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二ノ宮の家に着いたのは俺が一番最初だった。学生時代から変わらない、古いマンションの4階の部屋だ。
「見ろよ、オーロラが出てる」
5時になり、日の沈んだ窓の外を眺めていた二ノ宮は黄昏た目つきで暗い夜空を見つめていた。
「オーロラは極地近くじゃないと見られないんだよ。寒いからカーテン閉めろ」
「冗談だと思うだろ? でも外見てみろ」
俺は手に持っていたスーパーの買い物袋を床に置き、むりやりカーテンを引きに行くつもりで窓際へ詰め寄った。
「ほら」
カーテンの裾を掴みかけた俺は、二ノ宮の声でちらと夜空に視線を送って驚愕した。
鮮やかなライトグリーンの色をした光のヴェールが、空一面を覆って輝いている。
「綺麗なもんだなー」
のんきにそんなことを言ってる二ノ宮が俺にはまるで狂人かのように見えた。けれどすぐ、自分もその狂人と同じものを見ているのだと気がついた。
「ロシアの空がやってきたんだ」
俺はすぐに携帯でSNSを開いて、オーロラの出現がニュースになっていないか確かめた。”オーロラ”で検索をかけると続々と出てくる。どうやら見間違いや幻覚ではないらしかった。
「そうやってネットの情報で現実を確かめてばっかいると、自分の目で外の世界を見るやり方を忘れちまうぞ」
「お前だってそういう世代の人間だろ」
「俺は自分の目に見えるものを信じてる。お前はすぐに自分の見てるものを疑う。綺麗なものが見えてるんだから綺麗だなーって思えばそれでいいんだよ」
返す言葉が見つけられないくらい、俺は空に浮かんだオーロラに目を奪われて、固まっていた。
「この分だときっと今年は本物のサンタクロースが来るな」二宮は言う。
「サンタクロースなんてものは日本にはいない」
「けど東京にオーロラが現れるんだぜ?」
「オーロラは自然現象だけど、サンタクロースはミラのニコラウスをモデルにした空想だ」
「今夜のオーロラだって誰かが空想したものかもしれないだろ?」
そう言われて俺は、ここへ来る途中で見かけたあの黒い服を着た男のことを思い出した。馬鹿げてた。けれどあの男が、オーロラの素を空に蒔いていたという想像が、頭の中で広がっていく。
「さーてじゃあ、サンタクロースを呼ぶために鍋の用意でもするか」
二ノ宮はそう言って立ち上がると、部屋の入り口に置いてある、俺が買ってきた食材を物色し始めた。二ノ宮が何か言ったりしているのを背中に聞きながらも、俺は窓の外から目を離すことができずにいた。
「……そういえば半年くらい前にもこういうことあったよな」俺はふっと思いだして、台所に立ってまな板や鍋を取り出している二ノ宮に尋ねた。
「半年前は6月だぞ」
「オーロラじゃなくて、流れ星が大量に出て、夜なのにむちゃくちゃ明るかったことだよ」
「あー、あったな」
「……ちょうど今日と同じくらいの時間だった。日が沈んだ少し後で……いや、6月だから、日没も今より遅かったか」
「世界の終わりが近いのかもなぁ」
俺の人生はまだ何も始まっていないのに、世界はもう終わろうとしてるのかあ、と、二ノ宮は愚痴とも嘆息ともつかない声で言う。
「さっきここに来る途中でさ」
空に手をかざして立っていたあの男のことを話そうとしてから、自分が考えてることの荒唐無稽さを思い出して言葉を切った。
「なんだよ?」
「や、なんでもない」
「なんだよ気になるじゃん」
「……学科の後輩から、電話がかかってきたんだよ」ごまかすために話題をすり替えた。「昔の知り合いを駅で見かけたって、わざわざ知らせてきたんだ。そいつも今日は予定無くて、どうせなら連れて来ればよかったかなって」
「今からでも呼ぼうぜ」
「いや、いいよ。変な感じになるだろ」
「昔の知り合いってのは?」
そこで言い淀むことなく普通に答えていればよかったのに、俺は喉が詰まったように何も言えなくなってしまった。
「なんだ? 言えない相手なのかよ?」
「学科の知り合いだよ」
「怪しいなー。ただの知り合いじゃないな」
いや、ただの知り合いだった。「なんでもないよ」
「うそつけ。ほら、他の奴が来る前に白状しといたほうが身のためだぞ」
「学科の授業で一緒だったんだよ。電話かけてきた後輩ともたまたま同じ講義受けてたから、一緒の知り合いってんで知らせてきただけだよ」
「女だな」
「だったらなんだ」
「はー、分かったぞ。そいつに片思いしてたんだろ」
「そんなんじゃない」
「ま、どっちでもいいけどな」
万事承知したとでも言うように話を切り上げた二ノ宮に、言い返したくはあったけれど、話がこれ以上広がらないならそれはそれでいい。言い返せば余計にややこしくなる。
携帯からネットを使って、オーロラの発生条件や日本で見られた過去の事例なんかを調べてみた。日本では北海道や北陸地方、それもオーロラの上端が赤く見えることが稀にあるだけで、見えたとしても時間は18時過ぎだと書いてあった。今、空を覆っているライトグリーンのオーロラは、日本を離れた高緯度の地域で、24時前後でしか見られないもののはずだった。
「やっぱり、おかしい」
「オーロラか?」
「こんなの普通じゃない」
「普通じゃないものは存在しちゃいけないのか」
「普通じゃないというか、ありえない」
「ありえるかありえないかなんて人間が決めることじゃないだろ」
けどデータはありえないと言ってる。
——長いこと時間をかけて積み上げた研究考察をたった一つの発見によって覆された科学者の気持ちが俺は分かるような気がした。
奇跡によって幸福をもたらされた人は、それまで自分が努力によって積み上げてきた時間が否定されることを、どう思うのだろう。幸福は確かに訪れた。あらゆる事象がそれを幸福だと言っていて、自分も幸せを感じている。けれどその脇で、自分たちが長い時間をかけて積み上げてきた一つの道がまるで不要になったゴミのように打ち棄てられていたとしたら、それを本当に幸福で、幸運だったと心から思えるんだろうか。それは偉業ではあっても、自分たちの無力さと、世界の真の法則への服従を条件とした幸せであるように思えた。俺には、奇跡に全てをかけた人生で得られた奇跡しか、本物とは認められないような気がした。けど、自分が何か目に見えないものを一つまっすぐに信じて生きていけるほど、強い人間ではないことも、よく分かっていた。
チャイムの音が鳴って、二ノ宮がドアを開ける。メンバーが三人になったところで、俺は今まで何度も繰り返してきた自分のあてどない考えを切り上げた。
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