君がいた夏

櫻井 理人

君がいた夏

「俺は男が欲しかったんだ」

「何言っているのよ! あの子、今さっき寝たところなのよ……もし、聞こえてたら」

「大丈夫だって。まだ四歳だろう? 何言っているか、どうせ分からないって」


 これが、私が覚えている両親の一番古い会話。あれから十二年も経つというのに忘れられない。学校には友達がいない。人が怖くて……校内で唯一ホッとできるのは図書室の中。図書室で本を読んでいる間は、誰も話しかけてこないから。

 七月のある昼休み。私が手に取ろうした本に、もうひとつの手が――私は思わず手を引っ込めた。


「ん? ああ、もしかして、この本?」


 同じクラスの濱崎はまさきくん。少しお調子者のところがあるけど、イケメンで女子たちの人気者。私なんかが話しかけていい相手じゃない。私は逃げるように一歩下がる。

 けど、彼は「俺は後でいいから」と、笑顔で本を差し出してきた。


「あり、がとう……」

水瀬みなせは、図書室にはよく来るの?」

「……落ち着くの。誰にも、話しかけられないから……」

「ごめん、邪魔になっちゃった……よね」


 そう言って、彼は図書室から出て行った。

 けれど、その次の日も――。


「水瀬、隣……いい?」


 彼はまた笑顔で声をかけてきた。


「……私なんかに構っていたら、皆にバカにされるよ。私って、かわいそうな子だから……」


 そうやって言えば、楽だった。だって私は、父親に望まれて生まれた子じゃなかったから。言葉の暴力だけじゃない。現に今だって、首についたあざを見られるのが嫌で、絆創膏で隠している。


「……に言ってんだよ」怒りにも似た、彼の声。「自分で自分のことをかわいそうな奴にしてどうすんだよ」


 彼に気付かされた――その言葉で自分を縛り付けていたことを。

 今まで逃げ場所にしていた図書室が、楽しみの場所になるなんて――。






「何読んでるの? お、ミステリーじゃん」

「推理ものが小さい時から好きで。こんな物語を書ける人って、すごいなとか憧れるの。私も書けたらな、とか……バカみたいでしょ」

「書いてみたら?」

「えっ?」私は思わず彼の顔を見た。

「書いたら見せてよ――水瀬の物語」


 顔いっぱいにくしゃくしゃにした彼の笑顔。まるで太陽のような人。彼となら、一緒にいてもいいかな。違う……一緒にいたい、もっと話がしたい。そう思った。携帯電話の番号を交換して、とりとめのない会話をして……とても楽しい時間だった。






 けれど、長くは続かなかった。

 夏が終わった頃、彼は学校を休むようになった。

 白血病だった。

 毎日のようにしていたショートメールのやりとりが、ある時を境に途絶えてしまった。私からいくらメールを送っても、彼からの返事はない。

「濱崎くんに何かあったんだ」そう考えて、居ても立っても居られなくなった私は、彼の病院へ向かった。不安で、私は心臓が張り裂けそうな思いだった。受付をすませ、彼のいる病室へ顔を出す。


「濱崎くん……」

「……水瀬、どうしてここに?」

「メールが来なくなって、心配したんだよ」


 彼は大きな溜息をついた。


「顔……ひどいことになってるぞ」


 彼に言われるまで気が付かなかった。私の顔は、涙でぐしょぐしょに濡れていた。持っていたハンカチで涙を拭う。


「俺、年が越せないかもって。またお前に、かわいそうな子だからって言われたくないから、黙っていようと思ったのに」


 私は思いっきり首を横に振った。


「もう言わないよ。濱崎くんのおかげで変われたの。濱崎くんの笑顔に助けられたんだよ。この先も私の物語を書いていく。何年、何十年かかっても必ず叶えてみせる。だから、諦めないで」


 私の目から零れ落ちる涙を、彼は笑顔でそっと拭ってくれた。


「水瀬ならなれるよ、作家に――俺、見ているから」






 あれから二十年。

 彼の笑顔と言葉に支えられ、私はついに、夢を現実のものにした。

 雲間から指す陽光に、彼の面影を感じ取る。


「約束、ちゃんと守ったよ。見てくれているかな」


 心の中の言葉をそよ風に乗せ、空を仰いだ。

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