3
あたらしい暮らしはつつがなく回り続けていた。
アラームに指定された時間に目を覚まし、身支度を整えてから『同居人』である観葉植物の鉢植えに水をやる。
コーヒーを淹れ、簡単な朝食を用意してからBGM代わりにと音量を絞ってつけたニュースを流したまま、じっくりと新聞を読む。PCを立ち上げ、メールチェックの後、返信の必要なものには素早く返答を返す。
溜めこんだ書類を片づけ、後回しにしていた古い知人への手紙をしたためる。積み上がった本の山から目に付いたものを手にとっては読む傍らで、週に数度は図書館に赴く。
行きつけになったいくつかの店に気まぐれに顔を出し、時折、列車を乗り継いで小一時間ほどの大きな都市へと出て、日が暮れる前にはこの町へと戻る。
一日の終わるころには、これといって記憶に残ることがなくともなにかしら感じとったことを探るようにして日記を書き記す。
おろしたばかりの革靴が次第に足に馴染んでいくかのように、ゆっくりと確かに、日々に根をおろしていく心地よさを僕は感じていた。
古めかしい煉瓦作りのお役所に図書館、反するように、近年建て替えられたばかりだといういまだ真新しく清潔な文化ホール、落ち着いてコーヒーの飲める喫茶店に、焼きたての薫り高いバゲットを提供してくれるパン屋、静かに夜を過ごせるバー、それに、小高い丘の上で町を見下ろすかのような教会。
なによりも大切なことは、そこに言葉と心を交わしあうことの出来る、大切な『ともだち』が居てくれることにほかならないのだけれど。
「いまの仕事を目指すようになったのには、なにかきっかけはあったの?」
そうっと首を傾げるようにしながらこちらをのぞき込んでまっすぐに尋ねてくれる、優しいその仕草に促されるかのように、ゆっくりとした口ぶりで僕は答える。
「小学生のころ、近くに住むおばあちゃんの家によく遊びに行っていて。そこで飼っている猫のことがすごく好きだったんだ。真っ白でふわふわの毛にところどころ黒いぶち模様が混じっていて、名前はニィニィ。元は迷い猫だったんだ。僕はニィニィのことがすごく好きで、ニィニィもよく懐いてくれた。子ども心に、僕は彼のことを親友だと思ってた」
「うん、」
きらりと光るまなざしに導かれるままに、記憶の糸をたぐり寄せるようにして言葉を紡いでいく。
「ある日学校で、家の中でおこったユニークな出来事を書くようにっていう作文の宿題が出たんだ。僕はおばあちゃんの家で留守番をしている間、ニィニィと探検ごっこをして遊んだことを書こうと思った。どんな風に書けば楽しかったことをみんなにわかってもらえるだろうか。どんどんのめり込んでいった僕は、おばあちゃんの部屋のクローゼットの向こう側にあった猫の王国にニィニィと冒険の旅に行った思い出を書いた。どこかで見聞きした物語のつぎはぎにすぎなかったけれど、気がつけば手が止まらなくなって、規定されていた枚数よりも二枚も多く書いた。自分でも自信作だったから先生はきっと褒めてくれると思った。期待に胸を躍らせる僕を前に、作文を返してくれながら先生は言うんだ『上手に書けているね、でも本当にあったことを書かないとだめなんだよ。点数はおまけでつけてあげるけれど、今回だけだからね』って」
「……手厳しいね」
がっくりと肩を落としたようなそぶりで答える姿を前に、苦笑いを交えながら僕は答える。
「わかっていなかったんだ、子どもだったからね。でも、それだけじゃなかった」
しゃんと誇らしげに胸をはるようにして、僕は答える。
「隣のクラスを受け持っていた先生がある日、僕を廊下で呼び止めていうんだ。『作文を読んだよ、君はすごい才能の持ち主だね』って。確かに宿題からはずれてしまったかもしれないけれど、それだけ自由に想像を巡らせて形に出来るのはすごいことなんだよ。よかったらこれからも好きに書いてごらんって。大人の人にそんな風に言ってもらえるなんて思いもしなかったから、すごくうれしかった。続きのお話を書いて先生に見せにいくまで、そう長い時間はかからなかった」
「……すばらしいね」
感慨深げなため息を洩らしながら、ディディは答えてくれる。
「才能の芽を摘まなかった先生もだけれど、そこですぐに期待に応えられる君はもっとすごい」
遠い過去の自分へと贈られているのだとわかっていても、素直な言葉はどうしても照れくさい気持ちをかき立てる。
「子どもだったからね」
「大人になっても続けていられるんだからなおさらすごいよ」
「大人になれなかっただけだと思う」
ぽつりと頼りなげに答え終わると、ゆるく唇を噛みしめる。
想像の中で眠りに就く言葉たちを描き出すことは、いつからか自然に始めたたったひとりでひそやかに出来る遊びで、それ以上でもそれ以下でもない、そのはずのことだった。
いつか自然とやめてしまうのだろう、いつの日か必要としなくなるのだろう―いつも心の片隅でそう思っていた他愛もない『遊び』を、まさか生活の糧にする日がくるだなんて、あのころの僕に聞かせることが出来たのだとしたら、果たしてどんな顔をするのだろうか。
「小学校を卒業して、中学に入って、それから高校に通うようになって―それでも僕はごっこ遊びをやめることが出来なかった。ただ書くのが勿体ないから、だなんて送った賞にはあいにくかすりもしなかったけれど、何度もめげずに送るそのうち、向こうから声をかけてもらえた」
「へえ」
興味深げにこちらをのぞき込んでくれるまなざしの奥に、やわらかな色がまたたくように鈍く光る。得意げな心地になりながら、ゆっくりと僕は答える。
「アドバイスをもらっては書き続けるそのうち、短い物語のいくつかを雑誌に載せたいと言ってもらえた。大学に入ってからもつきあいは続いて――そのうちに、一冊目の本が出してもらえた。ただの思い出づくりで、それっきりだと思っていたけれどね。それでも編集者は言ってくれるんだ、『次の本はどうしましょうか?』って。信じられない、そう思いながら、それでも僕は書くことをやめられなくて、地元のちいさな会社に勤めながらほそぼそと物語を書いていた―結局それも二年でやめてしまったけれどね」
「物語とともに生きていく決心がついたから?」
苦笑いをこぼすようにしながら、僕は答える。
「ある朝、どうしても起きられなくなってしまって―そんな日がまる一週間続いたもんだから、翌週には辞表を出したんだ」
まったくもって情けない笑い話ではあるけれど、嘘偽りはかけらもないあたり。
「神様が命令を出してくれたんだろうね、君はそんなところで過ごしている場合じゃないよって。それにしたって、随分とらんぼうな話だとは思うけれど」
「もしそうだとしたら、いまの僕を見たらどんな顔をするんだろう」
「大丈夫だよ、きっと」
頼りないつぶやきにかぶせるように、明るく笑いながら彼は答える。
「立ち止まらなければいけない時なんて誰にだってあるでしょう? そういう時はきっと、あたらしいなにかに変われるチャンスなんだと思う」
きっぱりと明るい口ぶりは、ただおだやかに背中を押してくれるかのような心地よさに満ちている。
「いっそのことまったくちがう仕事にでも就いてみるとか?」
「それもいいかも」
かすかな笑い声は、乾いた秋風の中に音も立てずに静かに溶けていく。
×月×日
図書館でワイルドの『幸福な王子』を元にした絵本を手に取る。
絵画のように色鮮やかで繊細な美しい挿し絵とともに綴られる、研ぎ澄まされた優しい言葉で紡がれる物語はその実ひどく残酷で皮肉めいていて、子どもに読み聞かせるのにふさわしいものなのかとすこしばかり首を傾げてしまう。
あり余るほどの富と名誉を手に入れ、王宮での贅を尽くした暮らしを過ごした王子は人々の痛みを知り、施しを与える喜びを知り、やがて真実の愛を、それを喪う永遠の悲しみを知る。
命を燃やし尽くしたその先、天上に昇った彼が永遠の安寧を手に入れることで物語は幕を閉じる。それがほんとうに彼がほしかった「幸福」なのかどうかは、きっと誰にもわからないはずだ。
素直に涙を流すことの出来なかった僕は、ひどく冷酷な人間なのかもしれない。
人の心を動かすもの、涙を流させるものがなにかだなんて、きっと当人にだってわかるはずもない。彼に、涙を流させたもの―僕の心が映し出せなかったものがそこにあるのだとすれば、それはいったいなんなのだろう。
うなだれるような心地になりながら、インクで汚れた指先をぼうっと眺める。
「こんばんは」
こっくりと深いウォールナットブラウンのドアをくぐりながら、遠慮がちに声をあげる。カウンターが五席並んだこじんまりとしたバーの奥では、着飾った若いカップルが上着に袖を通しながら帰り支度をしている最中だ。
「やあ、いらっしゃい」
節くれた指先でそうっとメニューを差し出して見せながら、店主の男はつぶやく。
「ディディならきょうは休みだよ」
「いえ、」
曖昧に言葉を濁すこちらをそうっと覗き見るようにしながら、声をひそめたささやき声が落とされる。
「そのほうが都合がよかったかい、それとも」
答えることも出来ないまま、すこしくたびれた色褪せた黒いエプロンの紐がだらりと胸元へと垂れ下がるさまをぼうっと眺める。
「気になるだろう、そりゃあ。『友だち』なんだから」
「……いえ、まあ」
ぎこちなく視線を揺らすこちらを前に、やわらかに包み込むように、優しい言葉は続く。
「そのために来たんだと思ったんだけどな」
詰まらせた言葉ごとぐっと深く息をのめば、かすかな安堵とともに、息苦しさはますます高まる。
「―ほんとうは、」
振り絞るようなかすれた声を震わせながら、僕はつぶやく。
「いいのかなんてすこしもわからなくって。裏切っているのと変わらないんじゃないかって。でも―出来ないから、聞くことは。少なくとも、僕からは」
グラスを磨く手を止めると、どこかあきれたようなようすの――それでも、とびっきりのおだやかさだけを溶かし込んだささやき声がそうっと落とされる。
「期待はずれかもしれないけどな、こっちが知ってることなんていくらだってないんだ。喋ったってなにも問題がないようなことばっかりだ」
「いいんですか、ほんとうに」
震えた声で投げかける問いかけを前に、顎をしゃくるようにしながら、波紋を落とすように静かな言葉は広がっていく。
「もう二年になるんだな、いまでもはっきりおぼえてるよ」
二年前、教会を訪れた際に紹介された見慣れぬ青年――それがディディだったのだと彼は答える。
「たいして大きくもない町だからって、たがいに終始監視しあってるだなんてことはない―噂話だって別にまわりはしない。その点はこの町の美点だと俺は思うね。俺が出会ったのだって偶然だよ。たまたま用事があって教会に行った時、神父様のことを取り次いでくれたんだ。俺は真っ先に聞いたよ、『さっきのは親戚の子か誰かですか』って。神父様は答えるんだ、『しばらく一緒に暮らすことになった新しい家族なんだ』って。それ以上聞くことなんて、あるはずもなかった」
寂しげに瞳を伏せるようにしながら、おだやかな言葉は続く。
「教会に預けられるなんてのはなにかわけがあった人間だって相場は決まってる。歳を聞いて驚いたよ、十代の子どもだろうと思った相手が、二十二になってすこし経ったところだっていうんだから。いまよりもずっと不安げで頼りなくて、なにかに怯えているみたいで―無理もないはずだ、いきなり新しい環境に放り込まれたんなら、そうなったっておかしくない。まるで飼い主とはぐれてふるえてる犬みたいだ、なんて思ったのをよくおぼえてる」
どこか遠い場所をまなざすように、わずかに目を眇ながら彼は答える。
「しばらくしたころ、神父様から相談がもちかけられた。ディディをうちの店で働かせてくれないかって。ちょうど長く勤めてくれた従業員が辞めたのがどこかで耳に入ったんだろうな。すぐさまふたつ返事で承諾したよ。それまでにはもう、時折世間話くらいならする間柄になってたっていうのも大きかったんだろうな。ディディの働きぶりは思った以上だった。よく気がつくし、相手のことをほんとうにしっかり見て話すことが出来る。器用だし、ものおぼえもいい。それにあの見た目だ、ディディを目当てに通う客だっていくらだって現れた。それでも気がかりだったのはいつも洋服の下にぴったりした薄手の長袖のシャツを着て、素肌をすこしも見せないようにしていることだった」
静かに息をのむこちらを前に、なにかを決意するかのように重い響きをたたえた、確かな言葉が手渡される。
「ある日のことだ。ひどく酔った客が手を滑らせた拍子にグラスを落としたんだ。ぶちまけた中身は運悪くそばにいたディディにぶつかって、薄いグレーのシャツの袖はぐっしょり濡れた。ひどく恐縮したようすで謝ってみせる客を前に、ディディはあからさまに怯えたまま、手渡したタオルで必死に腕を覆い隠すようにしながら精一杯に笑ってみせるんだ。まるで、なにかをこらえているみたいに―」
ぎこちなく声を震わせるようにしながら、それでも確かに―祈りにも似た静けさで彼は答える。
「けがでもさせてたんなら一大事だ。客の側にかすり傷ひとつないのを確認してから、わざとらしく強い口調で俺は言った。『ディディ、ここはもういいから下がって。手当をするから』幸い、こんなちいさな店に集まるのなんて常連ばっかりだ。俺は強引にディディを裏までひっぱって行くと、けががないかをみせるように言った。その時俺は、はじめてあの腕を目にした」
かすかに息を震わせるこちらをじっときつく見つめたまま、波紋のように言葉は広がる。
「目にしたその途端、俺は言葉が出なかった。露わになった両腕には幾筋もの亀裂みたいな切り傷に、まだらな鬱血の痕、それに、ちいさくて丸いやけどのひきつれの痕だらけで―すぐにわかったよ、煙草を押し付けられた痕だ。幸いガラスの刺さったような真新しい傷はすこしもなかった。だからなんだって言うんだ―ただびっくりしてなにも言えなかった俺を前に、消え入りそうな声でディディは言うんだ、『ごめんなさい、もうすこしも痛くないから。心配させてごめんなさい』って。子どもみたいに頼りない声で、きっと何度もそう繰り返してきたのがわかるように。だから俺は言ったよ。気づいてやれなくってごめんな、無理に隠さなきゃいけないなんてもう思わなくっていいからって。だって不自然だろ? 誰のことも傷つけてなんかいないのに。洗い物をする時にディディが袖を捲るようになったのは、それからすこし後のことだったよ」
「それで……、」
ぽつりと力なくつぶやくこちらを前に、一匙ばかりのあきらめと赦し、その両方を溶かし込んだかのようなゆるやかな笑みを浮かべながら彼は答える。
「そうなれば、自然と腕の傷が俺以外の相手にも目に入るようになる。あんたがそうだったみたいにな。そりゃあ気にするよ、みんな。気まずそうに心配の言葉をかけられる度、打ち消すみたいに明るく笑ってディディは答えるんだ『子どものころにいたずらがすぎてよくけがをしてたんだ、もう平気だよ。心配してくれてありがとう』って。そんな風に言われたら、それ以上聞けるはずもなかった」
いまに目に浮かぶようだ、と僕は思う。笑顔はその実、やわらかな拒絶を意味している。それ以上触れないでほしい、傷を見ないでほしい。執拗に隠すことを辞めたことと、ありのままに明け渡すこととは別物だから。
「ある意味で安心したところもあったよ、それでも」
ぎこちない苦笑いを浮かべるようにしながら、店主は答えてみせる。
「注射の針の痕は見えなかった、俺が見る限りは。それに真新しい傷だってあれからは増えてない」
言わんとすることは、痛いほどにわかるのだ。
「俺に言えるのはそのくらいだ、それで満足か?」
「充分すぎるくらいには」
力なく答えながら、ところどころ折れ曲がったメニュー表の文字をぼうっと眺める。あの日、新しい出発の祝いにと彼が奢ってくれたアイリッシュコーヒーがこの中にないことにいまさらみたいに気づく。
「気にならないだなんて言えば嘘になるよ、あんただってそうだろ? でも、そういうもんだろ。いまのディディはここで暮らしていて、もう新しい傷は増えない、あいつを傷つける相手はここにはいない―自らそれを選ぶこともない。他愛もないことで笑ってる、『ごめん』じゃなくて『ありがとう』で答えてくれる」
自らに残された消えない傷みに向き合いながら、それでもちゃんと、前を向いて生きている。
「あんたが来たのは黙っておいてやるよ。気まずくなるだろうからな」
カウンター越しにかけられる忠告めいた言葉を前に、ぶん、とかぶりを振って僕は答える。
「いいんです、話してください。黙っていられるほうが却って気まずいから」
「友だちだから?」
「ええ、」
力なく答えるこちらを前に、静かなほほえみがそうっと覆いかぶさる。
「律儀な友だちを持ったもんだな、あいつも」
「火曜に、店まで来てくれたんだよね?」
いつもそうするように、墓標にそっともたれかかるようにしながら投げかけられる問いかけを前に、すこしだけこわばったそぶりを必死に覆い隠すようにしながら僕は答える。
「あぁ、」
こちらのようすに気づいているのか、いないのか――いつもどおりのやわらかな笑みを浮かべたまま、優しい口ぶりで言葉は続く。
「ごめんね、ちょうど休みの日だったもんで。言っておけばよかったのかなって、あとになってから思ったって遅いよね」
「いや」
ゆるやかにかぶりを振るようにして、僕は答える。
「聞いていなかったのは僕のほうだから、そんなこと」
――これはほんとうのことで、あの日の巡り合わせはただの偶然にすぎなかった。信じてもらえるかどうかはわからないけれど。
ぶざまに視線を揺らすこちらを前に、にっこりと笑いかけながら彼は答える。
「言われたんだ、いい友だちが出来てよかったねって。ここに来てから、親切にしてくれる人にはおかげさまでたくさん出会えたけれど、友だちって呼ばせてもらっていいのかはやっぱりちょっと難しくって」
はにかんだように笑いながら、しなやかな指先がすこしだけうねったやわらかな髪をなぞりあげるさまをぼうっと眺める。
「ここに来たばかりのころね」
懐かしむようにゆるやかに瞼を細めてみせながら、ささやき声は落とされる。
「初めはハーヴェイさん――神父様が、教会の仕事を手伝ってくれれば給金は出すから心配はいらないってそう言ってくれたんだ。でも、そういうわけにもいかないでしょ? 僕は神様の使いになんてなれるわけないんだしね。自分でもちゃんと探しますって言ったら、神父様のほうからなにかしたいことはあるかって持ちかけてもらえて―だから答えたんだ、人と話を出来る仕事に就きたいですって。そしたら、パーシーさんのお店でちょうど人が足りなくなったところだって話を持ちかけてもらえて。せっかくのチャンスだからがんばらないとって思ったら、幸いみんな、親切な人ばっかりで」
誇らしげに答えてみせる口ぶりには、おだやかな慈しみの色がやわらかに滲む。
「ほんとうは、自信なんてすこしもなくって――情けない話だけれど、仕事らしい仕事なんてろくに出来た試しがなかったんだ。なにもかもが新しいことだらけで、最初は戸惑うばっかりで――でも、確実におぼえていけるものがあって、それを喜んでくれる人もたくさんいてくれて―うれしくって」
無邪気に笑ってみせる瞳の奥で、かすかに揺らぐ色が幾重にも滲む。ひどく冷たいのに、それでいてどこかあたたかい。そのあやうさとおだやかさは、彼だけの持つ豊かな色彩となってその身にいくつもの色鮮やかな影を落としていく。
「……よかったね」
ふさわしいのかなんてすこしもわからないけれど、素直に告げたいと想える言葉なんて、そのひとつくらいしか思い当たらなかった。
「ほんとうに、」
満足げに笑ってみせる姿に、心は淡く滲むばかりだ。
「焦らないでいいよ、もし合わなくたってほかを選んだっていいんだよってそう言ってもらえたんだけれど――にわかには信じられなかったよね。もし自分にはなにも出来なかったらどうしよう、だからって元の生活に戻れるだなんてことは絶対になくて―そう望んだことなんて一度もないけれどね。最初は不安で仕方なかったんだ。自由だってことが、こんなにも引き替えに不安だなんてこと、ずっと知らなかったから」
「……そうだね」
ぽつりとささやくように答えれば、傍らからはすぐさま、こちらを気遣うようなおだやかなまなざしがそうっとむけられる。
「ごめん、そんなつもりはなくって」
「いいんだよ、気にしないで」
精一杯のぎこちない笑顔で答えながら、ゆるやかにかぶりを振ってみせる。わずかに心を軋ませるそんな態度にすら心地よいおだやかさを感じてしまうのは、ひどく残酷なことなのだろうか。
「思うんだけれど」
浅く息を吸い込むようにしてから、ゆっくりと僕は答える。
「人ってみんな、結局のところは自分のためにしか生きられないものでしょう? 子どものころなら、多くの人は守られる側でいられるかもしれないけれど、いずれ大人になるころにはそうも言ってはいられなくなる―誰もが社会の中での自分の役割や立ち位置みたいなものを意識せずには生きていられなくなる。仕事って、そういう時に自分を支えてくれるものになるのかなって」
――かならずしも『そう』とは言えない人がいることくらいは、百も承知の上で。
「……ほんとうだね」
感慨深げに笑ってみせるまなざしのその奥に、いつかの幼い子どもの影を僕は見つける。
「不思議だね、君は」
じっと首を傾げ、素直さだけを溶かし込んだ優しいまなざしでこちらをのぞき込むようにしながら彼は答える。
「いままでまるで考えてもみなかったようなことが、こんな風に何気なく話しているだけでいくらだって浮かんでくる」
「不愉快だったりした? もしかして」
「そうじゃなくて」
遠慮がちに尋ねてみれば、すぐさま打ち消すようにそうっと首を振っての答えが返ってくる。
「赦されているみたいな気がする。ひとつひとつ、いろんなことを」
「……ありがとう」
「どうしてそんな風にいうの?」
ゆるやかな笑顔にくるまれた言葉は、それでもなぜか、するりと静かに心の奥へと届くと、やわらかく透明な棘のような鈍い痛みを落とす。
「言わせて、」
言葉をふさぐようにささやきながら、そうっと視線をそらす。そよぐ風にかすかに揺れる葉が、いつのまにか色を変えはじめている―そんなあたりまえのことに、いまさらのように僕は気づく。
おだやかな沈黙の間を縫うように、すこしだけ冷たくなった秋風がしずかに吹き抜けていく。
「なんだか不思議な感じだよね、いつもは外で会ってるのに」
「まぁ、」
招かれざる客であるかのような居心地の悪さを感じたまま、高い天井をぼうっと眺める。
ふわふわと靴が沈むような深紅の天鵞絨のカーペット、なめらかなカーブを描くアーチ型の天井、細やかな彫刻の施された支柱、祭壇にはしなやかなヴェールを纏い、慈愛に満ちた笑みを手向けるマリア像。色とりどりの繊細な細工の施されたステングラスからは、鮮やかに染め上げられた光が静かにこぼれ落ちる。
「ねえ、どうかした?」
ぎこちなく視線を泳がせるこちらをそうっと捉えるように、あまやかに澄んだまなざしが注がれる。
光をいくつもやわらかに溶かしこんだような琥珀の瞳の奥にはいつでも、あたたかな温もりとともに、心を縫いつけるかのような静けさが揺らいでいる。
「……いや、」
曖昧な視線を揺らがせるようにしながら、かすかな声で僕は答える。
「よく似合っているなと思って、君が」
襟の高い白いシャツに、やわらかな薄手のグレーのニット、首もとを覆い隠すように巻かれたグリーンのスカーフ、華奢な身体を包み込むような黒いウールのジャケット、カーキ色の細身のパンツ。いつもどおりの飾り気のないごくシンプルな装いはここでの彼の立場をあからさまにしながらも、やわらかなその佇まいは、まるではじめからそこに誂えられた彫像かなにかのようにしっくりとこの場に溶け込んで見える。
「……そんなこと。ありがとう、でも」
「どういたしまして」
ほほえみながら答えれば、心の奥で揺らいでいたものは、音も立てずに静かに跳ね上がる。
「ねえ、それよりも」
気をよくしたようにふわりとほほえみかけながら彼は尋ねる。
「なにか話があって来てくれたんじゃないの、きょうは。よかったら聞かせてくれる?」
思い上がりだったら悪いんだけれど。子どものような無邪気な笑みとともに投げかけられる言葉に、胸の奥はやわらかに軋まされる。
「あぁ、それなんだけれど―」
片隅によぎる迷いを消せないまま―それでも、きっぱりと決意を込めるように、僕は答える。
「クリスマスにまつわることを書いてくれないかって依頼が届いていて―それで思ったんだ、君にはなにか思い出ってあるのかなって。もしよければ聞かせてほしいなって」
「……そうなんだ」
ほんのわずかにだけ視線を揺らしたそののち、たおやかに笑いかけるようにしながら彼は答える。
「ありがとう、思い出してくれて。すごくうれしい」
「あぁ、」
曖昧な笑みで応えるこちらを前に、包みこむようなやわらかな笑顔がそうっと覆いかぶせられる。
すこしだけ考えこむようなそぶりを見せたのち、じいっとこちらのようすをのぞき込むようにしながら、あたたかな言葉はこぼれ落ちる。
「子どものころ――たしか、四つか五つの時だったと思う。父親につれて行かれたショッピングモールでサンタクロースのおじいさんに出会ったんだ。絵本の中から飛び出してきたような赤い服に白い髭をたくわえたおじいさんは、たくさんの子どもたちに囲まれながらかごに入ったおかしを配っていた。僕はすぐさま目を輝かせて、父の腕をひっぱるようにして駆け寄った。そのうちに僕の番が回ってくると、サンタのおじいさんはちゃんと目の高さを合わせるようにしゃがみこんで頭をなでてくれながら言うんだ。『会いに来てくれてありがとう、またクリスマスの夜に遊びに行くからいい子にして待っていてね』って。すっごくうれしくって、わくわくして―びっくりするくらい興奮してたと思う。無理もないよね、絵本でみたのとそっくりおなじサンタさんが目の前にいたんだから。家に帰るまでのあいだもずうっと興奮がおさまらなかった。『すごいね、ほんもののサンタさんだよ。お父さんは会ったことはあるの? クリスマスの夜にまた来てくれるんだって。僕が寝ていてもお父さんはちゃんとサンタさんにお礼をいってあげてね』って夢中で話してたんだ。そのあいだ、父はずうっと浮かない顔をしていて―それが何でなのかなんてことを知るのは、もっとずうっと後になるんだけれど」
すこしだけ息苦しげに言葉を詰まらせるようにしながら、ささやくようなおだやかさで言葉は続く。
「そのうちに、待ちに待ったクリスマスの夜がやってきた。いつも遅く帰ってくる父は珍しくまっすぐに家に帰ってきて、呑みに出かけることもなかった。それでも夕食のメニューはいつも通りだし、ケーキも出てこない。絵本の中みたいにきれいな飾りのついたツリーやリースも飾られていないし、教会のミサにつれて行ってほしいだなんてことも言えなかった。僕の家の中だけはいつもどおりで、まるで置いてけぼりだった。これじゃあサンタさんもきっと気づいてくれない―寂しかったし、不満だった。でも、文句なんて言えるはずもなかった。せめて夜通し起きて窓辺でサンタさんが通り過ぎるのを待っていようか、そうしたら気づいてもらえるかもしれないから――そう思って子ども部屋の窓の外をずっと眺めていたけれど、ずっとそのままでいられるわけもなくって、気づけば朝が来ていた」
「……それで?」
促すような言葉を前に、うんとゆっくりのまばたきをこぼすようにしながら、やわらかな言葉は紡がれていく。
「朝起きていちばんに、枕元をみた僕はびっくりして跳ね起きた。そこにはちゃんときれいな包み紙でくるまれたプレゼントといっしょに手書きのカードが置かれていたんだ。『メリークリスマス、君にたくさんの幸運が降り注ぎますように。サンタクロースより』僕は一目散にプレゼントの箱と手紙をもって父のところに駆け込んだ。見て、うちにもサンタさんが来てくれたんだよ。お父さんはサンタさんに会った? って。いつも厳しい顔をしていた父は、その時だけはひどく困ったようなようすで、それでもどこかうれしそうに笑いかけてくれた」
いとおしげに瞼を細めるようにして話すその瞳の奥には、幼い子どもの影がやわらかに浮かぶ。
「きっとすごく無理をしてくれていたんだと思う、いまならわかるんだ。あれから何度もクリスマスを迎えて―きれいなツリーも豪華なごちそうやパーティーもとっておきのプレゼントも―あのころあこがれたものはみんな手に入った。それでも、いまでも思い出すのはあの時のクリスマスのことなんだ。おかしいよね」
「――そんなこと、」
「優しいね、君は」
どこか寂しげなようすでささやかれる言葉に、心をやわらかに縫い止められるような心地を味わう。
甘く透き通った鈍いこの痛みはまるで、美しい花の持つ棘に触れた時の感触に良く似ている。
「ねえ、」
そうっと首を傾げるようにしながら、彼は尋ねる。
「よかったら君の話も聞かせてくれる? なにかあればでいいけれど」
かすかに揺らいだまなざしとともに注がれる言葉は、赦しを乞う幼い子どものような無邪気さと、僅かな痛みを滲ませている。
ふかぶかと息を呑むようにしたその後、決意を込めるように静かに、僕は答える。
「ごめんね、すこしだけ待ってくれる? ゆっくり思い出したいんだ、君に聞いてもらうことだから」
「……うん」
音も立てずに静かに落とされる言葉はまるで、波紋のように静かに僕の胸の内に広がりながら、耳にしたことのない優しい音色を奏でてくれる。
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