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気づけば、空を覆っていたオーロラはいつの間にか消えていた。
自転車を引きずりながら、大学への曲がりくねった道を歩き進んで行く。二ノ宮たちを放って置いたままだから早めに戻らないといけないけれど、今すぐ急いで戻ったところで、道草をくってから戻るのと大差はない。
「私、オーロラなんて今日初めて見ましたよ」
「俺もだ」
「何かこう、神様か何かに見張られてるような気分になりますね。人間が悪さをしないように空を占拠してるんですよ」
「神様は人間の悪さなんてどうだっていいと思ってるんじゃないかな」
「そんなことないですよ」
けれどさっきまで空に浮かんでいた緑色の光のカーテンはあまりに巨大で、地上に生きる人間の小さな形など歯牙にもかけていないように思えた。
「雪でも降りそうですね」
澄みきった夜空はどこかへ行って、星月の明かりは薄い雲に覆われ始めていた。独り身で迎えるホワイトクリスマスなんて、侘しさが増すだけだ。
「雪って気温が低いだけじゃできないんだってさ。水蒸気が氷点下10℃くらいまで冷やされて、そこに何かの衝撃が加わらないと雪にはならないらしい」
だいたいは氷晶核という大気中の微粒子がその刺激を与える役割を果たすけど、あまりに温度が低いと、氷晶核がなくても水蒸気だけで雪の結晶ができる。それこそ、オーロラが見れるような寒い土地の上空ならば。
平坦な生活の他には何もない。刺激を感じることもなく、雪になって地面に降ることもないまま、温度だけが底知れず下がっていく水蒸気——。
「本当は今日、大学の友達と集まることになってたんですけど、断ったんです」
「なんで」
「どうしても今日仕上げたいものがあって。クリスマスがテーマのものだから今日の気分で完成させたかったんです」
国枝は確か美術系のサークルに所属していた。何度か同じ学科のよしみで部室に足を運んだことがあったけれど、国枝の使うスペースにはいつも得体の知れない巨大なオブジェが据えられていて、天井の高い、灰色をしたコンクリート張りの部室の端にデンと構えて、自らの存在と空間を堂々と主張していた。
「よかったら見に来ますか」
「部室って他に誰かいるの?」
「いませんよ。クリスマスイブですし」
「よくそんな日に一人で部室なんて行く気になれるよな」
「わるいですか」
「悪かないけど……。いいよ。じゃあ見せてくれ」
「なんですかその上からの物言い」
「見せてください」
「いいでしょう。特別に」
「ありがとうございます」
「敬語はやめてください」
二ノ宮たちには連絡を入れた。〝もう少し時間がかかりそう〟と送ったら、〝鍋が惜しくばさっさと戻れ〟と返信が来た。
大学の構内にも、街と変わらずクリスマス用の電飾が施されていたけれど、こっちは駅前とは違って、暖かくも寂しげな雰囲気だった。
「文化祭の時に使われてた電飾にちょっと継ぎ足ししたくらいですからね」
「そうか」
美術部の部室は地階にある。部室は天井が高くて、広い。そこらかしこに部員が作った彫刻や絵画やオブジェが林立してる。地下ではあるけど、フロアに合わせて隣接する屋外の空間が掘り取られているので、昼間は窓から太陽の明かりが入ってくる。それでも人のいない暖房が切られた部室は、地面の冷気が伝わってきてひどく寒かった。
「こんな寒い場所で一人篭ろうだとかよくもまあ思えるな」
「先輩が釣れたので一人ではないです」
「べつに釣られたわけじゃない」
「魚はみんなそう言うんです」
「どういう意味だ」
「立花先輩、すごく急いでたから、今日はきっと誰か相手がいるんですよ」
「だったらなんだよ」
「なんでもないですよ」
「それより早くクリスマスの化身とやらを見せてくれ」
国枝は黙って部室の真ん中を渡り歩き、窓側の隅近くの場所に置かれたオブジェの前で立ち止まった。
それは一本の樹だった。
葉は一枚もなく、寒々しい色の枝が天高く分かれて伸びている。力強い形はしているけれど、その枝はどれも悲しく、絶望を養分にして伸びているかのようだった。
部屋に入った時この樹には気づいたし、国枝の作る作品はいつもあの場所に置かれていた。だけど”クリスマス”をイメージして作られた何かを視界に探していた俺は、この樹が国枝の言っていた作品だとは気がつかなかったのだ。
「ずいぶん寂しいクリスマスだな」
「そうですね」
答えながら国枝は、肩に掛けていたカバンを開いて中から何かを取り出そうとしている。俺は樹の1メートル半ほど近くまできて立ち止まった。見ていると、取り出されたのは何の変哲もない黒のマジックペンだった。国枝はペンのキャップを外し、自分が作ったクリスマスの化身に、よく分からないU字型の模様を二つ横並びに書き加えていった。
「それは、何を書いたんだ?」
「目です」
「目?」
「目を閉じているんです」
なるほど言われてみれば、マジックで書かれた二つのU字は、この樹の閉じられた二つの目らしかった。無造作に書き込まれたその顔は、荒涼とした裸木の表情としては不似合いといえば不似合いだったけれど、この樹を作った国枝という人間を俺は知っていたので、むしろしっくりくるような思いがした。
「クリスマスに幸せを祈っているんです。自分の幸せも、自分以外の人たちの幸せも。憂鬱の寒空の下にいても、心が温かくなるよう願ってる」
題は Christmas of Melancholy です、と国枝は言った。
「さっき言ってた友達のとこ、今からでも行ったらいいじゃんか」
「そんな遅くまで遊んでるわけじゃないみたいだから、今から行っても」
「じゃあ、俺たちのとこに鍋食いに来るか」
「気遣わないでください。そんな寂しがりじゃないんで」
「こんな寂しい樹を作った奴が強がり言うな」
「寂しすぎるかな、と思って顔を描き入れに来たんです。孤独な人は世の中に山ほどいます。私は自分が本当に孤独じゃないと思えるものを手に入れるまで独りで耐えていたいんです。奇跡はまっすぐに信じていないと起きませんから」
独りで耐えることに何の意味があるんだ。
「耐えてるんじゃなくて、他に何も手に入れるものがないから、たった一つの奇跡を羨望してるのかもしれませんね」
国枝の待つ奇跡が何なのかを俺は知らなかったが、言おうとしていたことは分かった。
俺の待っている奇跡はもうどこかずっと遠い場所に行ってしまった。それでも不意をついたようにあいつが夢に出てくる限り、俺は自分の願った未来を忘れられないだろう。
時々全ては俺が一人で見ていた幻だったんじゃないかという気がしてくる。だから口に出して人には言えない。けれど俺の心の中からどうやってもあいつは居なくならなかった。幻かそうでないかは分からないけれど、あいつはずっとここに居た。
国枝と大学の校門で別れて、俺は二ノ宮のいるマンションへと戻った。
別れ際に手を振り合った時、赤や緑の電飾で照らされた国枝の指先が、茶色の塗料で汚れていたことに俺はようやく気がついた。
夜11時を回る頃まで5人で鍋を囲んだり、どうでもいい話をしてから、解散する流れになった。
沿線を自転車で、二つ駅を越えていく。
電灯とわずかな月明かりの他には何もない道を、ふわふわとした頭でどこまでもどこまでも走り抜けていく。このままいけばE. T. や銀河鉄道のように、自転車で空まで飛んでいけてしまいそうだった。そして自転車の車輪は地面から少し浮き上がったのだった。回転する車輪はアスファルトの代わりに空気を踏みしめ、どこまでも高い場所へと昇ってゆく。線路沿いに立ち並ぶ家々が眼下を過ぎ去り、やがて街を一望できる高さにまで自転車は俺を乗せて飛んだ。風が身体を切り裂いてゆくけれども、あまりの楽しさに寒さなんて忘れてしまった。身体が少しずつ冷たくなってゆく。氷点よりももっと冷たく、氷晶核が無くたって氷になれるくらい冷たくなっていった。そしてやがて雪になった。六角形の結晶になり、オーロラの磁場の中へ飛び込んでいく。太陽の波動に当てられて、宇宙へと飛び出した。
真空の世界で瞼を閉じて、眠った。
Christmas of Melancholy Hoshimi Akari 星廻 蒼灯 @jan_ford
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