活きの良い魚が生簀にぴょんぴょん入ってきた

わたし、浅井藍乃の春休みのバイトは今日が最後。明日井口さんの大学に見学に行って、その次の日には高校三年生として登校することになる。


 高校生もこれで最後かー自分が大学生なんて信じられないな。そんなことを言うと隣で一緒に休憩していた井口さんが笑う。


「ここ最近、新品のスーツ着てる人多いと思わない?」


「え? そう言えばそうですね」


「あの人たち新入社員だよ。あの人たちも自分が社会人かーって思いながら出社してるんだろうね」


 言われてやっと気づく。そうだよねえ。きっとみんなそういう風に思いながら成長していくんだろう。井口さんは院生だからもう少し大学生だけど、でもきっといつかは社会人になる。わたしだってそうだ。いつまでも学校に通い続けるわけではない。


「他の人が大人になっていくのを見ても、自分もそうなるっていうのがなかなかピンとこないんですよね。焦っちゃいます。このままでいいのかな? 自分だけが子供のまま取り残されてないかなって」


「そんなことはないんだけどね」


 ゆっくりと井口さんは口を開く。


「みんなそうやって焦ったりあがいたりしながら大人になるし、きっと大人もそうやって焦ったりあがいたりして進んでいるんだと思う。でも自分がその立場にならないとわからないし、他の人の焦りって目に見えないよね」


「そうですね。焦ってるの自分だけじゃないって頭ではわかってても心が信じてない感じで。わたし以外の人はもっとスマートに生きてる気がしちゃう」


「そうなりたい?」


「?」


「焦らずスマートに生きたい?」


 聞かれて少し悩む。そりゃあ困ったり焦ったり悩んだりせず生きていけたらいい。でもまったくなんの困りごともなかったらどうだろう。わたしは紺の背中を押せただろうか。


「完璧にスマートでもうまくいかなさそうです」


「そっか」


「ない物ねだりなんですよね。結局」


 そうため息を吐くと井口さんは相変わらずの穏やかな笑顔のまま立ち上がる。


「それがわかっていれば大丈夫。さあ掃除に戻ろうか」


 気付いたら休憩時間も終わりの時間だ。靴ひもを締めなおし、モップを持って休憩室をでる。


「そういえば」


「?」


「その新しい靴いいね。浅井さんに似合ってる」


「!」


 なぜか顔がすごく熱い。


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