1.


 今年のゴールデンウィークは昭和の日が日曜日なので、30日の月曜日は振替休日。ならばこのまま5月1日、2日も有給休暇を取って休みたいところだが、わたしの実績ではまだまだ難しい。加えて最近契約を取った創作鉄板料理屋の板長さんはなかなか強気な商売人で、導入してもらったレジアプリに少しでも不備不明があればいつでも構わず問い詰めの電話をかけてくる。あちらも仕事なので仕方ないのだけれど、これでは休みでも休んだ気がしない。後もう2回システム不備の連絡が来たら技術部の人間の電話番号を渡してやろうと思う。


 日頃の憂さは自分を高めて晴らすべし。それがわたしの理念。憲法記念日の昨日は、予約していたネイルサロンへ行った。最近は手入れを怠けていた爪の先を綺麗に整えて、鮮やかな萌葱のベースに磨りガラス風の桜色を散らす。それがまるで桜の花びらみたいで大変気に入った。


 中学の頃、『柏と桜の餅コンビ』ってよく男子に囃されたっけ。大して考えもせずからかっただけの言葉なのだろうけれど、周囲から見てもコンビだと認められている気がして、ひそかに喜んでいた。


 ふたりで見る世界は、なんだってキラキラしていた、あの青春時代。


 お互いあんなに気が合い、仲良く出来た友人がそれまでいなかったから、それはもう運命というやつを感じてしまう程にわたしはさくらに惹かれていた。


 同じ中学へ進学してからは、一緒に美術部に入り、部活のあとは空き教室で話して帰るのが日課。給食着の詰まった袋でバレーボールごっこしてたこともあった。学校指定のコートはよく入れ替わり、もうどっちがどっちのか分からないね、なんて周りの子たちに呆れられた。家庭科で縫ったブックカバーも、技術で工作した小物入れも、部活で描いたイラストも、大体は当然のように交換する。土日はどちらかが必ず電話をかけるし、1週間顔を見ず声も聞かずでいただけで、再会は感動ものになる。


本当に飽きもせず、わたし達は一緒にいた。


 その頃から英会話教室に通っていたさくらは大学卒業後、子供向け英会話教室で講師をしつつ、時々短発で翻訳のアルバイトをしている。元々カレンダー通りの休みのないさくらだが、珍しく本職で3連休を貰っていた。今年は一緒にゴールデンウィークを満喫出来ると喜んだのも束の間、さくらはその分副職に精が出ると言い、今日は朝食を終えるとすぐデスクに噛り付いてしまった。


 デート、したかったんだけど……。


 子供の頃から愛用している辞典やら専門書やらを熱心にめくってはキーボードを鳴らす桜の後ろ姿を残念な気持ちで見つめた。こう、と決めたさくらの気持ちを変えられる者はそうそういない。せっかくの連休だからどこか遊びに行こう、とさくらが思ってくれるように半月前からフラグを立てては刷り込み、時には直接誘ってもみたけれど、今回は副収入の魅力に勝てなかった。


 そういえば昔、親とけんかして家に帰るのを渋るわたしを、「ドラえもんに間に合わなくなるから」とすんなり置いて帰ったこともあった(今でもドラえもんと天秤にかけられたら、わたしの甘え事は敗北してしまうかもしれない)。もう少しそばにいてと(物理的に)追い縋るわたしを(物理的に)振り払い颯爽と帰路へ去るさくらを、あの時ばかりは恨めしく見送ったっけ。


 仕事モードに入ったさくらは周囲の気配に敏感で、邪魔が入ることを極端に嫌う。彼女の気を散らさないうちにそっと家を出た。


 昨日の雨が嘘みたいに天気は晴れ。アパートの前の葉桜が日差しを選り分けて足元に零す。大家さんが管理しているらしい花壇には白と黄色のポピーが咲き誇っていた。

 この前見つけた雑貨屋さんにでも行ってみようかな。それとも新しい企画展が始まったあの美術館まで足を延ばそうか。さくらはちゃんとお昼を食べるかしら。冷蔵庫に何かあったっけ。お土産に差し入れでも買って帰ろうかなぁ。


 県道では大型連休らしくサンデードライバーが列を成し、ぬめぬめと行進している。無計画なまま気もそぞろに街をさまよう、こういう過ごし方は嫌いじゃない。自由と権利を得て、大人になったという実感がある。そのわりに結局はさくらのことを考えてしまう、相変わらずの自分もいるのだが。


 ぼんやり歩いていたから、向うから近づく見知った顔にすぐに気づけなかった。


「あれ、わぎちゃん?」

 わたしをこう呼ぶのは職場の数名だけ。人ごみの中から現れた声の主は案の定、同じ部署の先輩だった。

「畠山さん。お疲れ様です」

 柏木の上を捩って「かっしー」なんて安直なあだ名はよく付けられていたけれど、なぜか下側を捩って「わぎちゃん」と命名したのがこの畠山さん。苗字4音は呼ぶのに長い、という理由で部署内でちまちまと浸透してしまった。別にいいけど。

「お疲れ。買い物?」

「いえ……まぁ、はい。暇つぶし中です」

 悪い人ではないし親交もあるが、休日に出会って嬉しくもない。どうしたって仕事のことを思い出してしまうから。

「そうなんだ。俺は今日も……“アレ”でね」

 気まずそうに笑う畠山さん。妻子持ちの彼は数日前から夫婦げんかを拗らせて実家に帰ってしまっているが、女手一つで育ててくれた母親から「朝10時から夜8時までは家に居ないように」と約束させられたらしい。その日中在宅禁止令の表立った理由は「近所の目があるから」ということだが、畠山さん曰くその真意は「オトコがいるから」なんだそうだ。家出当初、「あの歳でオンナをしている母親なんて見たくなかった」と畠山さんは毒づいていたけれど、母親とてその歳で家出してくるアラフォー息子など匿いたくはなかろうと、わたしは思う。


「わぎちゃん、よかったら1杯付き合わない?」

 畠山さんがそう誘うのは、何か話したいことがある時だ。ひとまわり近く歳の離れた、しかも部署の先輩だが、今までにも幾度かこの流れで職場や家庭の愚痴や悩みを聞かされてきた。業務上ではそれなりに恩のある人なので、気の向く限りは付き合って差し上げている。

 今日もどうせこれといった用事もないし、気を紛らわすのにもちょうど良いので承諾してあげることにした。





 24時間営業の立ち飲み屋、ってちょっとしたパワーワードよね。

 

 とりあえず生、で乾杯して真昼のジョッキに泡立つ黄金の罪悪感で喉を潤す。自分達のように連休を持て余した大人や、帰省した親戚や友人たちと酒を酌み交わす人々で、店内はそれなりに賑わっている。


「昨日の夜さ」 半解凍状態の枝豆を口の中でしゃむしゃむ鳴らしながら、畠山さんが呟く。「長男に会いに行ったんだよね…」

「え。家に帰られたんですか?」

「いや、それは嫁が起こるだろうから。塾が終わるタイミング見計らって……」

 待ち伏せたってわけか。まだ1週間目の家出親父のはずだが、もう親権を失った元父親の様相を呈し始めている。

「息子さん、寂しがってたんじゃないです?」

「それが声をかけたら、俺を見るなり『父ちゃんなにしてんの? 俺、野球観たいから帰るね!』 だって。泣きそうになったよ…」

「おう……それはまた」面白い息子さんですね、と口から出かかったが堪えておいた。そんな事を言おうものなら、いくらおごりのタダ酒でもおいしく飲めなくなる。

「奥さんとは進展ないんですか」

畠山さんの今回の喧嘩の発端は夕食当番についてだったと記憶しているが、そもそもこちらのご夫婦はなにかと喧嘩が絶えず判まで押した離婚届がもう10枚は家にたまっているとよく畠山さんは零している。

「もうそろそろ決着をつけないと、とは思うんだけど……子供のために。でも俺も嫁も、もう引っ込みつけられない所まで来てる気がしてさ」

 弱々しく視線を落とす畠山さんの手元、外気に慣れてきたジョッキを伝う雫が、1粒、また1粒と水滴を取り込んで加速していく。





 例えば、テーブルの上にテレビのリモコンがひとつ。


 片手でスマホをいじりながら、視界の隅でそれを探る。チャンネル番号が整列した筐体の下半分、大きな円状の凹凸のすぐ下にある縦長のボタンへと感触を頼りに指先が目指す、その途中。


 ピ。


 画面の中で踊っていた韓流アイドルがガタイの良い女装家に変わり大声で笑いだす。

「なにすんのよぉ!」

 割り込んでチャンネルを変えた相手を非難がましく睨めつける。

「え…チャンネル変えてあげたんじゃん」

 悪気がなかったように動揺する顔に、なぜか無性に腹が立つ。

「音量、ちょっと下げたかっただけよ。余計なことしないで!」

「なっ、大して見もせずにスマホいじってるからつまらないのかと思ったんだろ?!」

 始めは人が良い風を装って下手に出ていたくせに、すぐ言い返してくるのも怒りに油を注ぐ。

「あれはわたしが毎週見てる番組じゃない…!」




 例えば、残業帰りのリビングのソファ。


 疲れた顔で倒れ込めば、コンビニのおにぎりで慰めただけの胃が思い出したように不平不満をぶつけてくる。

「あー腹減った…」

 ラーメン食いてぇ。カツ丼食いてぇ。ニンニクのくっさい料理でもいい。

 しかし、だ。食欲と共にいつも、同期の姿が頭をかすめる。あいつはどうして、あんなにスーツが似合うんだろうな。同い年なのに、ジムにも行ってないのに、背筋は伸びてるし腹は出てないし。腕まくりしても裾が肉に食い込まない。事務の子もあいつには殊更愛想良い気がする。

 時々、鏡の前で姿勢を正して立ってみるが最早それだけではないなにかを感じる。生まれ持った顔面か、オーラか。燃費だって俺よりいいんだろう。夜中に夜食とか飲みの締めにラーメンとかもしないんだろうな。

 それにどうせ今、この家には食べたいカツ丼も餃子もハンバーガーもない。妻の手料理は不味くはないが、今この俺の腹と引き換えにしてまで食べたい訳でもない。静かに胃袋が諦めるのを待とう……。

 そう決意する意識の向こうで、次第にソースの匂いが立ちのぼり鼻先をくすぐり始める。それから、フライパンを鳴らして何かを焼いたりかき混ぜたりする音。

「……なにしてんの?」

 頭だけ上げて、発信源の妻に声をかける。まさか、と思いながら。

「お腹空いたって言うから、焼きそば…」

「いやいや、いらないよ。頼んでないだろ」

 なんでこんな時に気を利かすんだよ。だったら金曜の飲み会帰りに、いやそうな顔で出迎えるのやめてくれた方が全然良い。

「だって、帰りも遅かったし、食べてないのかなって」

「いいってば。勝手なことすんなよ!」






 顔色を見て、できれば笑わせたくて。

 気持ちを探りあって、できれば喜ばせたくて。

 その声に一喜一憂して、できればそれが続いて欲しくて。


 そんな事を続けながら傍にいたら、いつの間にか気持ちだけ忘れちゃうんだろうか。

 どうしてすれ違うようになってしまうんだろう。

 満ち足りて溢れたのか。そもそも違う器だったのか。



 前に、畠山さんと奥さんのなれそめを聞いたことがある。大恋愛ではない、友達の友達というありふれた出会い。近づいたり離れたりしながら、それでも手を取り合うことを選んできたふたりなのに。

 結婚したら、何が変わるというのだろう。それとも、過ごしてきた長い時間のせい?


 わたしとさくらも、いつか変わってしまうの?

 どうでもいい喧嘩が笑いごとにならなくなる日が来てしまうのかな。

 その深い根元にあるのは、好意や愛情であるはずなのに。


(あぁ、でもわたしも……)


 幼い嫉妬と我儘を曝け出して、さくらを責めたことがあった。あの冬の日の、彼女の不思議そうな顔が今でも忘れられない。いつもの可愛くてあざといのとは違う、わたしの吐き出す全ての受け止め方が分からないでいたさくらの顔。

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