黒い犬

高梨來

黒い犬

1


 誰しもの人生に幾度もの、忘れられない瞬間が訪れる時がある。

 ひどく些細でありふれていて、そうとは簡単には気づくことの出来ないもの。

 通り過ぎたほんのささやかな一瞬を懐かしむその時、手の中に光るちいさな星のかけらに気づくような。

 せわしなく過ぎゆく時の流れの中で、人はいくつ、その奇跡に気づくことが出来るのだろうか。



 僅かな湿り気をふくんだ秋風が、頬の上をかすかになぞる。そよぐ葉はすこしずつ色を帯びはじめ、光を遊ばせている。

 小高い丘の上、まるで町のシンボルかなにかのようにそびえ立つ焦げ茶色の煉瓦作りの教会を前に、僕は思わずぼうっとため息を洩らす。

 神への敬虔な信仰を持っているわけでもなければ、なにかしら懺悔したいようなことがあるわけでもなかった。視界が捉えた、この美しい建物を間近で目にしてみたい――突き動かされるようにいつしか脚は動き、目的地とは違うはずのこの場所へと赴いていた。

 本来ならばきちんと挨拶をすべきなのだろうか、この場所を守る誰かに。ひとさじばかりのうしろめたさと、子どものような好奇心。ないまぜの感情に揺らされながら、名前も知らない誰かの墓石をぼうっと眺める。数十年前に時を止めたその人の墓前にはいまだまあたらしい花が供えられ、手入れが行き届いていることがありありと伝わる。

 人がほんとうに死ぬ時は、その存在が誰もに忘れ去られた時だ――その言葉通りなら、ここで永劫の眠りに就く人々はみな、終わらない命を得た末の安寧を手に入れたと言えるのだろうか。

 みようみまねでぶざまに手を合わせ、ずっしりと肩に食い込んだ旅行鞄を背負いなおしたその時、ふいに、視界の端を揺らぐ影に気づく。

 風にそよぎ、かすかに揺れるやわらかそうな黒い髪、濃紺のシャツにくるまれたしゃんと伸びた背筋、光を跳ね返す澄んだ琥珀の瞳の奥には、あまやかさとともに、かすかな翳りが滲む。

「こんにちは」

ひときわ立派な墓標の前、ちいさく首を傾げるようにして彼は尋ねる。襟の高い濃紺のシャツにサスペンダー、首もとには森のような深い緑色のスカーフがさりげなく巻き付けられている。

 歳のころはおそらくは、二十歳をすこし過ぎたところだろうか。

「……こんにちは、」

 ぎこちない会釈を浮かべながら、取り繕うように僕は尋ねる。

「そのお墓は、どなたかこの町の有名な方のものなんですか」

「あぁ、」

 かすかに花が開くかのような笑みを浮かべながら、返答の言葉は続く。

「身よりのない人たちのための合同墓なんです。なので、特定の誰かのものではなくって」

 瞼を細めた笑顔が、やわらかにこちらを包む。

「そうなんですね」

 思わず困り笑いを浮かべるこちらを前に、打ち消すように明るく笑いかけながら彼は答える。

「気にしないで、僕もはじめはおなじように思ったから」

 雨風にさらされ、すこしばかり色褪せた石碑に刻まれた鎮魂の言葉の上をゆっくりと指先でなぞるようにしながら、おだやかに言葉は続く。

「優しいなと思ったんです。見送ってくれる人がいなくてもこうして、眠りに就ける場所があって―家族みたいだなって。大事にしたいなって思うんです、だから」

 ひどく遠慮がちに、湖面に落ちる滴のように静かに落とされていく言葉のふちには、たおやかな寂寥の色がかすかに滲む。

「あなたは――、」

 目配せとともに投げかけられる言葉をそっと覆うように、静かな呼び声がそこにかぶさる。

「お茶が入ったよ、そろそろ休憩にしないかい?」

 言葉の先には、すらりとした体躯を黒いカソックに包んだ神父らしき男の姿が望まれる。

「ハーヴェイさん」

 親しみを込めて名前を呼ぶその姿には、隠しきることなど出来るはずもない親愛の情がこぼれ落ちる。

「ああ、お客様がいらしていたんだね」

 じっと息を潜めるようにして交互にようすを窺うこちらを前に、かすかに白い色の混じったアッシュブロンドの髪をそうっと揺らす行儀の良いお辞儀の後、男は尋ねる。

「旅の方ですね。はるばる遠いところへようこそ。いまちょうどお茶の時間にしようと思っていたんです。お急ぎでなければご一緒にいかがでしょうか?」

「これからまだ、向かうところがありますので」

 不器用に言葉を濁すように答えれば、すぐさまなめらかな返答がかぶせられる。

「それはそれは、お引き留めしてしまい申し訳ございませんでした。またの機会がおありでしたらいつでも」

「ありがとうございます」

 ぺこりとぎこちない会釈で応えてみせるこちらと神父とのようすを、青年は興味深げに交互に眺めてみせる。

「お時間さえあればまたいつでもいらしてください、どうかすてきな旅を」

 ゆっくりと頭を下げて見せてくれたその時、まくり上げられたシャツの袖口から顔をのぞかせたほっそりとした腕に、ひきつれたような傷跡がかすかに残されていることに気づく。――まるで、なにかの証のように。

 




 しばらくの仮住まいとなるアパートへとたどり着いたのは、うっすらとした夕闇の静けさがあたり一帯へと落ち始めたころだった。

「ただいま」

 ほかに誰もいるはずのない、はじめて訪れる部屋の中へと、それでも精一杯の敬意と愛を込めて言葉を投げかけ、手探りで明かりをともす。すぐさま視界に飛び込んできた思いもよらない先客――お世辞にも広いとは言えない部屋の真ん中に堂々と鎮座する観葉植物の鉢植えの姿を前に、思わずぼんやりとため息を吐き出す。

 こんな気のきいた(つもりの)はからいをしてくれる相手だなんて、あいにくのところひとりしか浮かぶはずもない。

 力ないため息を飲み込むようにしながら、ポケットに押し込んだままの携帯電話を取り出し、コール音を響かせる。

「やあ、もしもし」

『もしもし先生、あたらしい住処にはもう着かれましたか』

 軽口めいた調子でささやかれるすっかり聞き慣れた言葉運びに、それでも安堵の思いはゆるやかにこぼれ落ちる。

「なにやら先回りして同居人が来ていたのには驚いたけれど」

『おひとりでは寂しい思いをされるだろうと思って』

「お気遣いどうもありがとう」

 わざとらしいため息まじりに答えながら、出会ったばかりの『同居人』―青々とした葉を茂らせる観葉植物の鉢植えをぼうっと眺める。

『昼休憩の帰りに偶然出会って――佇まいがすごくいいと思ったんです。あたらしい暮らしにもきっとぴったりだろうなって』

「物静かなところは好みだね」

『だろうと思った』

 乾いた笑い声がスピーカー越しにさわりと耳朶をくすぐる。

『それより、先日はすばらしい原稿をありがとうございました。掲載誌は近いうちにそちらへお送りしますので、どうぞお待ちください』

「ああ、ありがとう」

『期間は定めていらっしゃらないんでしたっけ?』

「まぁ、」

 口ごもりながら答えれば、すぐさまやわらかな言葉がかぶせられる。

『焦らないでください。ただ、あなたを待っている人がたくさんいること、それだけは忘れないでいただければ』

「プレッシャーになるんだけれど」

『僕は自らのなすべき仕事をこなしているだけですよ』

 愛想笑い混じりに告げられるすました言葉に、それでも心はゆるやかに絆されていく。

『またいつでもご連絡をください、話し相手に困った時で構わないので。ああ、それでも誰か気心の許せる相手を作る努力は怠らないでくださいね。心を開ける相手は身近に居たほうがいいに決まっているから』

「君は占い師かカウンセラーのほうがいまの仕事よりもよっぽど向いているんじゃないの」

 おおげさにため息をこぼして見せながら答えれば、すずやかな返答がそこに覆いかぶさる。

『編集者なんてそんなものですよ、はじめっから』

「誰のせいなんだろう」

 自嘲気味に答えながら、暮れてゆく空をぼうっと眺める。


 近くに見つけたレストランで簡単な夕食を済ませ、荷ほどきにも飽きたころ、荷物の一番上につめておいた白紙のノートをそっと開く。

 書き記すことから逃げるような心地で自らを誰も知ることのない遠い場所へと逃げ出してきたはずなのに―ひととおりの仕事道具一式を用意していた自分に、ほとほとあきれてしまう。

 不特定多数の『誰か』に向けてではなく、最初の読者だったはずの自分に向けてなら――そこからまた、なにかを取り戻せれば。

 淡い期待のようなものを捨てられないのはほんとうだ。それだけ、言葉に命をつなぎ止められてここまで生き延びてきたのは確かだから。

 それにしたっていつの間に、こんなにも臆病になっていたのだろうか。

 わざとらしい深呼吸を吐き出した後、使い慣れた万年筆のキャップを手に取り、備え付けの机に向かいながら、真新しいノートの記念すべき一ページ目を埋めていく作業に取りかかる。




×月×日

 

 曇りのち、おだやかな晴れ。すこしずつ風が冷たくなりはじめていて、季節の移り変わりを肌で感じる。

 新しい町へと無事にたどり着いた。

 元居た場所に比べれば多少は不便になるだろうけれど、それすらも楽しめればいいと思っている。

 ひとまずの町のようすと行きたい場所・行かなければ行けない場所は把握出来たと思う。あとはこれからの暮らしに根をはっていくことで自然に身につけられればそれでいい。


 新しい部屋にたどり着いたところで、思いもよらない先住人に迎えられる。どうやら好意のつもりだったらしい。

 つきあい方については、これからきちんと勉強していきたい。

 


 どことなくよそ行きの言葉を綴り、ペンのキャップをはめたところで、ふいうちのように、心の片隅をよぎる影に気づく。

 ――書き記しておくべきだろうか、やはり。誰かにみせるつもりのものではないのだから、そりゃあそうだ。


 静かに息を呑むようにしたのち、再びペンを手に取り、ノートの上を滑らせる。



 丘の上にある煉瓦づくりの教会に立ち寄った際、墓守の青年に出会う。

 煮詰めた蜂蜜にもよく似た深い琥珀の瞳とおだやかな語り口がとても印象に残った。

 また出会えればいいと思う。





 初めに気づいたのは、あまやかに耳朶をくすぐるかのような優しいその声だった。

「こんばんは、ご注文はどうされますか?」

「あぁ、」

 ぱちり、とまばたきをしながらメニューへと落としていた視線をあげると、すこしだけ驚いたようすの、深く澄んだ琥珀の瞳に捕らえられる。

「……びっくりした、教会の方だと思っていたので」

「居候なんです。昼間はお手伝いをさせてもらっていて、夜はここで」

 昼間に目にしたのと同じ、濃紺のシャツの上には黒いエプロン。まくりあげられたシャツの袖口から覗くほっそりとした腕には、うっすらとひきつれたような傷跡が見える。

「お知り合い?」

「昼間に教会で」

 促されるようにぺこりとぎこちなく頭を下げれば、常連らしき面子からは親しみを込めたうっすらとした笑みが投げかけられる。

 夜の散歩がてらに、とアパートの周りをぐるりと歩いて最初に見つけた、煉瓦作りのこじんまりとしたバー。ほんの数時間のちのあっけない『再会』の舞台には、うってつけにも思える場所がそこだった。

「見かけない顔だね、旅の人?」

 常連らしき無精ひげを蓄えた紳士の問いかけを前に、にこりとかすかな笑顔を浮かべながら僕は答える。

「知人の紹介で来たんです、しばらくお世話になる予定で」

「そりゃあいい。いかんせん面白みもなにもない町だ。都会の人には退屈だろうけれど、なにも考えずにのんびりするのにはちょうどいいよ」

「ご迷惑をおかけしないように気をつけます」

「寂しい言い方だね」

 ぽつりと静かに落とされた言葉に呼応するかのように、心は静かに波打つ。かすかにこわばったこちらのようすを気遣うように、にっこりとたおやかに笑いかけるようにしながら彼は答える。

「せいぜい努力しないとってことだよ。信頼関係がない相手に迷惑はかけられないでしょ?」

 たしなめるような言葉をかけながら、やわらかなまなざしは、包み込むようにそうっとこちらを捉えてくれる。

「ところでご注文はどうしましょうか。せっかくなら一杯目は奢らせてくれませんか? 新生活のお祝いに」

「そんな、」

 遠慮がちに視線を揺らすこちらを前に、やわらかに言葉はかぶさる。

「お茶をご一緒させてもらえなかったでしょう。その分だと思ってください」

「……まぁ」

 観念したように淡いため息を洩らし、手元のメニューへと視線を落とす。

「なにか体が温まるようなものはありますか?」

「でしたら、アイリッシュコーヒーがおすすめです」

「じゃあそれを」

「ええ、」

言葉に添うように、伏せられた睫毛が音も立てずにそうっと震える。

「ディディ、ちょっとこっちに―」

「ええ、ちょっと待って」

 ぺこりとぎこちないお辞儀を返してくれた後、彼は答える。

「ごめんなさい、またすこし後で」




「すみません、つき合わせてしまって」

「気にしないでください。あなたと話をしてみたいと思っていたのはこちらのほうなんだから」

 遠慮がちに答えれば、包み込むようなやわらかな笑顔がそうっと覆いかぶさる。

「ここにはしばらく滞在されるんですよね。お仕事の都合かなにかで?」

 揺らぐ琥珀の瞳をじいっと見つめ返しながら、ぽつりと遠慮がちに僕は答える。

「いえ、完全な休暇で――はじめはそんなつもりはなかったんですけれど、知人に薦められたんです。思い切って環境を変えてみたほうがいいんじゃないかって。元の生活のままじゃあ、思考も引きずられてしまうからって」

「わかります」

 感慨深げに落とされる言葉に、なぜかちくりと疼くように胸の奥が鈍く痛む。ゆっくりと言葉を探すこちらに気づいたのか、ぱちりと遠慮がちな目配せを送りながら、ささやき声はそうっと落とされる。

「差し支えがなければ、どんなお仕事をされていたのかをお聞きしてもかまいませんか?」

「――あぁ、」

 すこしだけ思案したその後、覚悟を決めるように息をのみ、僕は答える。

「物語を書くことを仕事にしていて―すこしも有名ではないけれど、いくらかは本を出してもらっていて。時折、短い近況報告のようなものを雑誌に載せてもらったりもしています」

「へえ」

 途端にこちらを見つめるまなざしに、まばゆい光がやわらかく点る。

「画家の方には会ったことがあるけれど、作家の先生にお会いするのははじめてです」

「そんな、先生だなんて」

 持て余したように、メニュー表のすこし折れ曲がった端を指先でなぞりながら、僕は答える。

「そんな大それたものじゃないんです。ヒットした作品なんてすこしもないし、かろうじて食いつないでいられただけのようなものです。それもいまは危うくって――書きたいものも、これから書けそうなものも見えなくなってしまって。すこし前からそんな気はしていたんです。それでも、だましだまし続けられるだろうなんて軽く見ていて――それがほんとうにだめになったことにようやく覚悟ができて。それで」

 心の奥がほどけていくように、幾重にも絡まったわだかまりの感情が解き放たれていく。なぜだろう、こんなこと、誰かに話して聞かせるつもりなんてすこしもなかったはずなのに。

「ごめんなさい、困ったでしょう?」

「いえ、全然」

 打ち消すようなやわらかな笑みに、吸い込まれるような心地よさを覚える。

「どんなお話を書いているんですか?」

 子どものような素直なまなざしでかけられる言葉を前に、照れくささを隠せないまま、ぎこちなく僕は答える。

「これといって特徴があるわけではなくって―現代のこの世界とよく似た場所で、生きていくのにすこしだけやっかいな問題を抱えた人たちが自分なりにそれらに対する答えを見つけていけるまでのような、そんな」

「僕たちの人生にもよく似ているような?」

「そう思ってもらえたらとは常々」

 照れ笑いで答えれば、おだやかな笑みに包み込まれる。

「もう叶っているんじゃないですか、あなたが気づけていないだけで」

「不思議だね、ほんとうにそんな気がしてくる」

 遠慮がちに答えれば、ゆるやかなほほえみにくるまれた優しい言葉が落とされる。

「自分のことほど、自分ではわからないものだから」

 ささやき声は、まるで祈りのようなやわらかな響きをたたえている。

「ねえ、ところでお聞きしたいことがあって」

 コルク製のコースターの丸いふちをゆっくりと指先で滑らせるようにしながら僕は尋ねる。

「あなたは昔からこの町に住んでいらっしゃるんですか?」

「いえ、二年ほど前からで――それまではまったく違う暮らしを、ここよりもずうっと遠くで」

 追憶の色を滲ませたかのように、わずかに声を震わせながら彼は答える。

「――遠くにいかなければいけなくて。いままで出会った誰とも出会えないような、ずっと遠くに。まさかこんなに長いあいだいられる場所になるだなんて、思ってもいなかったけれど」

「へえ、」

 感嘆のため息を思わず洩らせば、隣り合って座る彼からは、うっすらとした自嘲気味な笑みがこぼれる。

「ごめんなさい、おかしな話をしてしまって。はじめてあなたを目にした時―思い出したんです、ここに来たばかりの自分のことを。どんな理由なのか、どのくらいここに居るつもりなのかもわからないけれど。安心していられるのに越したことはないでしょう?」

「……優しいんですね、あなたは」

「そうなれたらいいなとは、常々」

 答えながら、すこし骨ばった指先は包み込むようななめらかさで腕をさする。

 橙のあたたかな色の灯りの下で、いくら目を逸らそうとしても、視線はいつしか幾筋ものひきつれたような傷跡と鈍い色の痣を自然と追いかけてしまっていることに気づく。

「あぁ、」

 おもむろに、たわんだシャツの袖口を伸ばしながら彼は答える。

「ごめんなさい、うっかりしていて。気になりましたよね」

「いえ、こちらこそ」

 詮索するつもりなんてもとよりないけれど、それにしたって。気まずさにかっと胸の奥を火照らせるこちらを前に、やわらかに微笑みながら彼は答える。

「子どものころ、よくけがをしていて」

 覆い隠されてしまった傷の上を包み込むようにそっとシャツの布地越しにさすりながら、おだやかな言葉は続く。

「いくらいまは平気だからって、縁起が良いものではないでしょう。だから出来るだけ見せないようにって最初は気遣っていたんですが、ついうっかりして、シャツの袖を濡らしてしまったことがあって」

 ごくり、とちいさく息を飲み、ささやくように彼は答える。

「慌ててタオルで隠したんですが、すぐに気づかれてしまって――どうしたの、見せてって。だからすぐにタオルをとりました。もう終わりだと思ったけれどそしたらすぐさま、すごく申し訳なさそうな顔をしてみせてくれて、でもそれはほんのひとときにすぎなくて。すぐに、いつもみたいに笑ってくれて。その時に言われたんです。気を使わせてごめんね、隠さなくたっていいんだよって。すごくびっくりして……うれしくて」

「――わかります、」

 適切なのかどうかなんてすこしもわからないけれど――迷いながら、それでもはっきりと口をついて出た言葉がそれだった。

 とっさに発した不確かな言葉を前に、心はどこか不釣り合いなざわめきをもたらす。不器用に視線をそよがせるこちらを前に、やわらかに瞼を細めるようにしながら、優しい言葉が落とされる。

「……よかった」

 ひとりごとめいた頼りない響きでこぼされていく言葉に、心にはいくつもの無数のさざ波がわき起こる。

「やっぱり謝らせてください。不躾な目を向けてしまってほんとうにごめんなさい、許していただけて感謝しています」

 揺らぐ琥珀の瞳の奥で、あわい光がかすかに滲む。その奥に僕が見つけるのは、出会うことなど叶うはずもない「いつか」の彼の姿だ。

「ありがとうございます」

 あたたかな言葉が、音も立てずに静かに闇に紛れるように溶けていく。



  

 日付がとっくに変わり、たっぷりと夜の更けるころ、住処にもどった僕はまっさきに机の上に置いたままのノートを手に取ると、覚悟をするようにそうっと息をのみ、万年筆のキャップを外し、ノートの上へと滑らせる―



 眠りに就くにはまだ早いから、と立ち寄ったバーで昼間に出会った彼とまた出会う。

 ここが、彼にとって安らかに過ごせる場所なのだと言うことを知り、どこか自分のことのような安堵をおぼえる。

 青年の名前は、ディディといった。

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