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「ああ、ほんとうに来てくれたんだ」
にぎやかな声に誘われるまま、緊張を隠せない面もちで煉瓦の門をくぐったその瞬間、見知った顔がそうっと手を振りながら、おだやかな呼び声でそうっとこちらを呼び止める。
あたたかな日射しにまばたきをしながら、僕はゆっくりとその姿を確かめる。
やわらかなアイボリーのたっぷりとした生地のシャツに、首元には深い紺色のスカーフ。シンプルな黒のエプロンを羽織った姿は、バーの薄暗がりの中で目にしたそれともすこし似ている。
「土曜日に教会でバザーがあります、良かったら立ち寄ってもらえませんか?」
行くあてもない身にはうってつけの『誘い』を、断る口実などはあるはずもなかった。
「本格的なんですね、随分」
にぎにぎしいテントの立ち並ぶようすをぐるりと見渡しながら、ぽつりとつぶやく。シンボルのように植えられた大きな樹をぐるりと取り囲むようにテーブルと色とりどりのテントが立ち並び、多くの人が行き交うそのさまは、数日前に目にした光景とはまるで違った色合いを落とす。
「昼食はもうとられましたか? クラムチャウダーとスコーンがおすすめです」
「じゃあおすすめに従おうかな」
「ご案内しますね」
促されるままに、後をついて歩く。
「邪魔ではなかった?」
「ちょうど休憩の時間だったので」
目配せとともに答えながら、香ばしい香りを立てるテントの前でそうっと足を止める。
「やあディディ」
「ヘイデンさん、こんにちは」
赤みがかったダークブロンドの髪をかすかに揺らした店主の男のまなざしは、遠慮がちなようすで背後に佇むこちらをそうっと捉える。
「こちら、ウィンストンさん。新しい友だちなんだ」
「初めまして、アレン・ウィンストンです」
ぎこちない会釈とともに答えれば、やわらかな言葉がそうっと送られる。
「へえ、」
確かめるように静かに――それでも、決してこちらを威圧するような意志を感じさせない、静かなまなざしがそっと送られるのを肌で感じる。
「そりゃあ良かった、友だちは多いほうがいいに決まってる」
「慎重に選んだほうがいいのも確かですけれど」
自嘲気味に口を開くこちらを前に、うっすらとした笑い声がかぶさる。
ひとときのお祭り騒ぎの喧噪もすっかり過ぎ去ったころ、裏門をくぐり、ひっそりとした静けさに包まれた墓地の中に見慣れた姿を探す。途端にやわらかに鼓膜を震わせるように届くのは、小鳥のさえずりのような高く澄んだ声の響きだ。
かすかに湿ったやわらかな土を踏みしめながら、思わずそうっと息を潜めるようにしてようすを伺う。
立ち並ぶ墓石の間に佇むのは、おそらく歳のころは七・八歳程度の赤みがかかった焦げ茶の長い髪を揺らす少女と、彼女の視線の高さに合わせるようにかがみながら、じいっと見つめあって言葉を交わしあう彼の姿だ。
おやおや、これはこれは。
どうやらタイミングが悪かったらしい。引き返そうかとためらったところで、少女はくるりときびすを返すと、一目散に駆け出していく。
決して長いとは言えない距離を、それでもしきりに何度も振り返っては手を振ってみせる姿には隠しきれない色鮮やかな思いがありありと映し出されている。
ひとしきり手を振って応えてみせるその仕草がすっかりついえたころを見はかるようにして、僕はそうっと遠慮がちに声をかける。
「こんにちは」
「ああ、こんにちは」
手をあげて答えてくれるその表情には、うっすらとあまやかな影が滲む。
「神父様にお聞きしたんです、この時間ならここに居るって」
わざとらしく視線を逸らすように、墓石へと影を落とす色づいた木々をぼうっと見上げながら僕は答える。
「デートの最中だとは思っていなかったので、迷惑だったかなとは思ったけれど」
「あぁ、」
すこしだけばつが悪そうに笑いながら、彼は言う。
「ちょうどお母さんが迎えに来てくれたタイミングで」
「邪魔にならなくてよかった」
まさかテレパシーでこちらの存在を感知された、だなんてことは思いはしなかったけれど。
「リディアとは」
まぶしげに瞼を細めるようにしながら、おだやかな言葉が落とされていく。
「図書館で知り合ったんです。館内で絵本の朗読のイベントが行われていて、そこに参加させてもらった時、隣にいたのが彼女だった」
「へぇ、」
ちらりとこちらを一瞥したのち、遠慮がちなようすで彼は答える。
「はじめて聞くけれど、すごく悲しくて、それでいてとても優しいお話でした。聞いているうちに、自分でもびっくりするくらい涙が止まらなくなって―もう随分長い間、泣いたおぼえなんてすこしもなかったのに。その時だったんです、隣にいた彼女が大丈夫? って聞きながらハンカチを差し出してくれて。そういう彼女のほうだって目を真っ赤にして泣きはらしていたのに」
ごくり、と深く息をのみ、遠い記憶をゆるやかにほどいていくかのように、やわらかな言葉は続く。
「彼女のそばに大人の人がいないのが気がかりで。だから聞いたんです、きみは大丈夫なの? いっしょに来た人はいるの? って。そしたら向こうにいるって、ステージの側を指さして教えてくれて。すごくほっとしたのをいまでもおぼえてる」
「親御さんもびっくりしたでしょうね、いつの間にかこんなにもすてきなボーイフレンドと知り合っていて」
「そう思ってもらえたならいいんだけれど」
自嘲気味な笑い顔の奥に、誇らしげな色がやわらかに滲む。
「ねえ、ところで話が変わるんですけれど」
「なんでしょう?」
首を傾げてみせるこちらを前に、僅かに遠慮がちな――それでいて、確かな意志を込めた言葉が落とされる。
「あまり、かしこまった話し方をするのが得意ではなくって―いままで、失礼な話し方をしていたようだったらごめんなさい。あなたとはもうすこしリラックスして話がしたいなと思ったんです。よければそうしてもいいですか? 迷惑だったらやめます、もちろん」
言葉尻はかすかに震えていて――それでもそこには、きっぱりとした願いとも呼べるような無防備な感情があふれている。
ふかぶかと息を呑み、僕は答える。
「気にしないで、そんなの」
「……よかった」
子どものように無邪気に笑ってみせる姿を前に、たちまちに心の奥がほどかれていくのにただ身を任せる。
「子どものころに読んだおぼえのある童話があって――あらすじは分かるんだけれど、どうにもタイトルが思い出せなくって」
『次回作は児童文学のご予定ですか?』
知っている? と尋ねるよりも先に、捕らえるような言葉がかぶせられる。
「……わからないね」
『それで、どんな話なんですか』
気弱な言葉を塗りつぶすような、きっぱりとした口ぶりでの問いかけを前に、伝え聞いた言葉とおぼろげな記憶をたぐり寄せるようにしながら、力なく僕は答える。
「ある町の高台の上に、宝石で彩られたまばゆい黄金の色に輝く王子の像が立てられていた。ある日、遠い南の国へと旅に出る途中だった燕は休息を取るために、高台に立てられた王子像の足下へと降り立つ。すると燕は、町を見下ろす王子が生前、城の中で何不自由ない暮らしをしていたために知ることのなかった市井の貧しい人たちの暮らしぶりを嘆き悲しみ、涙を流していることを知る。王子の頼みを断ることは出来ず、燕は王子の像を彩る豪華な宝石を外しては貧しい人々へと届ける使いを果たす。ついに両目を失った王子を前に、燕は彼の瞳となり、ともに生きることを約束する。やがてその身から煌びやかな宝石をすべて失った王子は、ついには身体を覆う金箔を剥がして貧しい人々に届けるようにと燕に命じ、みすぼらしい鉛の像になってしまう」
『冬が訪れ、寒さに弱い燕は凍え死んでしまう――最愛の友人を喪った王子は悲しみに明け暮れ、鉛の心臓はまっぷたつに砕けてしまう。翌朝早く、輝きを失ったみすぼらしい銅像と、その足下で命を落とした燕の死骸を見つけた市長たちは、なんて汚らしいと彼らを蔑む。すぐさま王子の像は溶かされてしまうが、砕けてしまった鉛の心臓だけは溶鉱炉で溶かすことは出来なかった。ごみ捨て場に無惨に捨てられた鉛の心臓の横には、凍え死んでしまった燕の死骸が横たわっている。天上から町で起こった一部始終を見下ろしていた神様はある日、天使たちに命令を出す「この町で一番貴いものをふたつ、持ってくるように」ある天使がごみ捨て場に捨てられたふたりの亡骸を神様へ差し出すと、神様はいたく感激し、王子と燕の魂を天上の国へと運ぶ。なにひとつ不自由のない幸福な地に降り立ったふたりは、永遠の幸福を手に入れる。めでたし、めでたし』
朗々とした語り口の終わりに、そっとタイトルが告げられる。
『オスカー・ワイルドの幸福な王子ですね。あちこちの出版社から絵本が出ています。子どもに読み聞かせるのはあまり感心出来ないけれど』
皮肉めいた言葉の裏に潜むいくつもの色に、冷たいその口ぶりとは裏腹のひそやかな温もりを覚える。
『僕は嫌いですね』
言葉を詰まらせるこちらを前に、花びらの舞うような軽やかさで、きっぱりとした言葉が続く。
『それでもわかりますよ、涙を流す人の気持ちなら、すこしくらいは』
悲しみや痛みを知ること、涙を流すこと、たとえ身勝手な振る舞いにすぎないのだとしても、それらを救う方法に身を費やすこと――その果てに、はじめて心から愛した相手とともに寄り添いあいながら安寧へと旅立つこと―それが彼の手にした『幸福』だったことを非難出来る人間は、果たしてどのくらいいるのだろうか。
『先生がもしこの物語の結末を変えることが出来るとすれば、どんな締めくくりを用意しますか?』
「あぁ、」
力のこもらない吐息でそうっと答えて見せれば、強気な口ぶりでの言葉がかぶせられる。
『いいんですよ、文句がないのならそれで。ただあなたならどんな物語を書いてくれるのかが知りたかった。ただの一読者として』
「考えてみるよ」
『焦らずに待っています』
促されるような言葉に、ちくりとわずかに胸の奥が鈍く痛む。
『それにしたって、なんでまたそんな突然にそんな話になったんです?』
遠慮がちに、それでありながら、確実にこちらを捕らえるような意志を込めた言葉を前に、ごくりとわずかに息をのむようにしてから僕は答える。
「友だちに聞いて、それで」
『へえ、』
興味深げなようすで、スピーカー越しからはぽつりと吐息まじりの言葉が落とされる。
『観葉植物が喋れるようになるとは、思いもよらない展開ですね』
「助かってるよ、おかげさまで話し相手に困らないで済んでいるから」
答えながら、物言わぬ同居人をぼうっと眺める。
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