「水底に立つ女性」

 これは大学のサークル仲間でキャンプに行ったときの話です。

 サークル全体でキャンプするというのは恒例行事であり、皆で和気あいあいと大自然を楽しんでいたのは良かったのですが、若い青少年達が集まれば根も葉もない与太話で盛りあがるのは避けられないものです。


「先輩から聞いた話なんだけどさ――」


 と、これから向かう目的地にまつわる話を一人が始めます。

 彼が言うにはその先輩はいわゆる「見える人」であり、キャンプ場にてそれを目撃したのだという。だからキャンプ場のどこそこには近づかない方がいいのだと。

 もう本当に、勘弁して欲しいと思ったものです。

 当時の私は頻繁に起こる「金縛り」という現象に頭を悩ませていた頃だったので、その手の話にはナイーブになっておりました。怖い怖いと思っていたら大抵怖い思いをします。とはいえそうそう都合よく、聞いてしまった話を忘れることはできない。なので、できうる限りに意識しないように努めました。

 そのキャンプ場は山間にあって、大きな滝が存在していました。

 当然そこへ向かおうという話になるのですが、件の先輩がそれを目撃したスポットというのが途中にあります。私は「さっきの話が怖いから行かない」などとは言えるはずもなく、足どり重く向かいました。

 結論から言うと何もありませんでした。

 当然でしょう。真昼間の、それも大人数で団体行動しているときに見えないモノを見たのであれば、それはガチで「見える人」です。私のように最近「金縛り」が頻出して困っている程度のナンチャッテにどうこうできるものではありません。

 そのようにして無事に難所を越えた私は安堵します。やっぱり最近はなにかと敏感になっているだけで「結局のところオチはこんなもんだ」と、それまで内心アワアワとしていた己を恥ずかしくも思いました。

 

 気を取り直して渓流遊びをしようと、私は水辺によります。さしあたって大きな滝があり、滝壺たきつぼを越えた先には修験者のように滝行たきぎょうをしている一団がいます。そこに交ざろうと水面に足をつけたとき、私は凍りつきました。


 怖い。


 何が怖いか、それは滝壺が怖いのです。正確にはそのおくが。

 怖い怖い、とても怖い。

 私はその一念に支配されます。

 どうしてか。

 分かりません。

 ただただ、滝壺の奥底に恐怖を感じてたまらないのです。


 その滝壺は深いふちでありました。水面は滝のおちる勢いにより波うち、奥底を窺うことはできません。表面の透き通った水色に、水底の薄暗い藍色のグラデーションが揺れるのみ。

 恐怖で身じろぎできない私を横に、友人達は我先にと滝の方へと泳いでいきます。そして声をかけてくる。「K(私の本名です)ー、来んのー?」

 ここで退却することもできたのでしょう。

 しかし私は泳いで、友人達のもとへと向かいました。

 顔は水中につけずに上げたまま。

 向こうがこちらに気づいたとしても、こちらが向こうを認識しないのであれば大丈夫だと思ったのです。しかし、このときの私は少しばかり気が大きくなっていました。怖い怖いと不安にしているから変な見間違いを起こすのであり「結局のところオチはこんなもんだ」となるはずなのだと。


 私は「ちょっとだけ」と自らに言い聞かせて、顔を水中に潜らせました。

 ですが即座に引き上げて、そのまま全力で泳ぎきります。

 そして滝の背面、少し外れたところにある岩へとよじ登りました。


「どしたん?」

「なんでもない」


 大きく息をつく私をいぶかしんで友人が尋ねてきますが、かろうじてそう答えるしかできませんでした。しかし、心境は何でもないはずがありません。

 どうしてか。

 

 目が合ったからです。


 その後、私は友人たちのように滝を楽しむこともせず、滝壺を泳ぎきり水辺をあとにしました。今度は勿論、下を覗きこむマネはしませんでした。

 それからキャンプサイトにて何か異変が起きるということもなく。一泊二日のサークルキャンプはつつがなく終了いたしました。結局は私が怖い思いをした。ただそれだけで済んだことに安堵しました。


 ちなみにこの話は、私が水底に何かを見たという話ではありません。

 水底はただただ薄暗く、水中ゴーグルをつけていたので藍色の奥に河原が没したような光景がよく見えました。

 なにも見てはおりません。

 しかし見てはおりませんが、覚えているのです。

 上手く説明する自信がないのですが──妙に現実感のある夢を見たとき、その寝起きに夢を思い返すとありありと情景が思い浮かぶ、ということはないでしょうか。そのような感覚です。

 決して見たことのない情景、見たことはない人物なのに、どういうわけか記憶に残っている。そんな風に私は今でも、水底からめいっぱいに首を曲げて、こちらを仰ぎ見る女性の姿を思い起こせるのです。

 

 その顔は、怒りもせず笑いもせず、仄暗ほのぐらい無表情でありました。

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