第2話 あの子はそういう子。覚えておいてあげて
〇
記憶が、ない。あたしは、愕然と彼女を見つめて、それからアリスに視線を移す。彼女はしっかりと、少女を見つめていた。
「とりあえず、ここからなら、ミリアの家の方が近いよね。行こう、とりあえず、落ち着けるとこに行きたい」
アリスがそう言った。あたしたちは、揃って頷いていた。思いがけず発揮されたアリスのリーダーシップに、あたしと少女は、気付かぬうちに従っていたのだ。こういう時に、強い言葉は力を持つ。今のは、たぶんそれだった。
「ただいま」
とは言うけれど、返事がないのはわかっている。うちは、カフェをやっている。昼間、ママはだから、家の一階の店舗部分に、かかりっきりなのだ。
「お邪魔します」
二人が、そうやってうちに入り込む。あたしは二人を自室へ誘導した。幸い、あたしとママ、二人でこうやって暮らしていけるだけの稼ぎはあるし、自室も手に入れられる程だ。
あたしの部屋は、飾り気が少ない。ぬいぐるみの類も無ければ、本もあまり読まない。たいてい帰ったら昼寝して、その後晩ごはんを食べ、それからお風呂に入って、宿題に取り掛かる。そうしている内に眠くなり、翌朝、また剣の練習で一日を始める。そんな生活だから、あまり必要ないというのが本音だ。小さい頃、友達を家にあげた時、退屈と言われたのがトラウマと言えばトラウマなのだが、アリスはそれを気にしないのを知っていたし、少女は今、それどころじゃないだろう。気にもならなかった。
少女がどさりと崩れ落ちる。道中ずっと顔色がよくなかったが、とうとう限界らしい。彼女は、横たわったまま言った。
「ごめん、いきなりずうずうしいよね。あたし」
けれど、事情を知ってしまったあたしは、どうこう言えない。
「で、どうしようアリス」
アリスに問うた。
「成り行きで連れて来たけど、どうすればいいの?」
「どうしようかな……」
彼女は腕を組んで考え始めた。それからしばらく、アリスは思い付く。
「うん、まずは、例の失踪事件だよ。今回の件がそれなら、一発だよね。お願いミリア、警察の場所、わかる?」
「うん。えっと、行方不明者を調べればいいのよね」
「うん。お願い」
「がってん!」
それを聞いて、あたしは飛び出した。この中で一番走るのが速いのは誰だと言われると、まああたしだろうし。
△
ミリアが慌てて駆け出す。それからというもの、アリスが黙り込んでしまったので、あたしはどことなく、気まずい。しかも、黙っているとまた不安に襲われる。あたしは誰なんだ。自分という存在が、酷く不確かに思える。だから、無理矢理にでも話題を捻り出して欲しい。考えていたい、その話題を。
「ねえ、なんか話すことないの」
「え? あ、ああ、ホントに、記憶ないの?」
彼女は唐突に問い掛けた。明らかに動揺しているというか。
見覚えがあるように思ったさっきの感覚が、突如としてあてにならなくなる。先程まで見せていたリーダーシップはなんだったのだろう。
「だから、そう言ってんじゃん」
さらば、手掛かり。アリスにまつわる何かがあるのかもしれないと思っていたが、あたしはそれを捨てた。今は、何もない。そんな苛立ちが、口調に混じる。
「ご、ごめん」
それはもう、見ていて面白い程だった。有事の時には頼れるが、それ以外ではただの気弱な少女全開だ。申し訳なさそうに恥じ入る姿に、それでもあたしは彼女のことを気には入っていた。落胆もしているけれど。
「ま、どうしようもないよね。なんか話す? さすがに何も覚えてないってことはないと思うからさ。こうやって同じ言葉で話せてるし」
「えっと、じゃあさ、知識量でも確認して行こうよ。字は書けるのかとか、計算はどこまでできるのかとか。何を覚えてて、何を忘れてるのか。そういうのがわかるのは、大事だと思う」
「なるほど」
彼女の像を再修正。気弱だけど頼れるという訳ではない。思考に没入した時だけ、しっかりする。集中して、周りを気にしなくなれば、彼女は強い。そんな所だろう。
「じゃあ、言葉に関しては問題ないみたいだから、計算かな。まず、一足す一は」
「二。四則計算は人並みにできると思う。十二掛ける二十三は二百七十六」
「凄いね、暗算でそこまでできるんだ」
「え、できない?」
それじゃあ、あたしは人並みどころかそれ以上に計算は得意なようだ。十二を四掛ける三と考え、ひとつずつ掛ければ簡単にできると思ったのだが。
「まあ、ちょっと考えれば、後紙があればできると思うけど……暗算は凄いよ」
ふうん。あたしは少し得意になった。けれど考えてみれば、計算が得意だからなんなのだ、という話だ。
「それじゃ、計算できる話せるはいいとして、文字を書けるか見てみよう」
あたしは、立ち上がると、「何に書けばいいの」と問う。アリスはかばんからノートと鉛筆を取り出し、あたしに手渡した。
「これに、全部文字を書いてみて。それから、何か適当な文を」
面倒くさい。思ったけど、彼女はあたしのためにやってくれているのだから、さすがに口には出さなかった。
結論として、文字を書くことはできた。書いた文章は、私は記憶がありません。寸分の狂いもなく脳の中の文字を書き写せたはずだ。
「うん、ちゃんと書けてる。最低限の教養はあったみたいだね」
「どういうこと?」
問い返すと、アリスはハッと我に返ったかのように声を弱めた。
「あ、その、ね、学校に行けない子どもってのも、世の中にはいるから」
「なるほど」
どうしてか、胸が痛む。安い同情とは、たぶん違うと思う。ただ、その正体はわからない。どうしてか、続きを聞きたくなかった。これ以上この件に突っ込むのはやめにして、あたしは話題を切り替える。
「それじゃ、教科書見せてよ。どこまでわかるのか、試してみたい」
〇
小柄、童顔、黒い短髪に茶色い目。それがあの子の容姿だった。捜している、という似顔絵には、あの子の顔はなかった。
結論として、外れだ。あたしはがっくりと肩を落とし、自宅へと歩いた。
自宅に帰ってあたしは、とんでもない光景を見ることになる。
「な、何してるの二人とも!」
押入れを、二人して漁っている。そうとしか見えない。
「あ、ごめんミリア」
少女があたしに謝罪した。アリスがビクリと体を震わせ、それからごめんと小さく呟く。
「な、なんで押入れを?」
「どこまであたしが勉強したのか知りたくて、過去の教科書を漁ってたんだ。残念ながら、五年の分はわからなかったから。まあ今の時期じゃ、あたしが六年生じゃないってことにしかならないと思うけどね」
「とりあえずさ、あたしを待ってよ。少なくとも四年のがどこにあるのかぐらいはわかるし」
あたしは、後に控えているであろう片付けにうんざりしながら、四年生の教科書を取り出す。引き出しの中に突っ込んである。
「お、他のもある」
出るわ出るわ、一年生のから揃っていた。あるのはわかっていたが、同じ場所にあったか。いつかわからなくなって見返すかもしれないと思って捨てられなかった教科書が、こんな所で役に立つとは思わなかったけれど、役立ったのだからよしとする。
「さ、片付けといて」
二人は萎れて頷いた。
待ち時間、外れだったことを伝えてから、あたしはパラパラと過去の教科書を読み返し、懐かしい気分に耽っていた。終わったとアリスが声を掛けて来て、あたしはそれを、少女に譲り渡す。
その結果、彼女は四年生だという結論に至った。三年生の知識までは持っているが、四年生の分の知識は一切が欠けている。
「なるほどね、あたしは四年生、か」
彼女は、事もなげに呟いた。四年生にしても小柄だと思ったが、それは言わぬが花というものだろう。
「まあ、情報が手に入ったところで、次は、とりあえずの名前考えよう。不便だもん、呼び方もわからなくって。ねえ、なんかこう呼ばれたいっての、ある?」
彼女はしばし考えを巡らせて、それから「特に。適当に付けて。変なのは勘弁だけど」と呟いた。
「それじゃあ……」
あたしはしばらく考えを巡らせ、それから言った。
「ジル。深い意味は何もない」
「ま、オッケー。あたしはジルね」
軽く、彼女は頷いた。あたしは逆に驚いて、「いいのっ?」と思わず叫んだ。
「マズい? あんたが提案した名前に文句を付ける要素がないだけなんだけど、なんのつもりだったの」
彼女の声は、まだ声変わりする前の高いものだ。それで冷たくそう言い放つこのギャップ。
「いや、全然。だけど、もっと考えるもんかと思って」
「考えればいい?」
「いや、もういいよ。めんどくさいって言われない?」
思わず漏れた。彼女は平坦に、「覚えてない」と返し、あたしはごめんと謝らざるをえなかった。
「ま、どうでもいいよ。で、どうするつもり? 成り行きでここまで来たけどさ、いいのかな、いて。駄目って言われても、行く場所の心当たりもないけど」
「とりあえず、ママの仕事が終わってから、相談しないと。とりあえず、意地でも最低限、今日だけはジルをうちに泊める。幸いうちはカフェだから、ご飯はあるし、最悪あたしの減らしてでも、なんとしてでも説得する。これからは、今晩考えよう」
あたしは強く言い切った。ジルも頷き、アリスに視線を向けた。
「二人とも、ありがとう。これからよろしく」
あたしたちは、揃って頷いた。
△
ミリアは、母親を正座して待ち受ける。正直感想は、バカなの、だった。大柄な体を整え、そろそろかなとそわそわしながら待っているその姿から、本気の誠意は感じられない。軽く冗談めかしているというか、そんな感じ。
あたしは、奥の扉の陰からそれを見ている。アリスは、ミリアの横で普通に立っていた。
母親が上がって来る。
「あら、アリスちゃんどうしたの」
「折り入ってお話があります」と、ミリアが言い、それで母親は気付いたようだった。
「何?」
「うちに、泊めてください」
あっけにとられたように立ち竦んだ……と思ったら、母親はニコリと笑った。
「ちゃんと、親に連絡を取った?」
「はい」
「それなら、どうぞ」
「よし! ジル、もういいよ」
あたしは、物陰から姿を現す。
「泊まってもいいって、了承取れた」
「ありがとうございます」
あたしはぬかりなくお礼を口にする。母親は、今度こそ呆気にとられて立ち竦む。
「騙すみたいでごめんなさい、だけどあたし、ここを追い出されたら、行くべき場所がわからないんです」
「いいって言ったからね、ひとり泊めても」
「ミリア、詳しく話してちょうだい」
当然だ。あたしも、彼女に隠すつもりは毛頭ない。そもそも隠す記憶もない。
全てを話すと、母親はミリアの頭をこつんと叩こうとした。ミリアは、それを上体だけで器用にかわす。
「遅いよ、ママ」
「成長したのね。ま、それはいいとして、どうして最初から素直に言ってくれなかったのかな」
「えっと、ママ、大人だもん。わかんない人を泊めるのは嫌かなって」
「記憶がないんでしょう? そんな人を放っておける訳ないじゃない。だけど、ちょっといいかしら」
母親は、あたしたちを見回す。
「どうして、警察に言わないの? 警察に探してもらう方が、絶対確実だよ」
それは、とあたしは言いよどむ。それはミリアも同様だった。
アリスだけが、言葉を続けた。
「襲われて、重体でした。それに、記憶が全部ないってことは、意図的に誰かが、魔法で奪ったんです。明確な、悪意を持って。それなのに、ジルがここにいる、それを喧伝したら、また狙われるかもしれないからです。存在そのものを隠しながらジルの過去を探るのが一番だと思います」
「なるほど」
母親は、頷いて笑い、そして続けた。
「わかった。ジルちゃん」
「はい」
「記憶を取り戻すまで、ここにいなさい」
「いいんですか?」
「もちろんよ。幸い部屋はあるしね」
母親は、ニコリと微笑んだ。それであたしの心は、一気にほどかれたんだと思う。不安が消えたというか、なんというか。
それで、あたしは泣いていた。気付いた時には、手遅れだった。後から、後から込み上げてくる。
よかった、あたし、とりあえず、生きていける。
〇
泣き出したジルを穏やかな目で見つめ、そっと頭を撫でると、ママは「じゃ、とりあえず晩ごはん作るから。アリスちゃん、早く帰りなさい」
「あ、はい。あの! ジルがここにいるってこと、広めないでくれますか?」
アリスが、唐突にそう言う。ママはもちろんよ、と頷いた。あたしが理由を尋ねると、アリスは言った。
「さっき言った通り、襲われてたし、いるってバレたら、どうなるかわからないもん。だから、秘密ね」
「なるほど、わかった」
「アリスちゃん、よく考えてるのね」
ママが褒めると、アリスが恐縮したかのように言った。
「い、いや、そんなことないですよ」
「ううん、ミリアにも見習ってほしいぐらいよ」
「ちょっとママそれどういう意味?」
あたしは笑う。アリスも微笑んだ。
「それじゃ、お邪魔しました。また明日ね」
「明日、土曜だけど」
「ジルと話したいし、来るよ、こっちに。それじゃ」
あたしは、アリスに別れを告げた。彼女は手を振り、去って行く。
いつもこうならいいんだけれど。アリスの気弱さは、時折消える。大事な時には特に。今日みたいにテキパキしたアリスを見せられたら、ルミアだって黙り込むんじゃないか。いや、むしろ対抗心を燃やすだろうか。それにしたって、今みたいな扱いにはならないと思う。秀でた一芸もあるのだし。
けれど、アリスはそういう人だ。あたしがどうこう言う問題じゃない。それよりも、今は隣で音もなく泣き続けるジルだ。
「大丈夫?」
彼女はこくりと頷く。相変わらず無音で、しゃくりあげる声もなければ、肩も動かない。ただ、瞳から液体を垂れ流しているという感じ。けれど、彼女が泣いているのは恐らく、悪い理由じゃないだろう。そう判断して、あたしはジルを部屋に案内した。
「とりあえず、あたしはママの手伝い行ってくる。ごはんできたら呼ぶね」
「わかった」
△
「おいしい、これ、凄い」
「でしょ」
誇らしげなミリアに、母親も笑う。
「まあ、プロだしね。おいしい料理作らないと駄目だから」
晩ごはんとして出されたのは、ハンバーグ。けれど、ただのハンバーグではないというか。噛むと、口の中に肉汁が溢れ出し、その割にするりとほどけるように消える。多幸感と言おうか、本当に天にも昇る心地だ。パンに挟んで食べると、タレが生地に沁み込んで、なおさら味覚を刺激する。
「いや、それでもホントに凄いですよ」
偽らざる感想だ。言いたいことはいろいろあるけれど、言葉になるのはこれだけ。「凄い」だ。語彙力というものはたいてい、本心からの言葉に敵わない。
あたしは勢いよくがっついた。それで、あたしは自分が空腹だったことに気が付いた。冷静に考えると、目を覚ましてから始めての食事だ。胃袋が嬉しい悲鳴をあげている。まさに生き返るようだ。こんな食事を食べられるのなら、記憶喪失も悪くないと思わせる程には凄い。
「ごちそうさま」
ミリアがもう食べ終わっている。まだあたしは半分も食べ終わっていないのに。満足気に舌なめずりをすると彼女は、お風呂の準備をして来るねと立ち去った。
「まったく、あの子、食べるの速いでしょ」
「まあ、それは思いますね」
もっとも、これはあたしが食べるのが遅かったせいもある。味わっていたからだろう。普通なら恐らく、もう少し食べられるような気がする。
「あの子、宿題が終わらないのよ、こうやって寸暇を惜しまないと。朝早くから剣の特訓してて、だから早寝なのよね。で」
「時間が、足りない」
「そういうこと。ま、今日は仕方ないんだろうけどね」
そう言って微笑む。あたしは反応に困り、苦笑いを浮かべた。
「手伝えればいいんですけど、あたし、まだ五年の勉強にはついていけないみたいなんで、無理だ」
「いや、そういうことじゃないのよ。そもそも明日は土曜日だから、そこは心配ない。ただ、自分じゃそういうこと、絶対言わないのよね、あの子。弱みを見せないようにって、頑張ってる。そういう子なの。あたしと、夫のせいなんだけどね」
彼女は、少しだけ遠い目をした。
「今までのあの子の頑張りを見てたら、もういいよ、ごめん、なんて言えないの。だけどあの子は、きっと壁に行き当たる。その時に私がしっかりしないといけない」
そういえば、父親の話題が出たが、どこにいるんだろう。そうやって意識して見回すと、奥に位牌があった。察して言葉を呑み込む。
ひとりで、あたしまで育てるのか。どことなく申し訳ない気持ちがあたしを包む。
「あの子はそういう子。覚えておいてあげてってことが言いたくて。それだけよ」
〇
風呂に水を汲み終えて、あたしは自室に向かい、それからかばんを開いてノートを取り出す。今日は忙しかったし、明日は休みだ。けれど、どうせジルの調査で時間が潰れるので、今のうちにやっておこうと思った。
算数と、言語学。言語の方はまあまあできるので、さらさらとプリントを埋める。問題は算数だ。数の羅列にしか見えない。今日の授業でやったはずなのに、怒涛の展開に呑まれて記憶からするりと抜け落ちてしまったようだ。普段からできないと言われれば否定はできないのだけれど。
教科書とノートを駆使してなんとか記憶を呼び起こす。四苦八苦しながらプリントを進めていると、ジルが部屋に入って来た。
「宿題やってるの?」
「うん」
ジルは引き出しから四年の教科書を取り出すと、パラパラとめくり始めた。あたしはなんとかプリントを埋め終わり、ほっと息を吐く。学年の初めでよかった。まだ宿題が少ない。そうじゃなかったら絶対終わらなかった。
「なんだ、全然終わってるじゃん」
「ま、なんとかね」
片付け始めたあたしに、ジルはそう声を掛けた。彼女を見ると、まだ教科書を読んでいる。なるほどとか呟いているのが聞こえた。
「ここ、どういう意味?」
「え? ああ、ここは……そう」
乞われるままに、あたしはジルに訊かれた問いに答える。ジルはお礼を言って、また戻って行った。
「ねえ、なんで教科書なんか読んでんの?」
「だって、ずっとお世話になりっ放しって訳にもいかないから、記憶の謎は探らなきゃ。だけどそのためには、学校に行かないとマズい。で、できることならあなたたちと同じクラスにいた方が心強いし、だからまず、同じ学年になって通用するように」
「な、なるほど」
圧倒されて黙り込む。あたしは頭の中で、アリスとどっちの方が賢いだろうか、だなんて考えていた。
「行かないと変に思われそうだからね。あ、一応あなたのママにもその話はしておいた。ある程度のタイミングを見計らって、あなたたちのクラスに編入させてもらう。設定は、アリスもいる時に考えたいからまだ決まってないけどね」
そう呟いて、ジルはこちらを見た。
「改めて、これからよろしくね」
その表情は、童顔も相まって、とてもかわいらしいものに見えた。あたしもこちらこそとお辞儀を返す。顔を上げると、彼女はもう教科書に視線を移していた。
△
教科書に書いてあることは、知らないことばかりではあるけれど、難しいとは思えなかった。順序立てて理解を深めていけば、簡単に使いこなせるようになるだろう。五年生において通用するような学力を手に入れられるのも、そう遠くはないのではないか。そんな淡い期待が胸に湧いた。
ミリアはもうあくびをしている。まだ夕日が沈んでそう時間も経っていないはずで、眠気を覚えるにはさすがにまだ早いのではないだろうか。
「眠いの?」
「ああ、うん。朝早いからさ。日の出前には起きないと」
「学校に間に合わないの?」
「ううん、剣の練習ができないの」
「そんなことやってるんだ」
「まあね」
ミリアは自慢気に笑う。しかしその顔すら眠そうだった。
「お風呂入ったら、あたしそのまま寝るね。ジルはどうするの」
その問い掛けに、あたしはしばし考え込み、それから結論を口にした。
「あたしも寝るよ。ミリアの剣の練習見てみたいし」
それからお風呂が沸いたと呼ばれ、あたしたちは順番にお風呂に浸かった。幸いお風呂の使い方は忘れていなかったらしく、体を洗って湯船に浸かると一気に疲れが抜けていき、そこであたしは自分の疲労に気付いた。不意に、殊勝な気持ちが湧き起こる。
これからどうなるのか、それはわからない。だけどまあ、とりあえず、ミリアとアリス、それからママさんと一緒にやっていこう。
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