3

「だから、奇跡が身近なものとしてあればいいんじゃないかって思ったんだ」

 立花と最初にまともな会話をしたのは、冬の日のことだった。冬休みを控えて閑散とした構内のベンチで、初めて二人で座って話をした。そしてそれが最後の会話だった。妙に緊張してたのも覚えている。

 立花の返事は俺には聞こえなかった。俺の声も隣に座っている立花には届いてはいない。俺たちは互いに全く違う話をしていた。話す言葉のどこかは同じもののはずなのに、内容は全く噛み合っていなかった。

 会って話した場所と場面は同じでも、ここは夢の中だった。

 どうして俺は夢の中でも自分以外の誰かと話しているんだろう。ここは俺一人しかいない空間のはずなのに。俺が話している相手は皆、知っている誰かの姿をした自分自身だというのに。

 立花の姿がうっすらと霞んでゆく。俺は彼女のことを自分にとっての奇跡だと思っていた。彼女が俺の全てを変えてくれるのだと、だからなんとしてもその手を掴まなければならないのだと思っていた。けれど奇跡は、自分が生きたその結果でしか起こりえないものだった。そして奇跡は、奪い取った瞬間に全ての意味をなくしてしまう。俺は俺として生きていけばよかったのだ。なのに——。




 空を覆っているのは幸福でも奇跡でもない。一つの悲哀だ。

 胸にはいつも、最後に悲しみしか残らない。

「ごめん、ちょっと用事思い出した」

 時刻はあと十数分で6時になろうかというところ。鍋の席を立ち上がって、俺は呆気にとられる仲間たちの視線を受け止めた。

「何言ってんだよ?」

「すぐ戻るからさ。ちょっとだけ出かけてくる」

 国枝が立花を駅で見かけたと言って電話をかけてきた時間まで、急いで自転車を走らせれば、今からでも間に合わないことはない。

「なんだよ用事って?」

「友達に会ってくる」

 二ノ宮はさっきの俺の話を思い出して、その相手が学科の同級生なんじゃないかということに気づいた。けれどすぐに、その人物が二時間前の人間だということを思い出して、頭の中で訂正した。どのみち、二ノ宮は皆んなの前でさっきのことを口にしたりはしなかっただろう。

 部屋の中の空間は入り乱れてしまっていた。俺はそんな狭い3メートルの距離を渡り歩いて、靴を履き、鍋を囲んだ4人の仲間に「じゃあ」と言って扉を開けた。

 外は風が吹き始め、来たときよりもずっと冷えている。エレベーターで一階へ降り、アパートの備え付きの駐輪場へ歩いて、自転車のロックを外す。クリスマスを彩る電飾の一つのように、巨大なオーロラが緑色の光で微かに照らす夜道を、自転車で走り抜けていくと、今だったらどんな馬鹿げた願いを胸に抱くことも許されるような気がした。

 もしも立花に会ったら、何と言って声をかけよう。偶然を装って、そんなに関心もないんだというようなふりをして、何気なく声をかけるにはどうすればいいだろう。今日会えなければもう二度と会えないかもしれない。けれど、俺は立花と自分が会話をしている様子がどうしても思い浮かべられなかった。どんなに頑張っても、互いに黙って睨み合っているような姿しか浮かんでこない。それなのに俺は自転車の一漕ぎづつに駅へと近づいていく。電飾の灯りが増えて、人の集まる街の喧騒が近くにあるのが伝わってくる。駅はすぐ目と鼻の先にある。腕時計を見ると18時の手前だった。

 駅前へ続く大通りへ出ようとしたところで、裏通りのビルの非常階段から、男が一人、ものすごい音を立てて転がり落ちるように地上へと降りてきた。俺は思わず自転車を停めた。

 夕方に見たあの男だった。

 黒い服が夜闇に紛れて、暗闇が暗闇の中でうごめいているみたいに見える。俺と男との間には20メートルくらいの距離があり、電灯のついていない暗い裏通りで、男は地面にうずくまったまま、俺には気づいていなかった。転落して、怪我をしてる。男の足元に何か光るものが見えた。夕方頃、空に掲げて手に持っていたライトか何かだ。

「それは返してもらう」

 遠く闇の中から誰かの声がして思わずびくりと肩がすくんだ。

 男は声を聞いて、自分の降りてきた裏通りの奥に顔を上げた。全く気づかなかった。ずっとそこいたんだろうか? 高校生くらいの女の子が一人、男の目の前に唐突に現れ、迷いない足取りで詰め寄って、地面に落ちていたあの光るものを掠めとるように拾い上げた。

 二人は何かを話し始めた。男の方は骨折でもしているのか、起き上がらず地面に両膝をついたままだった。距離があって、俺からは二人の会話がはっきりとは聞き取れない。かすかに聞き取れる言葉の断片も全くの謎だった。

 突然女の子が俺のいる方向を向いた。こっちに気づいている。

 それから、自分が急いでたんだということを思い出した。

 仲裁に入って、救急車なり何なり呼んだ方がいいと思った。だがなぜか、俺はこの二人に近づこう気になれなかった。

 なんでだろう?

 俺には、その二人が人間ではない何かのように思えたのだ。

 少しの間迷ってから、自転車の頭を返し、別の通りから駅に向かうことにした。女の子が男を殴り殺すなんてこともないだろう。あの二人がちゃんと言い合いをできるくらいの関係なら、他人の俺がどうこう余計な口出しをする必要はない気がした。もう、18時を少し過ぎている。

 スピードを上げて、なんとか人でごったがえす駅のロータリーまでたどり着いた。なんでもっと急がなかったんだ。適当な場所に自転車を停めて改札へと駆け足で向かった。けど立花を見つけてそれで一体どうするつもりなんだ?

 駅前のロータリーはイルミネーションの光で溢れていた。並んで歩いているカップルもちらほら見かける。街は俺の困惑とは関係なく暖かい輝きで包まれている。外気は凍てつくような寒さだけれど、俺はそのことを忘れてしまっていた。

「先輩、何してるんですか」

 振り向いて、背中から声をかけてきた国枝を見つけた。改札から出てきたところだったんだろう。

「なんだ。近くに来てたんなら言ってくださいよ」

 国枝が俺に電話をかけた後だとすれば、立花はもうここにはいない。

「驚かせようと思ってさ」

「驚きましたよ。鍋の材料買いに行ってたんじゃないんですか?」

「ああ、でも立花にも一応会っておこうかと思って」

「立花先輩はさっき電車乗って行っちゃいました」

「そうか」

「やっぱり会いたかったんじゃないですか」

「まあな」

「素直じゃないですね」

「お前、ほんとに今日暇か?」

「だったら何ですか」

「鍋やるから一緒に来るか。サークルの友達と一緒にいるんだけど」

「遠慮しておきます。変な感じになりますよ」

 それもそうだった。

「今から大学行くのか?」

「はい」

「じゃあ俺も途中までついてくよ」

「いえ、邪魔です。帰ってください」

「……あっそ」

「冗談ですよ。あーやだな、こんな日に先輩と並んで歩かないといけないなんて」

「帰る」

「冗談ですって」

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