第7章 顧問選別ディスポーザブル 第3話『涙』

 吹奏楽部が練習している放課後の音楽室では、今日も怒号が飛んでいた。

「そこ! 音、外れてるわよ!」

「す、すみません」

 顧問のムジカは演奏を中断させ、ミスをしたフルートの生徒、レイチェルを叱る。

 合併してから初のコンクールともあり、気合が入っていた。

「コンクールまで時間がないのよ! 集中しなさい」

「はい……」


 部活が終わった後、レイチェルは音楽室で一人、泣きながら練習していた。自分のせいで賞が取れなかったらどうしよう、と不安だった。

「あら、まだ帰ってなかったの?」

 そこへムジカが鍵を閉めに、音楽室へ戻ってきた。

「い、今帰ります」

 ムジカの顔を見た途端、緊張でレイチェルの体が強張る。涙を拭わないまま、急いで楽器をケースへ仕舞い、音楽室を出て行こうとした。

 すると、

「待ちなさい」

 とムジカがレイチェルの肩をつかんだ。

 レイチェルは肩をビクッと痙攣させ、青ざめる。

「な、何でしょうか?」

 恐る恐る振り返ると、ムジカはハンカチを差し出していた。

「目が腫れてはいけないわ。使いなさい」

「あ……ありがとうございます」

 レイチェルはムジカの表情を窺いつつ、ハンカチを受け取った。

 淡い空色のハンカチで、涙を拭うと深い青に染まった。

「泣くことは悪いことではないわ。泣けば、人は強くなるもの」

「ムジカ先生も、泣いたから強くなったのですか?」

「……私は今まで一度だって泣いたことはないわ。貴方の先輩達がそうだったという話」

 ムジカ先生らしいわ、とレイチェルは思った。泣くどころか、笑った顔すらも見たことのないムジカならば、今まで泣いたことがないというのも真実味があった。

 だからこそ、レイチェルはこの冷酷無比な女傑の涙を見てみたいと密かに思ってしまった。

(どうしたら先生の涙を見られるかしら? とんでもなく悲しいことが起きたら泣いてくれる? 両親が死んだら? 感動的な映画を観せたら?)

 レイチェルは様々な案を思い浮かべてみた。

 が、どれもしっくり来なかった。

(いいえ、きっと何をしてもダメね。今まで泣いたことがないムジカ先生が、その程度のことで泣いてくれるとは思えないもの)

 ふと、レイチェルは理科学倶楽部の噂を思い出した。

 気に入らない人間を実験体として差し出すことで、美しく殺してくれるという噂を。死体は上がらず、表向きには行方不明扱いになるので、罪に問われることもない。

(きっとあの方達なら、いい助言をしてくれるに違いないわ。大丈夫、殺すわけじゃないもの。ただ、ムジカ先生の涙が見たいだけ)


 レイチェルはムジカと別れると、理科室へ向かった。

 既に部活は終わっていたが、部屋には三人の女生徒がいて、優雅にサンドイッチを食べていた。中身はフルーツ……ではなく、分厚いローストビーフとレタスが挟まれている。見ているだけで食欲をそそられた。

「いらっしゃい。何か御用?」

「ちょっとご相談がありまして……」

 レイチェルがムジカの涙を見たいのだと相談すると、オリーブ色の髪の女生徒が興味をそそられた様子で、ニヤッと笑った。

「いいわね、面白そう。ちょうど、いい薬があるのよ」

 そう言うとオリーブ色の髪の女生徒はサンドイッチが入っていたバスケットから小さな小瓶を取り出し、レイチェルに渡した。

「これはね、原液を直接触ると溶けちゃう劇薬よ。希釈してサンドイッチにかけると、とっても美味しいの。確かムジカ先生はドライアイで、目薬を常用していたはず……先生の目薬に一滴垂らせば、痛くて涙を流すはずよ。安心して。すぐに洗い流せば何ともないはずだから」

「ありがとうございます。大事に使わせて頂きますね」

 レイチェルは喜び、劇薬を持ち帰った。

「せっかくだから、コンクールの日に使いましょう。賞を取って、先生が涙を流す……あぁ、とっても素敵! そのためにも、もっと練習しなくちゃ!」

 その様子を理科室のドアから身を乗り出して見ていたオリーブ色の髪の女生徒は、ニヤッと笑った。

「あの子、逸材だわ。こっちに入部しないかしら」


 その日からレイチェルはより一層、練習に励んだ。

 驚くべき進歩に、周囲は「何かあったの?」と尋ねずにはいられなかったが、レイチェルは決して例の思惑を口にはしなかった。

 少し残念だったのは、どれだけ上手くなってもムジカが褒めてくれないことだった。どんなにレイチェルが上手な演奏をしても、仏頂面でいる。それがレイチェルをさらに駆り立てた。


 そして当日、レイチェルは最高の演奏をし、黒百合女学院吹奏楽部は金賞を受賞した。

 最高の評価に部員達が沸き立つ中、ムジカだけは仏頂面のままだった。

 その顔を見るうちに、だんだんレイチェルは「本当にたった一滴の劇薬で、ムジカ先生は泣いてくれるだろうか?」と不安になってきた。

「ムジカ先生は今まで一度だって泣いたことがないんだもの。きっと、一滴じゃ足りないわ」

 レイチェルはこっそり会場を抜け出すと、楽屋へ忍び込み、ムジカの目薬の中身をそっくり劇薬と入れ替えた。

「原液だと溶けちゃうって言ってたけど、すぐに洗えば大丈夫よね? 楽しみだわ、ムジカ先生が泣くところ」

 レイチェルはムジカの泣き顔をあれやこれやと想像しつつ、会場へ戻っていった。


 授賞式が終わり、レイチェル達が楽屋で荷物を整理していると、「キャーッ!」とムジカの悲鳴が聞こえた。

「ムジカ先生?!」

「何かあったのかしら?」

 生徒達は一様に心配そうな顔で、ムジカの部屋へと向かった。

 レイチェルも彼女達に混じって、ムジカの泣き顔を見に部屋へ赴いた。

「先生? 大丈夫ですか、先生?」

 部屋のドアを開けると、ムジカは両目を手で押さえ、うずくまっていた。

「先生、どうなさったんですか?」

「救急車……それと、警察を呼んで頂戴! 私の目薬の中身が、入れ替えられていたのよ!」

 うずくまられていては、泣いているか分からない。

 レイチェルは他の生徒に救急車を呼ぶよう頼むと、ムジカのそばへ寄った。

「今、救急車を呼びました。じきに来ます。他の方々に説明しなくてはいけないので、怪我の具合を見せて下さい」

「……気分のいいものではないわよ」

 ムジカは忠告したのち、手を退けた。

 ムジカの眼球は真っ赤に充血し、目の周りの皮膚はただれていた。目を覆った際に直接触れたのか、手のひらもわずかにただれている。

 その瞳からは汗をかいているのかと錯覚するほどの、おびただしい量の涙が流れていた。涙を流したせいか、いつもは全く変わらないムジカの顔が、真っ赤に火照っている。鼻も、駄々をこねて泣きじゃくった幼児のように真っ赤になっていた。

「キャァッ!」

「なんて惨いの……」

 痛々しいムジカの有り様に、部屋の外から遠巻きに見た他の部員達は悲鳴を上げる。中にはショックで倒れる者もいた。

 そんな中、すぐ近くで見ていたレイチェルはムジカの表情に釘つけになっていた。

 ムジカへの同情や、自分が起こしたことが間違いだと気づいたからではない。

 幼い少女のように泣きじゃくるムジカがあまりにも愛らしく、一目で心を奪われてしまったのだ。レイチェルの目には、劇薬混じりのムジカの涙が甘露のように映って見えた。

「ムジカ先生……先生の泣き顔はとても美しいですよ。今まで一度も泣いたことがなかっただなんて、もったいない。もっと早く先生の涙が見られたら、苦手だなんて思わなかったのに」

 レイチェルはムジカの頬に手を滑らせ、うっとりと見入る。

 ムジカは劇薬の痛みで頭が働いていないのか、レイチェルの異変よりも自分の泣き顔を褒められたことに驚いていた。

「……そんなふうに褒められたのは初めてよ。みんな、私が泣くと"泣けるんだ"って驚くから。中には"わざと泣いてるんじゃないか"って冷めた目で見てくる人もいた。だからどんなに辛くても、泣かないようにしていたの。ごめんなさい、一度も泣いたことがないなんて嘘をついて」

「いいんですよ。滅多に見られるものじゃないのは本当なんですから」

 レイチェルはムジカの頬に舌を這わせ、瞳から伝った涙を舐め取った。

 劇薬混じりの涙は塩味の中に酸味があって、舌が少し痺れた。


 ムジカは失明こそ免れたものの、その視力は著しく低下し、介助なしでは職務に支障が出るまでになってしまった。

 一時は退職も視野に入れていたが、レイチェルが介助の役を買って出たことで、教職を続けるに至った。

 レイチェルはムジカの自宅での介助も手伝うようになり、半同棲状態になった。それから交際へ発展するまで、さほど時間はかからなかった。

「ムジカ先生、可愛いんですよ〜。私が実家に帰ると、一人で部屋で泣いてるんです。その姿をこっそり見るのが、楽しくて楽しくて」

「良かったわねぇ。薬を希釈せずに使ったって聞いた時はどうなるかと思ったけど、警察は外部犯の犯行だって発表したし、これからは安心して先生といられるわね」

「本当にありがとうございます、オリヴィエ先輩。先輩が薬を下さったおかげですよ」

 レイチェルはオリヴィエに礼を言い、ティーカップに入れられたお茶を口へ運んだ。

 希釈した劇薬入りのレモンティーは、愛しのムジカの涙の味がした。

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