないとね。どうして私たちの家にいるのか、とか。まあ、アリスちゃんも一緒になんだろうけど。私は仕事があるから、三人で考えて」

「はい」

「えっと」と、ミリアが口を挟んだ。

「つまり、ジルがあたしたちの家で暮らしてもおかしくない理由を考えるってこと?」

「それから転校の理由もね。後、あたしのキャラとか、あたしそのもののバックボーンも設定しなきゃ」

 自分の過去を、設定する。どことなく笑えてくる。いや、どちらかというと笑えない冗談なのだけれど。

 あたしは、そんな微妙な感情をごまかすために、料理を口に運んだ。絶品だった。


  〇


「お邪魔します」

 ノックの音に、あたしが扉を開けると、アリスが立っていた。彼女はその言葉と共に、部屋に上がり込む。ジルがもうくつろいでいる。

「馴染んでるね」

「馴染んでる。まあ、いつまでも遠慮されてるよりか、こっちの方がいいよ」

 ジルが起き上がり、それから仕切るように言った。

「揃ったし、話し合おう。まずは、あたしの設定を明確にするところから」

 ジルは、それから設定に必要な情報を列挙した。年齢、来歴、性格、趣味。

「性格は、まあ無理に偽る必要はないと思うけど。でもとりあえず、趣味とかもわかんないし」

「まず、年齢は、あたしたちと一緒でいいよね」

 アリスがジルに問い、ジルは頷いた。

「多少無茶ではあるけど、転校、ってことになるね。転校までには四年の内容覚えきるよ。追い付くのはしんどいけど、それよりも、あなたたちといる方が心強い」

 心強い。面と向かって言われると、なんとなく面はゆい。

「あの剣捌き見ちゃったらね」

 無愛想に、でも確かに、彼女はそう言った。

「まあ、年齢は確定。来歴なんだけど……問題なのは、ミリアの家に居候する理由をそこで同時に解消しないといけないこと。アリス、なんかアイデアある?」

「あたしの親戚じゃ駄目なの?」

 あたしが横から口を挟んだ。ジルは、

「親戚じゃちょっと弱いってか情報が足りない。ま、遠縁で済ませてもいいんだけどさ。でも今度は、居候の理由の説明になりづらい」

 とつれない。

「片親しかいないのに、その親が仕事の関係で数ヶ月かかりっきりで帰ってこられない、だからその片親が姉もしくは妹を頼った」

 アリスがそう提案する。要約すると、あたしとジルは、従姉妹同士だということになる。

「従姉妹なら近いし、それはありだと思う。面倒だしそれでもいいけど、ミリア、友達に今まで従姉妹の話をしたことあった?」

「ない、と思うけど……」

「してない、はずだよミリア」

 そう断言したのは、アリスだった。

「知らないもん、ミリアの従姉妹なんて。いないってことも知らなかった」

「そっか。なら大丈夫だね。でも万が一いないって断言してたらどうしよう……」

「その時は、知らなかったことにすればいいよ」

 アリスが続ける。

「ミリアのパパさんは、あれだから。だから、あんまり接点がなくて知らなかった」

「なるほど!」

 あたしは、ポンと手を叩く。そうか、別に知らなくてもおかしくはないのか。

「それじゃまあ、あたしはミリアの従姉妹。父方のね。趣味か」

「それ、たぶん、自己紹介で使うから、って感じだよね」

「うん」


  △


 さすがにアリスは呑み込みが早い。頭もよく回る。父親がいないからわからない。なるほどと思った。

「ジルの趣味かあ。基本的に、何が好きとかわかる?」

 ミリアの問い掛けは、どことなくピントがずれている。

「わかんないからわざわざ議題にしてるんだけど」

「あっ、そうか」

「……例えば、みんなといるのと、ひとりでいるのとだったら?」

 アリスの言葉に、あたしは思考を始めた。けれど。

「まだずっとあれ、ミリアといるからわかんないってのが本音。ミリアはまあ、面白い子だけど」

「ちょっとそれどういう意味?」

「そういうとこ」

 あたしは小さく返すと、いろいろと考えを巡らせる。なるべくなら、少し変わった子、という評価を受けたい。ミリアとアリスはともかく、あんまり友達を増やすと絡まれて面倒になるような気がする。そして、メジャーな趣味は、突っ込まれて訊かれるとぼろが出るから避けたい。なるべくなら、

「口からでまかせで語っても、なんとかなるような趣味がいいよね」

「ああ、うん」

「え、なんで?」

 理由を説明すると、ミリアはなるほどね、と頷く。呑み込みが悪い訳ではないのだ。

「それなら読書とか? 好みをすっごいマイナーなとこに設定して。あっ、そうだ!」

 ミリアが叫ぶ。どうしたの、と問うと、ミリアは満足気に微笑んだ。

「魔法書好きになればいいんだよ! うちのクラスじゃそんなの読むのアリスぐらいだし、自然とアリスと仲良くなれる!」

「おお、それはナイスアイデアかも」

「それ、いいね」

 とりあえず誉めてから、しばらく考えを巡らせる。魔法について、突っ込んで訊かれたらどうする?

「簡単な、でも普通の人にはわからないような本、ある?」

「いっぱいあるよ」

「ホント? アリス基準の簡単じゃ駄目だよ?」

 ミリアが突っ込んで聞く。だけど、確かにあたしは、後数日で四年生の勉強をマスターしなければならない。難しい余分な勉強に時間を割いている余裕はないのだ。そこは、確かに大事な所だ。

「大丈夫、だと思う、けど」

 声が、自信なさげにすぼんで行く。えー、そこは言いきってよ。

「まあ、見せてもらえばわかるから。明日も来るの?」

「ああ、うんそのつもり」

「なら、一冊適当に見繕って、持って来てよ」

「わかった」

 他に何か考えるべきことはあるだろうか。あたしについて、考えるべきこと。けれど、と思う。

「着飾り過ぎても演技難しいし、このぐらいでいいかな」

「まあ、あたしもう設定パンクしそうだし」

「ミリア、あんたも覚えてよ」

「うん……」

 あたしのツッコミに、自信なさげに俯くミリア。それからぶつぶつと、何事か呟き始めた。耳を澄ますと、どうやら設定を暗唱しているらしい。アリスはパパの方の従姉妹で、魔法好きで、同い年で。

「あんまり二人があたしについて詳し過ぎるのも変かもね。よく知らない従姉妹な訳だし。まあ、このぐらい決まればなんとかやって行けると思う」

「だね。それで、他に何か、ジルの設定以外に考えるべきことってある?」

「どうやってあたしの過去を探るのか考えないと。方向性もわからないんだし。手掛かりゼロだけどさ」

「あー、まあそうだよね」


  〇


 正直、ジルに関しての情報は、ゼロなのだ。とっかかりさえないから、何かをするといっても、どうしようもないというのが本音。これはさすがに、あたしだけに限らず、二人とも、共通に悩んでいたようだ。

「方向性だけでも定めたいんだけど」

 ジルの呟きにアリスが頷く。あたしも同意の声を上げると、それからジルに向け、言った。

「何かない? なんでもいいよホントに。何かしらわからない?」

「わかんないよそんなの」

 ジルはやっぱりぶっきらぼうに言う。あたしはうーんと唸った。

「アリス、やっぱり方向性も何もないのに方法とかないよね」

「まあ、うん。何も思いつかない」

 やっぱり、些細でもなんでもいいから、手掛かりが欲しい。それがないことには、何もわからない。だから、しばらくは受け身で、日常生活を送りながら待つことしかできない。何か手掛かりが、向こうの方からやってくるのを。幸いにも、ジルはこうして生きている。記憶こそ失っているが、命はまだ、ある。だから、敵――ジルを襲い傷を負わせ、記憶をも奪った相手のことをそう呼ぶことにした――は恐らくまた、接近してくるはずだ。しばらく悩んだ末の、それが結論だった。

「消極的でなんか嫌だけど、仕方ないんだよね」

 あたしの声に、二人が頷いた。しばらくは本当に、待つしかないのだ。それ以外に取り得る手段は存在しない。

「一応、あたしについて気になることとか、あった? 何か、普通とは違うような」

 ジルが問い掛けてくる。

「ごめん、それだけじゃ、わかんないよ……」

「ああ、ごめん。何かしら、特筆すべきことってあった? 例えば、計算力が高いとかみたいな」

「それなら」とあたしが口を挟む。「たぶん、ジルは、体力があるよ。あたしに息も乱さずついて来られるんだもん」

「なるほどね」

 アリスが小さく漏らす。ジルは不思議そうな顔を浮かべ、あたしに問うた。

「え、それが凄いの? まあ、剣は凄いと思ったけど、足は普通じゃない?」

「体育系で、ミリアより凄い人なんて、いないし」

「うん。いや、正直、ちょっとショックなレベル。凄いよそれ、ジル」

「ふうん」

 つまり、ジルはまだ、余力を残していたということか。まあ、そんな気はしていたのだけれど、改めて突きつけられると衝撃だ。

「あたし、運動神経もいいんだ」

「そう考えると、スーパーウーマンだね。頭もいいし、運動もできるって」

「まあ、狙われるぐらいなんだから、何かしら特筆すべき何かがあるんだと思う。もっと他にもね。まあ、行きずりの通り魔っていう説もあるけど、完全に全部の記憶をなくしてるから、考えにくい」

「あの、それさ」

 あたしは口を挟んだ。アリスとジルがこっちを見る。

「なんで、全部の記憶をなくしてたら、行きずりの犯行じゃなくなるの? 連続失踪だって、行きずりみたいなもんなのに」

 二人が顔を見合わせる。それから、ジルが呆れたようにため息を吐く。

「記憶ってのはね、人間の感情に直結してる。知識じゃなくてね。感情に刻み付けられた記憶は、容易なことでは消されない。消えるのは、感情が覚えていられない程に辛い出来事だけ。まあ、物理的欠損は除くけどね。でも、あたしには現状、物理的欠損はない。なのに、全部を忘れてる。じゃあ、それはなぜ? 外的要因が働いたからとしか思えない。

 んでもって、行きずりで殺そうとして、記憶を消すってのはさすがに変だと思うのよね。殺せば記憶は消される。あんなボロボロのあたしを放っておいて、記憶だけ消すのは頭が悪いとしか思えない」

「ジルの、記憶が欲しかったんだとしたら?」

「……ないと思う。まだ、そんな奪った記憶を保存する魔法は、開発されてないはずだよ」

 と、これはアリスが言った。震える声を絞り出すかのようだった。

「そうなの?」

 あたしの問いに、アリスはこくりと頷く。

「うん。だって、記憶を消す魔法自体、最近ママが開発したんだもん」

「……それホント?」

 ジルが、アリスに向けて問い掛けた。その声に、驚きが滲んでいる。

「あなたのママが、開発した? 魔法を?」

「ああ、うん」

「そ。凄いの、アリスのママは。魔法研究の第一人者。というか、家族中がね」

 縮こまるアリスに代わって、あたしが補足した。

「なるほど、凄いな」

「でも、それを知らないのに、なんでジルは断言できたの?」

 あたしの素朴な問い掛けに、ジルはあれ、と首を傾げる。

「おかしいな、なんでだろ」

「案外、ジルも知ったかぶり?」

 なじるあたしに、ジルはつれない。

「違う。それは、間違いなく」


  △


 断じて違う。これは知ったかぶりではない。あたしは確信を持って、アリスに同意していたのだ。間違いなく、記憶を奪ったのなら、行きずりの事件ではない。心の底から断言していた。

 けれど、改めて考えてみると、そうなのだ。あたしに、それを断言する術はない。

 それとも、と思う。

「これが、案外手掛かりだったりしてね。あたしは、魔法も上手かったのかも。覚えてないだけで」

「あ、なるほど」

 ミリアが頷いた。「それはありえるかも」

 あたしは、記憶の引き出しを漁って、魔法の知識がないかを探る。けれど、駄目だ、見当たらない。魔法の知識は、消されているのか。それともただのでまかせか。

「え、でも、だとしたら、凄過ぎない? 魔法までこなせちゃうの? 頭がよくて、運動神経もよくて、その上?」

 ミリアの声にあたしは、記憶の棚から離れる。それから、聞き逃しかけた言葉を咀嚼して、反芻し、それから意味を呑み下す。

「ああ、確かに。普通にスーパーウーマンだ」

 あたしは小さく呟いた。もし仮に、全ての仮定が正しいとするならば、だけれども。

「でも、魔法の知識は消されてるってこと? しかも最近できたって、それ、相当難しいんだよね」

 ミリアの問い掛けに、アリスが頷いた。

「うん」

 アリスによると、今はもう、人力で起こしうる魔法は大概開発され尽くしてしまい、難易度の高い魔法を無理矢理生み出しているというような段階で、その難易度が高いというのは、軽く働きかける程度では絶対に成功しない、というより人間の力だけでは決して成功し得ないようなものらしい。

「それってさ、どういうことなの? なんでもう、出尽くしたってわかるの?」

「えっと、それはね……」


 アリスの魔法談義が始まった。あたしにも、何か得るものがあるような気がして、思考を中断しそれに耳を傾ける。

「まず第一に、魔法の原理を説明するね。ジルがどこまで覚えてるかわからないから、たぶんミリアでもわかるレベルの基礎から説明するよ。最初に結論だけ言っちゃうと、魔法の強さは意志の強さ」

 声に少しだけ、自信が滲んだ。話には聞いているが、恐らく彼女は、それ程までに魔法に自信を持っているのだ。

 彼女の話を端的に要約すると、魔法の原理とは、人間の体内にある魔力の振動だそうだ。その振動を起こすのは、意志の力。こうしたい、という強い意志でもって始めて、魔法というのは達成される。

「で、その意志の力にも、限界がある。人間という種族に定められた限界値がね」

 神によって定められた、その値。数値化されるものではないが、わかりやすく人間のそれの最大値を百と考えると、普通の人間はゼロから、多くて八十しか、使うことができない。

「アリスは八十まるまる使えるってこと?」

「まあ、八十にはほど遠いけど、六十ぐらいなら、まあ。それでも世間的には凄い数値だよ」

「へえ」

 自分のことを、凄いと言い切るアリス。その癖して普段の自信はなさげなのだ。訳がわからない。

 それはそうとして、魔法談義の続きだ。

「知恵は意志と感情を制限するんだけどね、時々、感情が暴れることがある。怒りとか、悲しみ、別に喜び楽しさでもいいんだけど、とにかく、とてつもなく大きな激情が、人を襲う。その時、知恵は感情を適切な状態に戻すのに必死になって、意志のリミットが外れる。その時、百を出せる。

 それで、これは別ジャンルの研究結果だからあたしは詳しくないんだけど、人間という種族に与えられた知恵、意志、感情の量は決まっていて、どんな人間だろうと変わらないんだって。差があるのは、それを上手く出せるかどうかってだけらしいの。で、その意志対知恵で意志が勝つ割合のマックスが」

「百、か」

 あたしが続きを引き取った。知らない知識ではあるが、どことなくなじみがある知識でもあり、呑み込むのにさして時間はかからなかった。

「そういうこと」

「あの……ごめん、ちょっとわかんない」

 ミリアが、おずおずと手をあげる。そこで、アリスがハッと我に返ったようだった。

「あ、ごめんね! こんな、好きな話だからって一気に話し過ぎて……」

「あんまりそうやって謙遜しないの」

 そうアリスを励ます。あたしがこの話を理解できたのは既に素養があったからで、ミリアがわからないのを責めることはたぶんあたしには許されないし、実際アリスの語りの勢いは凄かった。それでも、凄いのだから、自信を持てばいいのに。そう思った。

「ま、とりあえず、人間にできる限界がそろそろ見えてきてるってことだけわかればいいんだよね」

「う、うん」

「だからミリア、あたしの記憶は消せても、それを使うことはできない訳」

「なるほどね。まあ、難しい話はゆっくり教えてもらうよ。それじゃ……要するに、ジルは狙われて、記憶を消された、ってこと?」

「そういうこと。死なない程度に傷を負わせて、記憶だけ消す。あたしを、狙って」

 改めて言葉にすると、なおさらわからなかった。誰が、何を狙って、こんなことをしたのか。


  〇


 今考えていてもどうしようもないという結論が出て、そんなあたしたちにできるのは勉強会ぐらいだった。ジルが馴染むために必要だからという名目で、去年一年の復習を始める。

 あたしはあたしで、ぽろぽろと記憶から抜け落ちていた四年の記憶が蘇り、結構有意義な時間になったと思う。

 途中で昼ごはんを挟んで夕方まで、ずっとジル、とあたしにアリスが指導を続けていた。

 それにしても、やっぱりジルは頭がいい。事もなげに、初見の知識を蓄えて行く。時折、ふあっとあくびまでしてみせていた。

「ありがとね、付き合ってくれて」

 無感動な表情で、それでも言葉にはキチンと感謝を滲ませたジルの言葉に対して、アリスが慌てたように手を振って謙遜する。

「いいよ別に」

 あたしもアリスにお礼を言った。ひとりで先生役を引き受けてくれたようなものなのだ。謙遜しなくたっていいのに。

 それでもアリスは、あたしの褒め言葉を必死に否定した。

「とりあえず、そろそろあたし、帰るね」

「あ、うん」

 あたしは立ち上がると、アリスと共に部屋を出る。ジルは残って、教科書を読んでいた。

「ジル、凄いよねそれにしても」

 と、あたしが今度はジルを褒めると、これにはしっかり乗って来るのだ。

「ホントだよ。あんなに頭いい人、見たことない」

「アリスとどっちが凄いかな」

 アリスがビックリしたようにこちらを振り向き、それから首をぶんぶんと横に振った。

「無理無理! あたしじゃ絶対敵わないよ、少なくとも頭のよさじゃ」

「でも、アリスの方が賢いでしょ? だって先にやってる訳だし」

「先にやってるだけだよ。あたしが勝てるとしたら魔法ぐらいだし、それだって微妙だ」

「え?」

「あ……なんでもない」

 とうとう、アリスが魔法でも謙遜をし始めた。ジルを物凄く高く評価しているらしい。その気持ちはわかるんだけどさ。

「まだろくに魔法も見てないのに、そんな風に判断するのはさすがに早いよ。アリス、あんたは凄いんだから、もっと自信を持てっての」

「うん、ありがとう」

 アリスが、曖昧に微笑んだ。

「それじゃ、お邪魔しました」

「うん、また明日」

 手を振り、笑う。アリスもそれに応じた。


  △


 確信する。あたしはやっぱり、頭がいい。なんだか変な言い回しだけど、でもそれが、等身大の事実。そうとしか言いようがないのだから仕方ない。

「ただいま」

 帰って来たミリアが、どすんとベッドに腰を下ろす。そしてそのまま横になった。頭が重いらしい。

「頑張り過ぎたかも……」

「いや、あんた復習でしょ、馬鹿じゃないの」

「だってそれ、ジルが頭いいだけでしょ……。あたしは普段、こんなに何かを考えたりしないの」

 そう言って、軽く目を閉ざすと、すぐにすやすやと寝息を立て始めた。呆気にとられて、あたしは彼女を見やる。

 だって、まだ太陽も沈んでない。体力維持のためか、ミリアは早寝だ。昨日もそうだった。だけど、それにしても早い。普段を知らないけれど、これはさすがにマズイのではないか。

 まあいいや、ごはんの時に起こせば大丈夫でしょ。

 そこからしばらく、あたしはさすがに今日の復習をする気にもなれなくて、あたしにまつわることを考えていた。考えても無意味なのはわかっているけれど、それでも考えずにはいられない。

 あたしの記憶を消してメリットのある人が、誰かいるのか。あえて殺さずに、瀕死の状態で。

 思考は堂々巡りを繰り返す。こうなるのはわかっていても、考えるのを完全にやめるには、他に何かをするしかなくて。だからあたしは考える。考えて、しまう。

 考えれば考える程、どうしようもなくなるのはわかっているはずなのに。それでも考えるのをやめられないあたり、あたしは弱い。


「さあて、と、それじゃ、今日の復習でもしますか」

 強引に、思考の迷宮を抜け出した。何かをしていないと、また引きずり込まれてしまうであろう、その迷宮を。


  〇


「起きなよ。ごはんできたよ」

 ジルの声で、うつらうつらとしながらも目を覚ます。

「あ、おはよ」

「おはよ。とっとと起きなさい」

 あたしは頭を振りながら、立ち上がる。それからひとつあくびをすると、ジルにお礼を言った。

「とりあえず、降りよう」

「だね」


「いただきます」

 三人で食事のテーブルを囲む。ジルが舌なめずりをして、それからスプーンで勢いよくカレーライスをかき込み始めた。

 あたしも一口頬張る。

 え、辛っ。

 コップを手に取り、水をごくりと飲み干した。

「どうしたのママ、今日のカレー。試作品?」

「そう。辛かった? ちょっと辛みが強過ぎたかもなって思ってはいたんだけど」

 ママも一口頬張って、それから言った。

「うん、もう少しスパイスは減らしていいかも」

「え、そうなんですか?」

 ジルが平然と問い掛ける。そのお皿の上には、もう半分ぐらいしか残っていない。

「辛くないの?」

「全然。おいしいですよ」

「ならよかった」

 ママはそう言って、笑った。

 だけど、ママも辛いと言っているんだから、辛過ぎたのは間違いない。ジルは辛いのが好きなんだろうか。

「ママ、水おかわり」

「容器ごと持ってくるから、ちょっと待っててね」


 口を赤く腫らしながら、あたしはお風呂の準備をする。水を汲み、それから薪を用意。ジルも手伝ってくれたおかげで、いつもより楽だった。

 そして思う。

 ジルはやっぱり、腕力も強い。

 あたしが額に滲む汗を拭っていた頃、ジルは顔色ひとつ変えずに作業をこなしていたのだ。少し傷付く。

 だってあたしには、この腕っ節しかないのに。

「どうかした、ミリア」

「ううん、なんでもない」

 そんなことを思いながらぼうっとしていると、ジルがあたしを見咎めた。あたしは、首を振って否定する。

「大丈夫」

「なら、いいんだけど」

 ジルの平坦な口調と表情からは、あたしの発言をどう思ったのかについて、さっぱり読み取れなかった。


  △


 ミリアは、もう眠ってしまった。あたしもあたしで、起きていてもすることがなく、そのまま寝転び、淡い眠りの淵を微睡む。

 昨日は、何やらうなされていたらしい。それを掴むのは、たぶん、大事なヒントになる。そんな気がする。掴めるかどうかはわからない。ゆっくりやって行こう。まずは、数日後、学校に馴染むことから……。

 思考が溶け出し、あたしは、眠りに落ちていた。

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