第12話 留まる雲

ヤヌアたちの住む村はその外周を草原や森に囲まれてはいるが、深い森を抜けた先に、断崖そびえたつ山脈が顔を覗かせている事を、あの村で知る者は少ないだろう。


太陽が暴威を振るう季節は過ぎ去り、草原に涼しい風が吹き渡るようになっても、山脈には、依然として積雪が見られ、山肌を白く染めている。


万年雪と呼ばれるそれらは、地上でどれだけの時間が経とうともそこで凍ったまま動かないのだという。


遠い海の果ての国の伝承では、長い年月を耐えた事物は、次第にそのありように意思を宿らせるという。


もしこれらの雪に意思というものが宿るのならば、そこにあるのは忍耐だろうか、それとも、変化のないことに対する退屈だろうか。


しかし、その混じりけのない白さには、絶望の黒は似合わないだろう。望みを抱き、それが叶わぬ事を嘆くのは、命あるものの権利だからだ。


命あるものは皆等しく地の色に汚れ、無垢なる天上にあこがれる。翼を持たぬものは仰ぐだけだが、それが時には幸せになる。


翼を持ったばかりに、届きもしない夢を追いかけ、そうして無残に堕ちてゆくよりは。


人の望みは限りがなく、それはたとえこの世を喰らい尽くしても、なお飽くことを知らないのだろう。それは、愚かしさを通り越して、哀れな性質に思える。


移り変わり行く地上とは違い、この山の頂は、時が止まったように動かない。


それは変化を諦め、追い求める事の愚かしさを学んだ果ての孤高の姿のようだ。


俺はこの静粛な雪に共感を覚える。叶う事なら、ここで足を止めて、求める事の苦難から、失う事の不可解さから、逃げ出してしまいたい。


しかし、俺のこの冷え切った願いを遂げるには、体はあまりにも熱を帯びていた。


俺は、半ば無意識に歩みを前へ向けて、気づいたときには、頂上の峰にたどり着いていた。


視線は静止した雪に奪われていたというのに、体は俺の帯びた使命を忘れてはくれなかったのだ。


元は俺の望んだことであったはずなのだが、歩みを進めてゆくうちに、使命という命もない紙切れが、ある意思を持って俺を突き動かし始めた。


思考はこの山の向こうに広がる海の街へ向かい、体は機械のように目的に向けて運んでゆこうとする。言葉というものが形を持って立ち現れたとき、その文言は時に密度を持った呪いになる。


人を突き動かす言葉を、一つ残らず呪いとするならば、われわれの誰もが、忌むべき魔術の使い手であるのかも知れない。


人を卑しめ、ときに滅ばす、かつて神によってもたらされた、万物を縛る契約の呪い。われわれはそれをことばと偽り、日々知らずにその魔力を行使し続けている。その言葉が牙を剥いたときこそが、それが物語を喰らうことで形をなした魔物であるのだろうか。


そして、天上に向かう山脈の上り坂は途絶え、呪いと、血と、災いに満ちた世界を、俺は図らずも見下ろす事になる。


山脈の岩壁と同化するように、その峰々は聳えている。


いくつもの櫓を積み重ね、その謁見への道を複雑にした城砦は、もう一つの山か巌のように見える。


街の三方を囲むように白い尖塔をいくつも突き出し、その間隔を縫うように城壁が構えられている。


ここは海の国、その中核たる都市。


異国から海を渡り来るすべての富と災いを受ける、岩礁の地だ。


浜辺は漁民と商人に解放され、磯と魚と油の臭いを漂わせている。


今日もまた、航海の嵐にも負けぬ屈強な男たちは、自らの船を頼りにして、海原へ漕ぎ出そうとする。


一方それを傍で見ているのは商人たちだ。数年前まで、この街は貧しく、魚と油が人々の糧であったため、彼らの姿は、つい最近になってそこかしこで見られるようになったといえる。


だが、俺はそれを、幻想であると知っている。


憎むべき、まやかしの街。


草原の果てには、物々しい白色の門がそびえ、その門の左右にこれも白い鎧を纏った兵士がおり、手にした槍でこの都市の入り口を守護している。門の前に行くと、左の門番が口を開いた。


「ここへ通るのを許されるものは、皆その証拠を持っている。出してもらおう。」


俺が村長から手渡された木札を見せると、右の門番が口を開いた。


「森の村人が、何用でこの町に足を踏み入れるのか。」


村長は、魔物の殲滅という使命は、みだりに口にしてはならず、表向きは偽るようにと言っていた。


「一人旅の身の上だ。海の街も珍しいので寄りに来た。」


門番は、特に気にする事は無いようで、石造りの門を左右に開く。門が開いてゆくと同時に門番たちの顔も見えなくなる。


門を通過しようとするそのとき、右側の門番がたまりかねたように口を開く。


「おい、おまえ、その顔、どうしたのだ。」


何でもないように答える。


「前に体中が焼ける酷い火傷を負った。風に当たると痛む。だからこうして包帯を巻いているのだ。」


ためしに見るか、と近づいてみると、門番はおののきつつ顔を背けた。


左の門番がこの頃流行り病が、町の中を飛んでいるようだから、体には気をつけたほうが良い、と念を押してきた。


私は、ありがとう、とだけ返した。


背後で門が完全に閉まると共に、轟音が耳を圧迫する。


背後からの風の流れが絶えた事を感じ取ると、


「後戻りは、できないか。」


そう独り呟いていた。

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