第26話 炎の森

塔の中は暗く、ひどく冷えている。


中央にすえられた階段は右に蛇行し、見上げると螺旋を描き上昇する構造をしている。


こんな階段は初めてだったが、壁に重心を寄せつつ上れば、問題のないことに気付く。


意を決して、駆け上がる。


壁には何も描かれていない。


ただレンガの集積が模様となって目に映るだけだ。


日の光はただ塔の頂上から注ぎ、登るにつれて壁のレンガの色は褪せてゆく。


次第に塔の頂上が近づく。


光はいよいよ増してゆく。


そのときになって、一心不乱に昇り続けていたぼくの耳に外界の音が、聞こえ始める。


始めに聞こえたのは、女の人の叫び声。


それが無数の雑音に消される。


足音。唸り声。悲鳴。


何かが破壊される音。


塔の下、その基に傷が付き、レンガが砕ける。


液体の飛び散る音。


助けて、という掠れ声。


誰かの名を呼ぶ、子供の声。


何が。


塔の外で何が起こっているんだ。


焦りに押され、駆ける足は止まらない。


頂上は近づく。


銀色の鐘が、日の光を反射している。


青空が見える。


そして、右目にそれはくっきりと映る。


巨大な黒い異形は、塔の上から、獲物に向かって降下していく。


塔の頂上で、小麦色の髪の少女はうずくまったまま動かない。


塔の頂上は横幅が五歩もない狭い空間だった。


その中で飛び出して、あの魔物と戦う事は無謀に思われた。


しかし、黒い爪がその髪に近づくさまが目に入ると、ぼくは短剣を手に頂上に飛び出していた。


そのとき、突然少女は立ち上がる。


彼女の髪が扇のように広がり、日に当たるそれは金色に輝く。


その金色の髪の背後から、黒い爪は迫る。


時間はなかった。


短剣を手に少女の元に駆ける。


やめろ。


短剣は突き出される。


少女の耳元を掠め、伸ばされるその刃は金のベールを突き抜ける。


そして黒い爪に迫ると一瞬の邂逅の後、弾かれ、刃先はずれる。


そして、三叉に分かれたその付け根の肉に、短剣の刃は突き刺さった。


手ごたえのある、柔らかいものを突き破る感触。


これが、生き物を切るということなのか。


やけに生々しく、おぞましい。


魔物から流れる血は黒かった。


苦痛に悶える叫びがあがり、魔物は中空へ舞い上がる。


巨大な翼とその体が太陽の光を隠す。


その顔は蛇に似て、口からは腐臭が漂う。


体は黒い鎧のような鱗に覆われ、一分の隙間もない。


爪はぼくの腕ほどの太さまであり、鋭く尖っている。


しかし、そこでぼくは気付いてしまう。


その魔物が一つだけではない事に。


血の匂いを嗅いで集まったのか、


塔の周りには空を飛ぶ魔物が満ちていた。


五、十、いや、十二は軽く居るだろうか。


それらが覆い重なるように、層を成し、こちらに漆黒の爪を向ける。


地上の悲鳴はこだまする。


炎の燃える音も聞こえる。


不意に視線を落とした先には、見知らぬ男が黒い塊に食われていた。


ぼくはこの言葉が正しいのかは分からない。


しかし、ぼくの中で絶望は叫んだ。


ここは地獄だと。


傷を与えた魔物は降下する。


その爪を避けようとするが、傍らの少女の様子がおかしい事に気付く。


身じろぎ一つしない。気を失っているのだろうか。


次の一瞬。


迫る爪で、視界は潰される。


恐怖の中、あの人の言葉が、今になってよみがえる。


風を見よ。


風の動き、突き出される爪の一刺しによって空気は流れを変える。


水面は乱れ、渦を巻くように。


その渦が相手の得物の範囲であり、重要な事は、それを避ける事だと。


もしそれができないようなら。


ぼくは、短剣を横に構える。


爪は円錐の形をして、例えるのなら矛のようだ。


さっきの一刺しで、この短剣でも魔物の爪に適うことは示された。


顔を目掛けて突き出される一突き。


短剣との衝突の瞬間、片手に鈍痛が伝わる。


彼我の重量や力があまりにも違うためだ。


電流のような痛みは腕から肩へ向かい、頭を揺らす。


意識が痛みでかすれる。


でも、ここで倒れるわけには、いかない。


歯を食いしばり、意識を保つ。


そして、その矛の表面を沿うように、短剣の先はなぞり、軌道をずらす。


腕がしびれ、感覚が不確かになる。


ただ魔物の攻撃をかわすだけなのに、意識は、体は限界へと近づく。


でも、これを避ければ、まだ逃げ道が、あるはず。


そう希望を求めて右目はさまよい、そして、その視界はもう一つの矛によって潰される。


ああ、さっきのが右の爪なら、こちらは左の爪なのだ。


短剣を握る手から、力が抜ける。


同じ攻撃を二度も防ぐ事は、ぼくには、できない。


傍らに力なく寄りかかる少女の重みに、ぼくはすまなく思う。


ごめんなさい。名前も知らない女の子。


ぼくは君を、守ってやれそうにない。


涙は出ない。


けれど、悔しい。


そう、もしかしたら、あの人なら。


二年前、山賊に立ち向かったあの人なら、もう少し上手く振舞っただろうか。


もう少し、大事に守っただろうか。


ごめんなさい。ハインリヒさん。


ぼくはあなたに、結局。


感謝の一つも言えなかった。


迫る爪がぼくの体に迫るまで、できなかったことへの後悔は続く。


そう。


ハヌアのことも、ぼくは分からないままだった。


いや、知ろうとしなかっただけかもしれない。


あなたはぼくにとって、仮の宿だったから。


あなたの息子には、決してなれない。


あの置手紙のように、書いて残せればいいのに。


伝えられない事がこんなにも、悔しい。


爪が眼前に迫る。


その表面は凹凸が激しく、自然に作られたような造形をしていない。


その錐のような先端が、ぼくの体を抉ろうと迫る。


観念し目を閉じた一瞬、また頭上に空を飛ぶものが通り過ぎてゆく。


風の音が、聞こえる。


そのさなか。


ふと、懐かしい、匂いがした。


轟音。


天から巨石でも落ちてきたような、それに叩き起こされるようにして、意識は目覚める。


目を開けると、足元の塔の半分は崩れ、その瓦礫と砂埃が辺りに舞っている。


白い靄に包まれ、辺りが何も見えない。


咳き込みつつ、上空を見る。


吊り下げられていた鐘が見当たらない。


それと、さっきまで目前に迫っていた魔物の姿が見えない。


土埃と瓦礫によって生まれた靄は、まだ濃いままだが、次第に、その中に生まれては消えてゆく鋼の響きがくっきりと聞こえるようになる。


魔物の叫びが聞こえる。


翼を持つそれらは尽きることなくその靄の中に飛び込んでゆく。しかし、それらはどれも一際高い叫び声をあげると、靄の中で地に堕ちてゆく。


靄の中、振るわれる剣が、ことごとくその黒い鱗を切り裂くからだろう。


ぼくはもはやその半分が抉られ崩れた形も定かでない塔の上でへたりこむ。


それはもはや、絶望からくるものではない。


単に、張り詰めていた力が抜けてしまったのだ。


もう、ぼくが戦う必要は、なくなったのだから。


ぼくは、あの人の匂いを知っていた。


その踏み出す足の強靭さも。


振るわれる剣の一閃も。


その身のこなしの機敏さも。


記憶の中で、ずっと守っていた。


けれども、やはり。


目の前の、靄の中で舞う影は、


頭の中の幻想より、速く、強く、美しい動きを見せる。


巨影にひるまず、驕りのないその動きには、一切の油断もない。


靄の中から一人の男が躍り出てくる。


瓦礫を渡り、構造の露わになった塔の外壁を、その足で砕きながら登る。


塔の頂上の塁壁を足場に、陽光を背に目の前に現れた彼のその姿は、二年の月日を経ても、やはり大きな猫に似ている。


二年間、夢にまで見た一瞬だった。


片足で彼は塁壁から飛び上がると、その大剣をぼくの背後に振り下ろす。


背後からの突然の魔物の叫びが、耳をつんざく。


油断していたのか、頭まで響いたその響きで、視界が揺れる。


それを見て、青い瞳は宝石のように輝いた。


「修行が足らんな。」


目の前の「あの人」はそう笑った。


太陽に照らされるその毛並みは昨日の夕陽を思わせる。


「この二年、呆けていたんじゃあるまいな。」


 ぼくは、応える。


「ずっと。ずっと待っていました。


 お帰りなさい。ハインリヒさん。」


熱い涙は留まることなく流れ続ける。


二年間押し殺してきたそれは、もう僕にはどうしようもなかった。


ハインリヒさんは、ぼくのそのあられもない姿に苦笑を浮かべると、頭に毛むくじゃらの手を載せて、乱暴に揺さぶった。

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