第二章 5
中城夫妻は、沖縄に戻った。
与那原の家には、二女しか残っていなかった。長男も、次男も、出稼ぎに出ていた。滅多に便りもなかった。
出稼ぎに出なくでは、与那原には、仕事はなかった。
居間には、舞の遺骨が、祀ってある。
秀建が、いかにも淋しそうな声で、
「みんな、バラバラになってしまったなあ」
と声を、床に落とした。
満枝が、
「仕方がないですよ。みんな、生活があるんですから。ここでは、なんの仕事もない。居ろと言う方が無理です。大きな会社なんて、ありませんからね。就職のしようがない」
と諦めたようにいった。
「那覇に出たって。同じだ。就職先なんてあるものか」
と言葉を吐き捨てた。
「本土は、沖縄なんか、見捨てているんだ」
と舞の遺骨に手を合わせた。
「今、家に居るのは、次女の琴だけです。長男の長建(ちょうけん)も、次男の秀球 (しゅうきゅう)も家を出て、現在、何をしているのか、便りもない・・・」
と満枝が、か細い声で、泣くようにいった。
舞の遺骨に、手を合わせた。
「ヤマトンチュウは、どこまでも、沖縄を、人間扱いにする気はないのだ」
秀建の双眸には、忿怒が、宿っていた。
「沖縄には、大企業も投資をしてこない。観光産業といったところで、客が、よほど来なかったら、一三一万八千人の、沖縄県民が、生活出来る訳がない・・・」
「だから、長建も、秀球も、沖縄を出ていってしまったのですよ」
「判っている。人間は、生なければならない。北海道・沖縄開発庁といったって、何をやっているのだ? 名前だけの、マイナーな役所だ。結局は何もやってはくれない」
「その思いは、全県民が、持っていますよ。いっそ、沖縄は、琉球国として、日本から、独立してしまった方がいいのですよ」
「満枝。思い切った発想だな。しかし、それは、正しいかもしれないな」
「はい。日本からも、アメリカからも、中国、朝鮮からも、離れて、独立しなかったら、いつまで経っても、日本と、アメリカの、奴隷の国になってしまうのです」
「む。私も、中学校を退職してから、十年、無為に年金生活をしてきたが、舞を、失い、二人の息子も、どこで、何をしているのか、判らない・・・だったら、残る人生を、沖縄の独立運動に賭けて見ようか。満枝。やってもいいか?」
「私も、あなたの、市民運動について、いきます」
「那覇の、県庁の前で、手造りの看板を立てて、座り込みをやる。心ある人は、賛同して、くれるはずだ」
「私も一緒に座ります。それが、舞への、供養です」
と老夫婦が、手を取り合った。
*
那覇市の県庁の前で、『沖縄の独立を、勝ち取り、琉球共和国を建国しよう』
と言う看板を立てて、中城夫婦が、座り込みを始めた。
カンパ用の箱に、浄財を、投入していく人たちが、少なくなかった。
やがて、中城夫婦に共感して、その左右で座り込みを、始める人たちが、日増しに増えていった。
誘った訳ではなかった。
自発的な行為だったのである。
夫婦は、無言で、ただただ座っているだけだったのである。
座り込みを、する人の数が、日増しにふえていった。
雨の日も、風の日も老夫婦は、座り込みを続けていった。
『沖縄独立』の、一粒の麦の種が撒かれていった。
その一粒が、日増しに増えて行った。
さらに、学校の講堂や、市民会館で、人が集まり、中城に講演を、依頼してくるグループが、増えていった。
中城は、座り込みの後で、それらの集会場に、出かけて講演を行うように、なっていった。
中城は、舞が、少女時代に、アメリカの黒人兵数名に暴行受けて、沖縄にいられなくなり、遂に悲惨な殺され方をしたことを、聴衆に訴えた。
自分の、心の奥底の傷を、自らさらけ出していった。
恥とは、思わなかった。
(舞が、仇を討ってくれと、叫ばせているのだ)
と思った。
(叫ばなければ、舞が、浮かばれない)
と言う信念を、秀建は、強く抱いていたのである。
すすり泣く声が、会場の四方から起こった。
秀建の、言葉に、沖縄の現状があるという思いを、会場の聴衆たちは思っていた。
(よく言ってくれた)
という思いが、会場に充満していった。
暴行をした黒人兵は、アメリカ本土に、送還されただけで、何の罪にも、問われていない。
「こんなことが、許されて良いのでしょうか? いつ、誰の身に降りかかるかもしれないのです。それなのに、本土の日本政府は、これまでに、何をしてくれましたか? 何もしてくれません。太平洋戦争のときと、まったく同じです。本土の捨石として、沖縄は、見殺しにされたのです。それどころか、爆薬を腹に巻かれて、あろうことか、味方の日本兵に狙撃されたのです。前門に、アメリカ兵。後門に、日本兵です。狙撃されて、いったのは、非戦闘員の、赤ん坊を胸に抱いた母親です。こうした、悲劇を、おじいちゃんや、おばあちゃんから、聞いたことのある人は手を挙げてみてください」
会場の多くの場所で、手が挙がっていった。
それも、勢い良く挙がったのである。
集まった、半数が、手を挙げた。
「このことを、本土の、ヤマトンチュウは、沖縄の県民に謝罪したことが、ありますか?・・・」
「ない!」
と会場から、一斉に、声があがった。
「それを、許せるのですか? 味方の母子を、狙撃して、自分たちが助かれば、良いのですか? 本土は、敗戦後七十五年間、頬被りをしたままだ。琉球は日本ではない。尚朝の国であったのを、江戸時代に幕府の命令を受けて、薩摩の島津が、首里城を陥落させて以来、日本に編成されてしまったのです。その、日本と、アメリカの都合で、安保が出来て、沖縄が、基地だらけになり、私の娘のような、悲劇の犠牲者が出た。これを、許せますか?」
「許せない!」
会場が、答えた。
秀建は、話ながら、涙を流していた。感動的な講演であった。
「我々、沖縄の人間は、日本から、独立する権利がある。独立後、戦争の賠償を日本に求め、アメリカに基地の撤廃を求める。安保条約を結んだのは、日本政府であって、沖縄、琉球政府ではない! 沖縄は、絶対独立するべきであります」
秀建の講演は、万雷の拍手で幕を閉じた。
このことを、翌日の地元のテレビと、新聞が、大きく報道して、沖縄の世論を喚起していった。
秀建の点けた火は、燎原の火のごとく、見るまに、広がっていった。
『琉球共和国の建国』
それは、沖縄県民の誰もが、心の底に埋もれ火のように、抱いているものでもあった。
琉球民族の血が騒いだ。
県庁前の座り込みの人数が、十倍単位で増えていった。
これが、東京の中央政府と、マスコミ伝わっていった。
「沖縄が、日本に帰属したのは、一六〇九年の島津氏の侵攻以来なのです。歴史としては新しい。 日本々土と同じ、自治制がしかれたのは、1920年のことです。一七世紀初頭に、侵略され、二十世紀に入って、自治制が、施行されたのです。
独立の資格は十分にあります。文献にもある周知の事実です。 二十一世紀の今日に、武力を以って、制圧をするようなことは、世界の世論が、黙っていないでしょう。 人口的に見ても、アイスランドは人口二十九万人で独立国です。ガイアナは、七十五万。カタールは七十六万、キプロスは、七十四万。キリバスは、八万人です。グレナダは、十万人。コモロは五十八万。サモアは、十八万。サンマリノは、三万。セントビンセントは十一万。セントルシアは、十六万。ツバルは、一万です。ドミニカは、七万。トンガは、十万。ナウルは一万人です。パラオは。二万にです。マーシャル諸島は、六万人。モナコは、三万。リヒテンシュタインは、三万。ユーゴスラビアから独立した、モンテネグロは、六十万です。 対して、沖縄は、一三一万八千人です。カケロマ島から、与那国まで、大東諸島までが、琉球共和国です。十分に独立に値にます。 例に挙げた国々よりも大きいのです。 歴史的にも、十分に独立の根拠を持っています。 独立後は、太平洋戦争で受けた、戦争の賠償を、日本政府に要求します。 米軍基地は、即時撤退。 自衛隊も、海上保安庁にも、撤退をしてもらいます。 琉球共和国の排他的水域を決定して、尖閣列島の領有権も主張していきます。あの海域は、魚の多く獲れる最良の漁場なのです。 中国にも、琉球の正当性を、堂々と主張していきます。 ここで、中国が、無茶を言ったら、国連に
加盟、安保理に提訴します。 空港を、整備して、バブ空港化したら、羽田の東京国際空港よりも、地政的に、沖縄の方が、有利なのです。仁川にも勝てます。那覇でトランジット出来たら、世界の各国に行けます。二四時間の国際空港にすれば、どこ
の空港にも負けません。 港湾も、整備して、コンテナを、自由に積み替え出来るようにしたら、間違いなく、東アジアの玄関になります。 空港の発着料金を低廉化する。港の係留代金も、低廉化する。為替市場を開設して、第二の香港、シンガポール化を目指していくことです。 空港と、港湾だけでも、相当の雇用が、生まれるのです。 日本と、離れることで、中国、韓国は、琉球に安心感を持つでしょう。アジアとの貿易だけで、琉球は十分に生活していけます。古来から、琉球は、交易の国だったのです。この地の利は、日本と繋がっているままでは、有効に活用できないのです。 米国が、基地を、動かさない場合は、規模を縮小させて、基地の使用料を要求します。 基地がなければ、戦争に巻き込ませることもありません。 独立によるメリットでしょう。基地の跡地は、住宅地化して、他の土地は、農地化します。食料の自給率を、引き上げます。 そうすれば、若者たちも、戻ってくるでしょう。農業人口も増えます。観光にも、力を入れて、世界有数のマリンレジャー天国をつくります。 一三一万八千人が、豊かに、暮らせる。それが、琉球共和国です。国民投票による、大統領制にして、小さな政府にしていく・・・」
秀建の言葉には熱がこもっていた。
講演を聞いていた、誰もが、秀建の計画を、うっとりと聞いていた。
いうことが、一々具体的であった。
日本の首相のような、抽象的な計画の言葉はなかった。
「一三一万八千人の幸福」
を考えていた。
地元のマスコミは、連日、秀建の言葉を報道した。
相変わらず、県庁前での座り込みを、時間があれば、行っていた。
イギリスや、ドイツに、琉球共和国の、憲法を、研究すべく、専門家に、草案を頼めるか、打診していた。
アメリカの大学教授にも、打診していた。
政府の制度も同時に、打診していた。
一院制の議会で十分であった。
それも、五十人未満の議員でも多過ぎると思い、三十人程度の、議員で良いと思っていた。
日本の政府は、悪い見本であると思っていた。
行政、司法も考えた。
三審制にするべきだと思った。
官僚機構は、ごく小さなものにするつもりであった。
そうしたことを、講演で、話していった。
話が、具体的であった。
「独立するかどうかは、国民投票で決めなくではならない。独立宣言の草案を、欧米の識者に依頼したい」
といった。
そうしたことが、日本の中央のマスコミで、報道された。
それは、飛んでもないこととして報道されていたが、沖縄の苦渋に満ちた、歴史を考えると、独立を支持する識者たちもあらわれた。
「日本々土は、沖縄に、あまりにも、大きな負担を掛け過ぎた。沖縄が、独立を、考慮するのは、自然な成り行きであり、これを、阻害することがあっては、ならないのではないか。歴史的にも、独立を思考されても仕方がないのではない」
という、識者も出現していた。
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