死んだらゴミだ

うつ病になってから、人生の価値について考えることが多くなったと思う。そのなかでいろいろな本を読んできたわけだが、ここへ来て決定的な一冊を読んだ。小説『神々の山嶺』だ。


本作は、山に人生をかけた男の生き様を描いたものだ。冬のエベレストを最難関ルートで単独登攀する。言ってみればただそれだけの物語なのだが、主人公の羽生丈二という男の凄まじさが、本書を名作に押し上げている。


羽生の人生は山に挑み続けることの繰り返しだが、彼はけっして山が好きなわけではない。そのような朗らかさを羽生は持ち合わせていない。不器用で、まったく社会に適合できない男。自信はなく、いつも自分を卑下してばかりいる。そんなだから、山に登ることでしか己の存在を証明できない。「山に登らない羽生丈二はただのゴミだ」と自ら述べるほどに。


この作品が描いているテーマは明確だ。「一度きりの人生をどう生きるのか?」。それだけを何度も何度も問いかけている。山は題材にすぎない。本当に重要なのはその奥にあるもの、すなわち、人間はこれと決めたものに、命をかける自由がある、ということなのだ。


翻って、現代社会では、とにかくリスクを避けることが良しとされている。命をかけるなんてもってのほか、普通に生きたい、そこそこ幸せであればそれでいい。そんな価値観が蔓延している。


そのなかで本書は叫ぶ。どうせ最後には死ぬんだぞ! たとえどんなにリスクを避け続けたところで、最終的には死が待っている。ならば安全に生きることに、いったいなんの価値があるというのか?


ところで、人生の最後に待ち受けている死を意識したとき、まず考えるのは「今、自殺しても同じでは?」ということだろう。


だが、それも違うのだ。本書は上記の考えについて、羽生の生き様で否定してみせる。


羽生は劣等感の塊のような男で、別に山が好きなわけではなく、登攀中は常に苦痛と戦っているわけだが、それでもわざと失敗……つまり死を選ぶような真似はしないという。「山屋は山に登るから山屋なんだ」「死ぬために登るんじゃない」「死んだらゴミだ」──死んだらゴミだ。死んだらゴミだ。死んだらゴミだ。


自殺をすれば山屋としての自分さえも否定する。そして羽生にとって、山屋であることは人生のすべてでもある。要するに、人生の価値が失われるから、自殺はしないというわけである。


こうした羽生の思想は、最近ポジティブ界隈で流行っている「存在しているだけで誰もが特別」「生きているだけで価値がある」という言説とは真逆を行くのだ。しかし、どちらが正しいのかと問われれば、それは羽生のほうだと思える。なぜなら、誰もが特別という言葉は、結局のところ何も意味がないに等しい。こんな言葉で自信がついたように感じるのは、ただのナルシシズムだろう。


では、人生の価値とはなんなのか。それは本書の最後に、ある人物の言葉を借りて述べられる。「その人が死んだとき、いったいなんの途上であったのか」。それこそが重要なのだと。


これを自分流に噛み砕いてみよう。人生の価値とは、何をしているかが重要だと言える。成し遂げられたか、それとも失敗したか、そうした結果は問題ではない。わざと失敗するような真似さえしなければ価値はある。無論、他人から見てどうのこうのは関係ない。あなた自身が「俺はこれをやっていれば俺だ」と言えるかどうかだ。

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