128 富士の樹海
「はあはあ……やっと道路が見えなくなってきたな……」
最寄りの駐車場から森に入り既に三十分。僕は今日青木ヶ原樹海に来ている。そう、通称富士の樹海と呼ばれる場所だ。自殺の名所としておそらく日本で一番有名な場所であろう。
幻の村があるだとかコンパスが狂うだとか都市伝説が数多くある場所だが、実際に入ってみるとそんなことはない。集落はあるが幻なんてもんでもなく、コンパスだって普通に北に針を向ける。だから言われるほど恐ろしい場所ではないのだが野生の動物だっているし、森の奥に入れば地図やコンパスなしで帰ることは難しい。つまり何もなしでは充分に死ねる場所ではあるのだ。それに加え富士山麓に広がる原生林に幻想的なものを感じ自殺志願者が集まるのだろう。かくゆう僕もそれが目的だ。
険しい森を進み、既に一時間が経った。僕はリュックを開けペットボトルを取り出した。意外に感じるかもしれないが僕は登山用の装備を身にまとっている(といってもそこまで重装備ではないが)。噂で聞いたのだが森の周りで定期的にパトロールをしている人がいるらしい。もちろん自殺を食い止めるためだ。軽装で森に入る奴なんかは自殺志願者にしか見えないだろう。無駄に重い装備にだいぶ前から息は切れ始めていた。
草木に阻まれながら少し進むとリュック位の大きさの岩が目に入った。たまらず腰を下ろし、水を飲む。粘り気を覚えた口内が水で冴える。少しぬるくなってはいるが喉を潤すには十分だった。時折聞こえる小鳥のさえずりに耳を傾け、僕は目をつぶった。
僕の人生を一言で表すと、普通、である。一般的なサラリーマンの家庭に生まれ、地方の国立大学を卒業し、今は小さな印刷会社の営業の仕事に就いている。結婚は三十前。子供も一人いる。嫁も子供も容姿知力共に平凡。まさに普通の人生である。それでも人によっては幸せに見えるのかしれない。でも、僕にはどうしても我慢が出来なかった。本当に何の面白みもない人生なのだ。それこそ死ぬほどつまらない人生なのだ。だから僕は今日富士の樹海に来たのだ。僕の普通の人生に終止符を打つために。
――ガサッ――
突如、遠くの方から小さな葉擦れ音が聞こえた。咄嗟に僕は身をかがめる。目を細める。良く見えない。動物だろうか――僕はリュックをそっと降ろし、中に左手を入れた。少しずつではあるが音は大きくなってきた。恐らくこちらのほうに近づいてきているのだろう。手が汗で湿る。僕の左手が目的のものを掴んだ。双眼鏡だ。僕は音をたてないように双眼鏡を取り出し、音のする方を見た。目標を捉えるにはそれほど時間はかからなかった。――人だ。服装は……ポロシャツにジーパン。リュックも小さい。えらく軽装だ。恐らくではあるが自殺志願者だろう。その姿を確認した僕は胸を撫で下ろし、リュックに再度手を伸ばした。
富士の樹海で毎年発見される自殺者の数は優に百人を数える。多そうには聞こえるが単純計算二~三日に一人の割合だ。面積三〇〇〇ヘクタールを超える富士の樹海で自殺志願者に会う確率はかなり低い。それが……早速遭遇するとは。僕はリュックから改造エアガンを取り出した。それを見つめ、口角を上げる。今日から俺の本当の人生が始まるのだ。
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