あーん


  美少女にあーんをされるシチュエーションを男なら、誰だって一度は想像するだろう。

 学校の誰もいない教室で、静かな公園で。

 そして、今のような体育館裏で。

 何度も想像してきたことだが、実際にされるとなると頭が動かない。

 ただ、それを受け入れるだけなのに。誰も見ていないはずなのに。物凄い羞恥心が俺を襲う。


「あ〜ん」


だが、そんな俺を逃さないとばかり水瀬は近付けてくる。

 いや、無理。恥ずかし過ぎる。こんなことあの子にだってされたことないのに。

 俺は耐えきれなくなってそっぽを向く。


「もう、奏君逃げないでよ」


逃げられたことが、気に入らないのか水瀬から抗議の声が上がる。


「いや、無理。俺のメンタルはそこまでまだ強くない」

 

 その証拠に、バクバクと俺の心臓は先程のように早まっており自分の耳で聴こえる程だ。一日一度ならまだしも二度は完全に俺のキャパを超えている。

 

「はぁ…あむ。……急いでも仕方ないか。奏君だもんね」


 パイナップルを頬張り、残念そうな顔を浮かべる水瀬。どうやら、今日はこれで終わりのようだ。本当に良かった。これ以上はマジで無理だった。


「そろそろ帰ろっか」


「あぁ─「隙あり!」─むぐっ!?」


水瀬の方を振り返って返事を返した瞬間、口にパイナップルを突っ込まれた。


「えへへっ、作戦通り。奏君は意外とガードが緩いね」


 あーんに成功したからか、水瀬は嬉しそうに頬を綻ばせる。


「いや、これは仕方ないだろ。誰だって引っ掛かるわ!」


「ごめんごめん。でも、私どうしても奏君にあ〜んしたかったから。引っ掛けちゃった」


「〜〜!本当さ、水瀬そういうのはずるいぞ」


 そんなこと言われたら、これ以上文句なんて言えるはずがない。


「アハハッ!奏君知らなかった?女の子は皆んなずるいんだよ」


 また、楽しそうに笑う水瀬。少し前までなら考えられない彼女の変わりように、俺もあんな風に笑えるようになるのかなと、バレないように羨望の眼差しを向ける。


『…バイバイ』


 脳裏にあの子の悲しそうな顔がよぎる。

 俺はいつになったら乗り越えられるのだろうか?うざったいくらいの快晴の空を仰ぎながら心の中で問いかけるも、答えなんて返ってくるはずもなく俺は苦笑を漏らすのだった。



「……はぁー、疲れた」


 昼休みが終わり、教室に戻ってくると有馬にまたダル絡みをされ何とか捌き切ったが、精神的に疲れたので自分の席に戻るとすぐ机に突っ伏した。

 すると、俺の想像以上に疲労していたのか直ぐに視界が微睡み始める。

 このまま寝てしまおうか。

 心地よい睡魔に身を任せ、意識を手放さそうとしたところで、ブブッとそれを妨げるように俺のポッケに入っていたスマホが鳴った。

 眠い身体に鞭を打ち、スマホの電源を入れると店長からメールが来ていた。


『今日、急遽出掛ける予定が入ったから、バイトはなしだよ。本当にごめんね』


 店長が営業日で店を閉めるのは、体調を崩した時だけだと思っていたので、少し俺は驚いた。

 出掛けるって何処行くんだ?

 そんな疑問に答えるように続きの追加でメールが届く。


『仕入れ先が少し舐めた事してきたから、締めてくるわ』


 あぁ、店長これ絶対怒ってる。

 普段どんな時も、メッセージは丁寧語で話す店長が荒い言葉を使っているのが何よりの証拠。

 余程、酷いことをされたのだろう。注文していないものが来て請求されたとか、不当に値段を吊り上げられたとか。ぱっと思い浮かぶのはそれくらいだが、まぁ、こんなことをされたら怒るのも仕方ないか。


『やり過ぎないようにして下さいよ』


 と、軽く注意のメッセージを送り電源を切ると、今度こそ俺は意識を手放した。







 






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