ごめんね、みどりちゃん

白玉

ごめんね、みどりちゃん


 美味いパンが食べたくなったら地獄坂の上のパン屋に買いに行けばいいし、綺麗な夜景が見たくなったら空気の澄んだ夜に観測センターの屋上に登ればいい。楽器の練習がしたくなったらその隣の目白公園に行って誰もいなくなるまで待てば迷惑にならないし、会いたい人がいるのなら、すぐに会いに行けばいい。

 星が近くにある僕らの街は、手の届く範囲にすべてがあった。

 みどりちゃんに会いたいから、僕はみどりちゃんがバイトしているコンビニに行ったんだ。ただそれだけのこと。


 僕がみどりちゃんと最後に会ったあの夜は、静かに雨が降っていた。傘をさすかは少し悩む、でも顔が濡れたら不快に思える程度の霧雨。灰色の服を着てきてしまったがために色変わりが目立ち、みどりちゃんに笑われやしないかと気が気じゃなかったことを、いまになって思い出す。

 夏の夜の雨のむせるような蒸し暑さがやけに印象的なその夜、自転車で坂を下り、みどりちゃんのバイト先のコンビニの出入り口付近にいた僕は、みどりちゃんの泣き腫らした顔を見た。なにがあったのかと訊ねてもなにも言わず、泣きながら微かに震えていた。どうしたのさ、と肩に置いた僕の手を、怯えた様子で振り払った。悲しかった。みどりちゃんに拒絶されたことの悲しみが十だとしたら、困っているみどりちゃんに対してなにもしてあげられないとわかった自分の無力さに対する落胆は二十くらい。そっちのほうがつらかった。

 いつものみどりちゃんに会った最後はこんな感じだった。僕が背負うことになる後悔や無念は夏の夜の雨に記憶されたけれど、このときの僕には知る由もなかった。

 次の日、みどりちゃんは消えた。



 みどりちゃんが行方不明になったという話題が盛り上がりを見せていたのは、最初の一ヶ月くらいだった。それ以降は、心配しているのはごく一部の人間だけで、あとは我関せず、まるで腫れ物に触るみたいに、話題にすら上らなくなった。すべてはあの噂のせいだった。

 二週間ほど経ったころ、「母親からすごい話を聞いた」と何時になく真剣な表情で切り出したのは、クラス委員であり皆からの信頼も厚い藤井だった。なんの話か分からないにしても、彼の発言と彼から発せられるこの雰囲気は、みどりちゃんの件に結びつけてしまうのではないかと真剣な話をなんとなく避けていた僕らには、話し合うことを取り戻す良いきっかけに思えた。

 藤井は皆をまとめるのがうまかった。グループごとに分かれていた教室内の全員が、藤井の話に耳を傾けている。

「過去にも似たような事件があったこと、みんな知ってるか」

「似たような事件って。みどりちゃんがいなくなったことを事件だって言いたいの」

 僕が口を挟むと、間髪入れずに藤井が言った。

「そうだろ、だって行方不明なんだから」

 あらためてそう言われ、胸の奥が落ち着かない。

 みどりちゃんの捜索は有志によっていまもなお続けられており、大声で名前を呼びながら町内を練り歩いている。僕の家の周りはもちろん、藤井曰く、彼の家の周りにも毎日のように来るそうだ。いつもその声に呼応するように唸っていてすっかり呆けきっていると思っていた彼の祖父が、妙にはっきりとした口調で、昨日言い放ったそうだ。

「『この土地は呪われてる』って言ってたんだ。『繰り返すぞ、呪われてるんだ』って」

 怖がり両腕をさする女子たちに、祖父の口調を真似ているのかわざと恐怖心を煽るように言っている藤井の下心が垣間見えて気持ち悪かった。この土地、か。藤井の家は僕の家の少し下にあって、おなじ「街」の住民だった。

「だから俺、母親に訊いたんだ。爺さんが言ってたあれ、どういう意味? って」

 机に腰掛けたまま身を乗り出し落ちそうになりながら、身振り手振りで、藤井は話を続けた。最初は取り合わなかった彼の母だったが、祖父の様子になにか不穏さを感じてか、少しずつ話し出したそうだ。

「『前にもあったのよ、似たようなことが。そのときは遺体で見つかってね……』って言ったんだ」

 女子の間で小さな悲鳴が上がった。

「それを僕らの『街』で繰り返す、っていうのか?」

 そう、と首を深々と縦に振った。

「だからみどりも、もしかしたら――」

「やめろよ!」

 しまった、と思ったときには遅かった。僕は立ち上がっていて、机の上にあったはずのノートや教科書は床に散らばり、クラス中の視線は一番後ろの席の僕に集まっていた。見てはいけないものを見るような、怯えたような冷たい視線が一斉に突き刺さる。大声を出すつもりはなかったし、むきになるつもりもなかった。ただ、軽率な藤井の発言が許せなかった。僕は唇を噛んでおとなしく着席し、顔を伏せた姿勢でみんなの視線から隠れた。

 ほんの少し左側を向く勇気があれば、そこにある空白の席が目に入ったはずだ。そこに本来いるべきはずの人の姿がない。みどりちゃんの席。みどりちゃん、きみはいまどこにいるの? お腹を空かせていないかとか泣いていないかとか、そんなことばかり考えた。みどりちゃん、きみがいなくてさみしいよ。僕はきみに会いたくてたまらない。


 行方不明は行方が不明なだけであって、決して見つからないと決まったわけではない。ちょっとした家出だって行方が不明だし、ただ出かけているだけの場合だってある。ひょっこり帰ってくることだって大いに考えられるし、ましてや生きていないなんて、僕は絶対に信じない。

 悶々とした感情を腹の中に抱えつつ、煙草を吸うべく自室からベランダに出た。残り少なくなったマルボロの箱を振ると中身がこぼれ落ちた。みどりちゃんはこの煙草が嫌いだった。

 吐き出した煙が、澄んだ夜空に溶けた。

 フィルターがかかった空の向こうには、たくさんの光るものがある。ここは星が近い街だった。いつか向こうに行ってみたいね、なんて話していたころが懐かしい。胸が苦しいのは、吸い込んだ煙のせいか、それとも、きみに会えないさみしさのせいだろうか。


 かたんかたん、かたんかたん……


 耳を澄ますと、煙がきえた空の向こうに、線路を走る電車のような音が響いていた。このあたりに電車は走っていないのに。

 冬になると澄みきった空気に乗って、音がどこからか運ばれてくることがある。それに似た現象か。しかしいまがそこまで寒いとは思えない。

 疑問を抱きつつ、大きく煙を吸い、吐き出した。みどりちゃんが嫌っていた緑の煙草。大人になるまで吸うのはやめて、と懇願するみどりちゃんの声が聞こえた気がした。

「――あ」

 線路を走る電車の音、大人になるのを待たずに吸った煙草の煙――。唐突に脳裏をよぎったのは、高校に入ったばかりのころの自己紹介の光景だった。昔から大好きだという古い映画を紹介したときの、少し照れたような、はにかんだようなみどりちゃんの表情は、きっと一生忘れない。その映画のタイトルは、たしか――

「スタンド・バイ・ミー」

 口に出すと、あのときのみどりちゃんの言葉と重なった。タイトルこそ爽やかな青臭さを含んでいるものの、内容は少年たちが線路を歩いて死体を探す旅に出る、というもので、原作小説のもともとのタイトルは、「死体」を意味する「TheBody」だったそうだ。映画化された際、この美しく儚いタイトルになったらしい。みどりちゃんがみんなの前でその話をして、線路を歩くシーンの魅力を、顔を赤らめながら少し遠慮がちに語っていたっけ。だからもしかしたら、みどりちゃんは――。

 藁にもすがる思いだった。耳に残った曖昧な記憶だけを頼りに、音のしたほうへ向かうことにした。

スタンド・バイ・ミー。そばにいて、か。大丈夫、僕がいるよ。必ずきみを探し出す。だから待ってて、みどりちゃん。



 僕らが住むこの街は、十五年ほど前に開発された、いわゆる新興住宅地だった。小さいころから住んでいるので実感はないが、歴史上ではまだまだ新しい。古くからある住宅街の上側に位置しており、そちら側からここへ出るにはかなり急な坂を登らなければならない。反対側に設けられた、いかにも新しい街の入口ふうといった、門のような場所から入る場合にも、多少なだらかではあるがやはり坂道を登らなければならない。

 ここはもともと森だったそうだ。住宅街にその名残りは見受けられないが、開発工事中は、住処を奪われ行き場をなくした蛇や虫や害獣たちが、旧住宅街のほうに出るようになり大騒ぎだったそうだ。旧住宅街民たちの、まるで新住宅街民を責めるようなボヤキがいまでも聞こえてくるくらいだから、ここの住民ならだれでも知っていることだった。

 僕の家のある桜木区から三ブロックほど上、少し奥まったほうへ行くと、いまだに開発されていない場所に突き当たる。そこは言わば完全なる森で、その奥には水質管理のための施設や自然保護観測センターがあった。この自然は無くすべきでないと開発の段階で決定していたらしく、手付かずのままの自然を保っていた。僕はそこを目指していた。

 鬱蒼と茂る草木に囲まれていながらも自然保護上の理由から街灯がひとつもないので、陽が落ちると真っ暗闇に包まれる。手前まで来たところで、最初の一歩がなかなか踏み出せずにいた。金木犀の香りに足止めを食らう。音は、このあたりから聞こえた。そんな漠然とした感覚だけでここまで来た。いざ、勇気を出し立ち入ると、暗闇が大きく口を開けて僕を迎え入れたのがわかった。かつての名残りが色濃く渦巻き、ここに住んでいたものたちの意識は、おそらくそのままここに残っている。微かな風が揺らす草木のささやきが、徐々に大きくなっているような気がする。解せぬものの類が出ても、これならば違和感など無いだろう。

 ふと風がやんだ。一瞬の静寂が、耳に痛かった。高い空に響いていたはずの音は、気づけば残音すらない。気のせいだったか。しかしこのあたりから聞こえた、という根拠のない自信だけを頼りに、足を動かした。根拠があることなんてこの世界にはなにもないんだ。僕が感じている金木犀の香りが本物かどうかだって怪しいし、みどりちゃんが本当にいなくなったのかだって、疑い出したらきりがない。

 なにかに躓き転びそうになったのを、すんでのところで持ちこたえた。足元を見ると、薄い月明かりの中にぼんやりと浮かぶ輪郭は、細長い箱のようにも見える。視線を泳がせると、少し先までそれは伸びていて、所々背の低い草に覆い隠されていた。線路のようにも見え、例の音こそしないものの、このあたりで間違っていなかったという確信があった。こんなものがここにあったなんて――もしかしたらみどりちゃんはこの存在を知っていて、例の古い映画の有名なシーンを真似て、歩いて行ったのかもしれない。どうして? 理由なんてわからないし、この際そんなのはどうでもよかった。パズルのピースが嵌ったような閃きに気を良くした僕は、闇に誘われるがまま、吸い込まれるように進んだ。

 線路を辿ると、足元はどんどん悪くなった。ただでさえ細い道が、両側から生い茂るススキのような背の高い草に邪魔をされ、さらに狭まり、人ひとり通るのがやっとなくらいまでになった。群生する背の低い草たちは、まるでこれ以上先には行かせまいと足を掴もうとする細長い指のようで、絡みつくそれらを蹴り飛ばしながら歩いた。

 これほど草が生い茂り湿度もあるのに、虫の声が一切しないことが気になり始めるころには、この空間の異常さを感じていた。真夏の暑さと真冬の寒さを混ぜたような薄気味悪さは、闇と湿度のせいだけではないように思える。首の後ろに汗が滲む。

「み、みーどりちゃーん」

 静寂に堪え切れずなにげなく発した自分自身の声が反響し、驚いた。その驚きは恐怖によるものではなく、少し前から背中に感じていた不気味さによるものだった。うしろからなにかがずっとついて来ていて、それに突然背中を撫でられたかのような、瞬間的な驚き。不気味な違和感にうしろを振り返れないでいることが気持ち悪く、恐ろしかった。そのときだった。

「だんな」

 耳元に息を吹きかけられたような生暖かさを感じ、いまにも消えそうなしゃがれ声が聞こえた。空気が抜けたようで、それでいてはっきり聞き取れる、男の声。僕は上ずった声を発して文字通り飛び上がった。

「旦那、こんなところでなにしてンですかい」

 恐る恐る振り返ると、少し離れたところに、まるでそこにだけ弱い明かりが灯っているかのように、ぼうっと浮かび上がる妙な人間の姿があった。声は耳元で聴こえたはずなのに、僕とその男との間には二、三メートルほどの距離があった。

「こんなところに居るってこたぁ、わざわざ買いに来てくれたンですかい」

 あ、あ、あの、その、とまるで阿呆の子のように言葉らしい言葉をなにも発せずにいると、男はおもむろに両腕を広げて、息を吸い込み、声高らかに言った。

「ちょうどいい。良いのが残ってるよ。みんなの大好きな、まぁんまるの西瓜! さあ、買った買った! うちの西瓜は瑞々しいよ! 世界で一番おいしいよ!」

 いつのまにか男の足元には、丸くて大きなものがいくつか並んでいるようだった。暗くてよくわからなかったが、西瓜と言われれば西瓜に見えないこともない。

「旦那ぁ、汗がすごいですぜ。ひょっとして、喉が渇いているンじゃないですかい」

 ヒヒヒ、と裏返った声を発する男の顔は真っ白で、顔だけ浮かんでいるように見えた。目のあたりだけがなぜかどす黒く、その差がやけに恐ろしく目を逸らした。

 西瓜か。そんなに食べたいわけでもなかったが、言われてみれば喉が渇いていた。瑞々しい、瑞々しい、と呪文のように繰り返すその言葉に操られた僕は、気づけば手をのばしていた。

「ひとつください」

「へい、まいどありィ」

 たまたま持ち合わせていた千円札を、大きくて丸い、艶っぽい西瓜と交換した。

「お目が高いねェ、これはメスの西瓜だよう……」

 西瓜にオスもメスもあるものか。僕は鼻で笑い、それを受け取った。大きさの割にはあまりに軽く、危うく落としそうになる。


 大きな丸を抱え、家の近くを歩いていた。街灯に羽虫が群がり、ときおりバチっと爆ぜる音がした。頭がぼんやりとして、思考回路が機能していないのをなんとなく感じていた。大人が酒を飲んで酔っぱらったときはこんな感じなんだろうか。抱え持ったものが嵩張って、なぜこれを買ったのかといまさら疑問に思う。そして、本来の目的はいったいなんであったか――まあいい、はやく家に帰ろう。そのときの僕が働かない頭の隅で考えていたことといえば、みどりちゃんがあのとき泣いていた理由について、ただそれだけだった。

「ただいま」

 誰もいない家の、誰もいない空間に向かって叫ぶ。平日のこの時間は、母さんはパートに出ていて不在だった。台所に行き、よいしょ、と転がらないように注意しながらそっとテーブルに置いた。握りこぶしで叩いてみると、ポコポコポコ、とまるで空洞であるような音がした。あの男、粗悪品を売りつけやがって。空洞ならば、この軽さも合点がいく。

 粗悪品疑惑があるとはいえひとりでは到底食べきれない大きさなので、分けて冷蔵庫に仕舞うため、丸のままではあまりに大きいそれを割るべく包丁を突き刺した。我が家の家庭用の小さな包丁ではひと思いに割ることは不可能で、刺して割れ目を作ったところから左右に開き割ることにした。刺して抜いて、を繰り返すうち、空洞に達したのか、手ごたえをなにも感じなくなった。そこで、裂け目に指を入れ、左右に勢い良く開いた、そこに。

 そこに、きみがいたんだよ、みどりちゃん。


 体長は、目視で十五センチから十八センチメートル、といったところか。膝を抱えて座り込んでいたから、正確なところはわからなかったが、手のひらに乗りそうなくらい小さいことだけは確かだった。

 僕に気づいたみどりちゃんは、目を大きく見開いて、うれしいのか緊張しているのか、胸に手を当て深呼吸を繰り返していた。それからすっと立ち上がり、両腕を大きく広げてなにかを伝えたそうにしてはいるが、腹を空かせた魚のように口を開閉するばかりだった。真っ赤な西瓜の汁にまみれているにもかかわらずそれを意に介さない堂々とした佇まいで、僕を軽く睨みつける。その表情が懐かしくて、僕の胸は一気に熱くなった。

「みどりちゃん」

 睨むその顔が可愛くて、ついつい「可愛いね」と言うと、みどりちゃんは赤い汁まみれの顔をさらに赤らめて、目を潤ませたようだった。少なくとも僕にはそう見えた。

「こんなところでなにしてるの?」

 みどりちゃんはなにも言わなかった。僕が普通の大きさのみどりちゃんと最後に会った日のように、無言を貫いていた。小さなみどりちゃんが魚の真似をしているようで面白くて反射的にその口にそっと指を差し出してみたけれど、小さすぎるみどりちゃんには僕の指は大きすぎて、ただ口を塞いだだけだった。それがさらに面白くて、僕は笑った。

「やっと見つけたよ、みどりちゃん」


 僕はまずみどりちゃんをきれいにしてやることにした。真っ赤な汁にまみれているが、なぜか嫌そうではない。ただ、ところどころについた黒々とした種がどうも嫌なようで、それを見ては顔をしかめていた。

「お風呂にでも入る?」

 と訊くとみどりちゃんの表情は一番星みたいに明るくなって、僕はそれを了承なのだと受け取った。振り落とされた種は僕が拾い、それから、口に含んだ。驚くほど甘い。

「お風呂か。えっと、どうしよう」

 女子のお風呂。それもかなり小さい女の子。我が家に女は母さんしかおらず、知恵を借りようも不在である。どうしたらいいものか、と無い頭を必死に巡らせた。そこで思い出したのは、我が家には幸いなことに、亡き祖父の形見としてのドールハウスの類が豊富にそろっていたということだった。おそらくは死んでから数えるほどしか立ち入っていない祖父の部屋をノックし、返ってくる返事などないものをなぜか数秒待ったのち、ドアを開けた。静まり返った部屋の中央にべロアの布が鎮座しており、その下にどしんと置かれているものがそれだった。本当に人が住んでいそうなくらい精巧に作られた人形の家をまさぐることに幾らか緊張と罪悪感を抱きつつも、中から使えそうなものをいくつか選び、みどりちゃんのもとへ運んだ。

 人形用の小さなバスタブに、ぬるめのお湯を注いだ。みどりちゃんは小さいから、僕が触ってぬるすぎるくらいが丁度良いのではないかと水を足しお湯を足し、調節した。ほんの遊び心で、苺の紅茶のティーバッグを入れた。水温が低いので色は期待したほど出なかったが、香りはしっかりと広がり、みどりちゃんはうれしそうに口元をほころばせていた。

 小さなみどりちゃんの落ち着かない動きは見ていて飽きなかった。可愛いのでずっと眺めていたかった。頬杖をつき微笑ましく思いながら見ていると、みどりちゃんは再び僕を睨んだ。

「なんだよ、一緒に風呂にだって入った仲だろ。いまさら恥ずかしがることもないだろうに」

 しかしいくら小さいとはいえ、やはり女の子なことに変わりはない。はじめて見る身体でもないが、気を遣ってやるのが紳士ってもんだ。「着替えはここに置いておくから」とだけ伝え、みどりちゃんに背を向けた。

 ちゃぷちゃぷ、と魚が跳ねるような音に、想像が膨らむ。大好きなみどりちゃんが楽しんでいるであろう様子に頬が緩む。


 母さんは帰宅後、片づけ忘れていた季節外れの残骸、しかも割っただけの半円ふたつを見つけるや少し訝しんでいたが、「西瓜がどうしても食べたくて買って食べた。残しておかず悪かった」と物分かりの良い素直な息子ふうに言うと、拍子抜けしたのか、ああそうなの、の一言だけでそれ以上は聞いてこなかった。中身がほぼ無かったみどりちゃんのかつての住処は、そのまま速やかに処分された。



 こうして、西瓜姫との妙な共同生活が始まった。

 もちろん母さんには内緒だった。僕が学校に行くときはみどりちゃんも一緒。一応、祖父のコレクションの中からセーラー服セットを拝借し着させて、僕の胸ポケットに入ってもらった。留守番をさせるなどという選択肢は僕らにはなく、それは当然だった。はにかみながらみどりちゃんが言っていた古い映画のタイトルが、頭から離れなかったのだから。

 授業中は大きめのペンケースに入っていてもらった。ばれたら大変なことになるのは考えなくてもわかるので、出たがって腕を伸ばすみどりちゃんを、心を鬼にしてぎゅうぎゅう押し込み、決して外に出さなかった。昼休みには屋上の、みどりちゃんがよくいた隠れた場所でパンを分け合って食べた。僕がこの場所に来るのははじめてだった。ここは南校舎にある天文学部の部室から丸見えなので、そちら側に僕が座って壁になり、このときだけはみどりちゃんを自由にさせた。みどりちゃんはうれしそうに走り回っていた。たまに遠くへ行きすぎて鳥に狙われたりしていたが、そんなときは結局、ぜんぶ僕が助けた。


 ある日の午後、いつものようにここで憩っていると、黒澤たちがやってきた。僕が世界で一番嫌っているやつ。不真面目で、自分勝手で、女好き。この場所はもともとこいつらが溜まり場にしていたようなところがあるので、鉢合わせる危険は予測済みではあった。「あれぇ?」と耳障りな声が僕に向かって飛んでくる。

「灰谷じゃん。こんなとこでなにやってんの?」

邪魔なんだけど、と小声で毒づくのが聞こえた。

「べ、べつに」

 急いでみどりちゃんを胸ポケットにしまう。黒澤がニヤつきながら近づいてくる。

「そこをどくか、煙草を寄越すか、選べ」

「ど、どかないし、煙草は持ってない」

 僕は家でしか煙草は吸わない。持っていないのは嘘ではなかった。しかしワイシャツの胸ポケットにみどりちゃんを入れていたので、その膨らみが煙草を隠し持っているようにでも見えたのだろう。首を横に振っても頭の悪い黒澤に理解してもらえるはずもなく、胸ぐらをつかまれ、そのはずみで胸ポケットが開いた気がした。見られたか。僕は躊躇せず黒澤の腕をつかんだ。おそらく、相当強い力で。

 黒澤は僕から手を離し、我に返った僕も黒澤から手を離す。予想外だったのか、狼狽える黒澤を睨みつける。黒澤が小さな声で言った。「なんなんだよこいつ。前からあぶねえ奴だとは思ってたけど」

「なにが見えた」

「は?」

「なにが見えたかって聞いてるんだよ」

 黒澤は一瞬眉をあげて、それから得意のニヤけ顔を近づけてきた。

「なんでそんなケンカ腰なわけ? 俺お前とケンカする気ないんだけど」

「いいから答えろ」

 取り巻きの奴らが睨みながらじりじりと距離を詰めるのを、黒澤が「みどりがいないから気が立ってるんだろ」と制止した。

「なんかのアニメのフィギュア? なんでそんなものをそこに入れてんだよ」

 フィギュア。そうか。

「みどりの次はこれかよ。これだからオタクは」

 そう言って鼻で笑った。僕の声は震えていた。

「……余計なことを言いふらすなよ」

「言わねえよ。お前のことなんかだれも興味ねえよ」

 そうじゃなくて、という言葉が喉のあたりまで上がってきて、飲み込んだ。忘れたいに決まってるよな。いま話したら、みどりちゃんに丸聞こえだ。

 ガチのやつには関わりたくねえと吐き捨て、黒澤たちはそこからいなくなった。僕は運がよかった。

 黒澤なんか怖くない。僕の安堵は奴がなにも言ってこなかったことに対してだった。なによりもみどりちゃんが心配だった。

 胸ポケットを開いてみると、みどりちゃんは小さく丸まって、ほんの少し震えていた。かわいそうなみどりちゃん。指でそっと撫でると、驚いたのかみどりちゃんは一瞬小さく跳ねた。

「大丈夫、怖くないよ。僕がずっと守るから」

 それから外に出し、いつものようにちぎったパンを渡したり突いてみたりしたけれど、ぺたんと座り込んでしまったみどりちゃんは、ただベソをかくばかりだった。



 西瓜屋にもう一度会えたら、聞きたいことがたくさんある。わからないことだらけだった。しかし、頭の片隅でぼんやり思っているだけで行動に移すことはせず、漠然とした疑問を抱いたまま、数日が過ぎた。


 今のところ、誰にもばれず、怪しまれることすらない。僕には友達と言える友達がいないこともあり、昼休みの不審な行動は、誰の目にも留まっていないはずだ。

 今日は母さんが家にいた。そんな日のみどりちゃんの風呂は、部屋で勉強をしながら紅茶を飲む体で、キッチンで淹れて部屋に持って行き、そこで用意をした。大きめのカップに少しぬるめのお湯を注ぐ。わざわざ紅茶にするのは、母さんに怪しまれないようにするため。

「ねえ」

 雑誌を読んでいた母さんに呼び止められ、振り返る。

「なに」

「みどりちゃんのご両親と、今日久々に話したんだけどね」

 むせそうになる。咳ばらいをして、なんとか堪えた。

「憔悴しきってたわよ。まったく手掛かりがないんだって」

「そう、なんだ」

「あんたなにか知らないの? 幼馴染だっていうのに、なんでそんな普通にしてられるのよ」

「俺だって心配してるよ」

 そう、と母さんは手元の雑誌に視線を落とす。

「怖いね。あんたも気をつけてよね」

「なにに気をつけろって」

「前にもあったのよ。神隠しみたいに、急に人が消えちゃう事件が」

 どこかで聞いた話だった。藤井の、わからないけれどたぶん似ていないであろう爺さんの物真似を思い出す。「あれ、本当だったんだ」

「あれってなによ」

 そこで僕は、母さんに藤井の話を聞かせた。

 繰り返す、か。と母さんは鼻から大きく息を吐いた。

「そう考えると怖いね。似たような事件だと、繰り返してるみたいに思えないこともないけど」

 冷めたお茶を啜り、母さんは続けた。

「前にも、おなじように若い女の子が突然いなくなっちゃう事件があったのよ。そのときはホラ、震災があったから、そっちばっかりであんまり話題にはならなかったけど。でもあんたも覚えてるでしょ、欅地区のあたりでいなくなって、母さんたち大人みんなでそのへんを捜索したのよ。結局見つからなかったみたいだけど」

 なんとなく覚えているような、覚えていないような。ぼんやりとした記憶を探っても、はっきりとは思い出せない。

「平和な街だと思って越して来たのにねぇ」怖いわねぇ、と言いつつ再度茶を啜り、「思い出したらまだあったわ」と言った。

「かなり昔の話だけど、上のほうにあるおっきな農家のお宅の娘さんが行方不明になったのよ。お金持ちだったから誘拐じゃないかって言われてたっけ。その子だって、たしかまだ見つかってないのよ。『子』じゃないわ、もういい歳よね、何十年も前に十七歳とかそのくらいだったんだから」

「上? 森のこと? 農家なんかあったっけ」

「昔はあったのよ。今は引っ越されたかなんかで、もう誰も住んでないみたい。その後の事件が凄まじかったからね。え、あんた知らないの?」

「おしえて」僕は喰いついた。

 うーん、と険しい顔をしつつ母さんが教えてくれた事件の内容は、渋っていたのがわかるほどに惨憺たるものだった。突然娘がいなくなり悲しみに暮れた父親は、毎昼夜、娘を探した。事件を面白がった若者たちが、それをからかうように近寄る。まずは農作物をめちゃくちゃにして逃げる、という下級過ぎるいたずらで、傷ついた人間の出方をうかがい弄んだ。半ば狂った父親に追いかけられ、捕まり、一発喰らわされた若者は逆上し、そばにあった大きな石を手にして父親に反撃をした。頭を殴り、顔面を潰した。父親は死に、若者は生きた。元々の顔がわからなくなるほどに潰された父親の遺体の頭部はまるで、その農家が愛を込めて作っていた、真っ赤に熟した西瓜を叩き潰したようだったという――

「私だって実際に見たわけじゃないけどね。みんなそう言ってたのよ、西瓜農家が何の因果だ、って。気の毒よね……」


 すっかり冷めきった紅茶を一旦捨て、新しいものを淹れなおした。母さんに聞いた話が頭にこびりついて離れないまま、部屋に戻った。

「おまたせ」

 小さいみどりちゃんは人形用のベッドに横たわり、小さな寝息をたてていた。頬をなでて起こしてやる。「お風呂だよ」

 最近はもういちいちバスタブに湯を移す手間は省いていて、大きめのティーカップに入れた紅茶に直で入ってもらっていた。縁に腕を乗せたり脚をかけたりして、ティーカップのなかで悠々と紅茶に浸っているみどりちゃんを見るのが僕は大好きだった。もちろん、ばれないようにこっそりと。

 でも今日は、なかなか入ろうとしない。

「どうした? 熱い?」

 みどりちゃんは小さく頷いた。

「じゃあ、少し冷めるまで話でもしようか」

 僕は椅子に座り、さっき母さんから聞いた話をした。

「みどりちゃんがうちに来た夜、森の中で妙な男から西瓜を買ったんだ。その中にきみがいたわけなんだけど。もしかして、あの話となにか関係あるの」

 青ざめたようにも紅潮したようにも見える顔色で、小さなみどりちゃんは大きな目を見開いた。

「関係、あるの?」

 みどりちゃんは相変わらず口をパクパクしただけで、言葉を発しなかった。僕と話すのがそんなに嫌なのか? 前はこんなんじゃなかったのに。なんなんだよ。軽く苛立ちを覚えたけれど、深呼吸をふたつほどしたら落ち着いた。



 線路を歩いて死体探しをするのはDVDの中の十二歳の少年たちに任せればいい。でも僕はこれから、それに近いことをやる。僕は少し歳を取りすぎてしまったけれど、大好きな子のためならなんだってやれる。僕はただ、事実を確認したかった。みどりちゃんが西瓜に入っていたわけと、インターネットの信憑性に欠ける情報よりももっと正確な、西瓜屋についての情報を。

 たまたま満月だった晩に、眠っているみどりちゃんを置いてひとり森に入った。線路を歩き、絡みつく草を蹴り飛ばす。狭まる道をかき分け進む。そろそろか。

 背後に気配を感じる。来た。

 ゆっくり振り返ると、目の前に白い顔があり腰を抜かしそうになった。近くで見ると、その白すぎる顔が薄笑いの仮面だとわかった。闇の中のわずかな光を集めた白仮面は、漆黒によく映えた。

「どうしたンですかい。なにか探し物でも?」

「あ、あの、その」

 間延びした男の口調が恐怖を煽る。高鳴る心臓が、脅威を僕に知らしめる。うまく言葉が出ない。

「そうですかい。ワタシはずぅぅぅっと、探してるものがあンですよ……」

 仮面の奥に、見え隠れするどす黒いもの。なにかに似ている、と思った。そうだ、生鮮売り場にある生肉だ。真っ赤な牛肉。それよりももっと、黒い。

「ワタシはね、娘をずぅぅぅっと、探してンですよ……」

 母さんの話と、重なる。

「突然いなくなってしまいましてね……なぁんにも言わずにいなくなるなんてね。親としては、こんなに悲しいことはないですよ」

 固まった笑みを張り付けた目元の隙間から見える肌は、熟しすぎた西瓜の中身のように、赤黒い――

「あ、あなたは、群司さんですか」

 インターネットで調べてきた内容だった。それは、あの悲惨な事件の被害者の名前。

 男の動きが止まる。「ぐんじ……?」

「この辺りで農業をやっていた、群司保彦さんじゃないですか?」

 男は中腰の姿勢のまま、微動だにしなかった。闇に慣れてきた目は、銅像のように動かない男の姿を捉えている。

「……さぁ。よく思い出せないですねェ」

 首だけを回転させこちらを向き、徐々に距離を詰めてくる。

「ちょいと頭を、強く、殴られすぎたもンでね、ホラ、こんな感じに、なっちまいまして――」

 男は片手で仮面の端をつかむと、ゆっくりと右にずらした。眩しい月は男の背後にあり、僕の目にはただ、真っ黒な空間がぽっかりと口を開けているように、見えた。

 ヒヒヒ、と耳障りな声を漏らすたびに肩を上下させ、男は片手に仮面をもったまま月に向かい線路をよろよろと歩いて行った。やがて、かたんかたん……と、聞き覚えのあるようなないような音がして、僕の意識は、そこで途絶えた。


 はたと気がつくと、僕は腰を抜かしたように座り込んでいた。空は既に白んできており、朝もやが冷えた空気を運んでいた。一頭の鹿が、警戒心のかけらも示さずにこちらの様子をうかがっているのが目に留まる。これはふたりの秘密だよ、とでも言っているようなその美しさがあまりにも幻想的で、果たしてこれは、夢か、幻か――。釈然としないまま、ふらつく足元をごまかしながら帰路についた。



 その日は朝からよく晴れた。午後になって、日なたに干しておいた小さな布団を、うたた寝をしているみどりちゃんにふんわり掛けてやると、予想に反して嫌な顔をされた。みどりちゃんは最近寝ていることが多く、眠りを邪魔されたことに腹を立てたのかもしれない。なんだよ、よろこぶと思ったのに。布団をとると、みどりちゃんは全身をほんのり赤らめ、恍惚の表情を浮かべていた。僕の中になにか込み上げるものがあった。

 腰の下あたりの敷布団が真っ赤に染まっているのを見つけ、僕は慌ててみどりちゃんをつかんでキッチンへ連れて行った。幸い母さんは不在だとわかっていたので、躊躇せずにみどりちゃんを運べた。

 怪我をしているのでは、と、見える範囲で確認するが、どこも傷ついておらず胸をなでおろした。その際気になったことといえば、紅茶風呂にばかり入れていたせいか、ほんの少しだけれど、みどりちゃんの肌が茶色に染まっているように見えたことだった。僕はそれが嫌だった。みどりちゃんは色白じゃないといけない。そこで、白いものを連想しなんとなく牛乳に辿り着き、鍋で牛乳を温めた。ほんの数分で鍋と接する淵の部分に気泡が沸き立ち、火を止め、大きめのティーカップに移した。

「ほら、憧れの牛乳風呂だよ」

 みどりちゃんは驚いたような困ったような表情で固まっていた。

「なんだよその顔。純粋な牛乳風呂なんて、女子みんなの憧れじゃないのか」

 みどりちゃんは嫌そうに顔を歪めた。良かれと思ってやったのに。女子の考えていることは時として理解することが難しい。

 もどかしさ半分苛立ち半分、小さすぎてなにがなんだかわからないみどりちゃんの裸にはもう慣れてしまっていたので、剥ぎ取るようにさっさと脱がせて、即席の牛乳風呂にそっと落とした。みどりちゃんの小さな悲鳴が聞こえた気がした。でもみどりちゃんは口がきけないから、気のせいに決まっていた。

 僕は紳士であり、いまとなってはみどりちゃんの保護者だ。入浴中の姿を見ないようみどりちゃんに背を向けて自分の用事を片付けていると、いつもとは違う、いつもより激しめに水面を叩く音がした。目を向けると、白の中に赤いものが、湯船に浮かぶ薔薇の花のように揺らいでいるのが見えた。僕は慌ててみどりちゃんを救い出した。僕ですら熱く感じたのだから、みどりちゃんには相当堪えたかもしれない。

「ご、ごめんね、みどりちゃん」

 みどりちゃんはぐったりしていた。近くに拭くものが見当たらなかったので、上半身をつかんで軽く振った。それでも足りず滴ったので、髪の毛を吸い、それから舐めた。隅から隅まで。みどりちゃんは人間なのに牛乳の味がすることが不思議だった。そのことに気づいてしまって、それから、再会したときに西瓜味のみどりちゃんをもっと味わえばよかったと後悔した。顔をしかめて嫌がるみどりちゃんの身体からは、ほんのり血の味がした――

 指先に針を刺すような痛みを感じ視線を移すと、みどりちゃんが僕を噛んでいた。汁まみれでよくわからなかったが、多分泣きながら。

 そういえば、あの日もみどりちゃんは泣いていた。そのときも僕にはなにも話してくれなかったっけ。どうして? みどりちゃん。きみはいつから言葉をなくしたの?

「僕のことが、そんなに嫌い?」

 ――無言。

「なんでそんな小さくなったんだよ」

 みどりちゃんは口をパクパクさせ、ただ震えるばかりだった。

「なんか言えよ!」

 みどりちゃんはついにわんわん泣き出した。なんだ、声が出せるんじゃないか。

 その夜、牛乳と僕の唾液で臭くなったみどりちゃんをそのまま彼女の部屋に閉じ込めると、僕は、一緒に走り回って笑顔を向けてくれていたころのみどりちゃんを思い出しながら、眠ったんだ。



 昼休みの屋上は、さわやかな風が吹き抜けて心地良い。金木犀の香りはまだ健在で、その風情に、少しだけやさしい気持ちになれそうな気がした。例の場所で寝転がり、流れる雲の形をなぞる。あの雲は熊で、あの雲は吐き出した煙草の煙、あの雲は、みどりちゃんの眠そうなときの睫毛の影。

 ひとりでこの場所に来るのははじめてだった。しかしまったくそんな気がしないのは、よく見慣れた場所であったから。今日はみどりちゃんはお留守番だ。少し頭を冷やしたほうがいい。僕の指先の絆創膏には、ほのかに血が滲んでいた。

「なにしてんの」

 僕に影を落とすように、斜め上から覗き込む女子の姿があった。確かおなじクラスの、名前は、えっと、なんだっけ。

 彼女はふふと笑い、僕の考えていることを見透かした。

「いま『誰こいつ』って思ったでしょ」

「……ごめん」

 いいよ、と彼女は笑った。

「最近いつもここにいるね、ひとりで」

 正確にはふたり、だ。でも、訂正する必要性を感じなかったので無視した。片肘をついて起き上がる。

「なんか用?」

「みどり、どこ行っちゃったんだろうね」

 うちにいるよ。でも誰だかわからないきみに言う必要なんて、ないよね。

「さあね」

「もしかして、なにか知ってるの?」

 彼女が隣に腰を下ろすと、金木犀とは違う、もっと上品な花のような香りが鼻腔をくすぐった。

「なにも」

「心配じゃないの」

「そりゃ心配だけど、どうにもできないっていうか」

「……灰谷くん、変わったね」

 彼女は僕を見た。僕も、彼女を見た。

「今までの灰谷くんなら、みどりがいなかったら大変だったはずなのに」

「どういう意味?」

「灰谷くんがどうしてそこまでみどりに執着してたのかわかんない。顔だって悪くないし背も高いし、女の子には困らなそうなのに」

「なに言ってんのかわかんないんだけど」

「みどりのことしか見てなかったからわかんないんだよ。私は、灰谷くんのことずっと見てたから」

 彼女の真っ黒な瞳に映る僕が見えた。これは果たして、本当の僕なのだろうか。


 僕は、みどりちゃんだけを見てきた。

 天文学部に入ったのは偶然だ。それは断言できる。昔から星空が好きだった。幼稚園児のころに「星の降る街」と謳われる目白台に引っ越してきたことは、人生で二番目の幸運だった。

 部室からは、屋上のこの場所がよく見えた。部費で新しく購入した双眼鏡を験していたその日、たまたまここにいるふたりを見つけた。いつの日からか僕に冷たくなったみどりちゃんと、学校いち不真面目で、イケてて、鼻持ちならない黒澤のふたりを。驚きのあまり双眼鏡を一度外し、裸眼で遠目に確認し、再び覗いた。フレームの中の小さな世界に収まるふたりに嫉妬した。

 黒澤に言い寄られて困っている様子のみどりちゃんを見ていた。後ろの壁に背中をつけ、両手で黒澤を押し返しながらも頬を赤らめまんざらでもない様子のみどりちゃん。強引な黒澤に唇を奪われたみどりちゃんと、頭の後ろに腕を回して応えるみどりちゃん。それから、それから――。頭がおかしくなりそうな数々の行為だって、僕はしっかり見ていた。しばらくして起き上がったみどりちゃんはスカートについた汚れを払おうとして、手を止め、セーラー服の胸の部分に触れる。そこについていた小さな羽虫二匹を優しく摘みあげ、そのへんに捨てた。

 ぜんぶ見ていた。新しい双眼鏡の高性能さを憎むほどに、なにもかも鮮明に。頭がイかれそうで胸がはちきれそうで脚が震えて、それに堪えながら、必死に喰らいついた。部室のある南校舎と屋上のある北校舎は中庭を挟んで向かい合って建っているため、距離にして数十メートルほど離れていた。その距離のせいで助けてやることも止めることもできずにもどかしかったけれど、いつか証言台に立ったときに役に立てるようにと、しっかり目に焼き付けておくことにしたんだ。双眼鏡のレンズに止まった、みどりちゃんの胸に止まっていたのとおなじ羽虫を反射的に潰したときの体液の跡形だって、ちゃんと目に焼き付いている。


「僕は、だれでもいいわけじゃないんだ」

 ふうん、と彼女は大きく息を吐いた。

「みどりなんて、だれとでもヤっちゃうような子だったのに」

 その後黒澤は、その一部始終を悪友に話し、面白がったクソ野郎共によって言いふらされ、すぐに最下層の僕らまでもが知ることとなった。それから、みどりちゃんは学校に来なくなった。

「違う、あれは無理矢理だった。みどりちゃんは悪くない」

「なんでそう言い切れるの」

「ぜんぶ見てたから」

「見てた?」

 彼女は眉根を寄せ頭を傾けて、僕の顔を覗き込む。

「そうだよ、ぜんぶ見てた。だから知ってる」

「……変態」

 小声ではあったけれど、顔を背けつつ鼻で笑いながら吐き捨てるようにこぼしたその言葉を、僕は聞き逃さなかった。

「それはどうも」

 思わず笑いが漏れた。変態、か。確かにそうかもしれない。

「でも、いくら真実を知っていたって僕にはどうせなにもできないんだ。最後に会ったときだって、みどりちゃんは泣いてたけど慰めることすらできなかった」

「どうして泣いてたの?」

「知らないよ、なにも話してくれなかった」

「もしかして、ストーカーが嫌でたまらなかったとか」

「ストーカー?」咄嗟に出たのは馬鹿みたいな鸚鵡返し。「みどりちゃんにストーカーがいたのか?」

 彼女は一瞬こちらを見て、すぐに視線を足元に落とした。

「本当になにもわかってないんだね」

 ストーカーがいたなんて知らなかった。ストーカーに困らされ泣いているみどりちゃんを想像すると、なぜか胸の奥がざわついた。僕の知らないみどりちゃんがいることに、驚きと、もうひとつ、言葉には言い表せないなんらかの感情が湧き出てくるのがわかった。

「みどりはもういないんだからさ、あたしと遊ばない?」

「みどりちゃんは、いるよ」

「なに言ってんの、そろそろ怖いよ。いい加減にして。いないんだからさ、あたしと遊ぼうよ」

 気分転換になるよ、と彼女は上目遣いで言った。こういう表情に、もしかしたら男は弱いんじゃないか。

「遊ぶって、なにするの」

「んー」

 口を尖らせて、いかにも考えているような顔をしている。わざとらしくて、吐き気がする。

「たとえば、みどりが黒澤としてたこととか――」

 気づけば彼女の顔が目の前にあり、唇の柔らかさと苺のガムの甘い香りを感じた。僕は動けないでいた。そして、記憶が蘇る。

 これは、ここでみどりちゃんがしていたことだ。みどりちゃんと黒澤が、していたこと。この先どうなるか、なにをすればいいか、脳に叩き込むくらいに必死に見ていたからわかっているつもりだ。本当なら相手はみどりちゃんであって欲しかった。

 僕はみどりちゃんのすべてを理解するために、みどりちゃんとおなじことを経験しなくてはならなかった。だから僕は、好きでもなく名前もわからない彼女のキスに応え、それから、彼女の身体に手を回した。


 放課後は彼女の家で一緒に過ごした。ベッドの上に寝転んでいるとき急にみどりちゃんのことを思い出し、急いで家に帰ったがすでに世界は真っ暗だった。だれもいない空間にただいまをひとつ言い、自室に急いだ。

 静まり返った部屋は真っ暗で、響くのは僕の荒い呼吸だけだった。それもそのはず、みどりちゃんは小さいから部屋の明かりをつけることができないし、しゃべれないからおかえりも言えない。一度目を離すと、どこにいるのかわからない。

「みどりちゃん、どこにいるの」

 再会してからこれほどの時間離ればなれでいたことがなかったことに気がついて、急に不安に駆られた。部屋の明かりをつけ、室内を見回した。風呂の支度を待っているときは確かいつもここにいるはず――いない。じゃあこっちは? いない。

 今朝起きた時はどこにいたっけ? 思い出せなかった。そういえば、今朝は会っていない。それじゃあ昨日の夜は? 昨日の夜はどこにいた?

 おしおき部屋と称した粗末な箱の中に、みどりちゃんは横たわっていた。腰の下にある血だまりは黒く変色し、ぐったりして、その小さな鼓動は、僕の目では確認できなかった。

「みどりちゃん」

 ――反応なし。

「死んだの?」

 頬を指先で撫でるも、――反応なし。

 ふう、と長く息を吐いた。

 いいさ。きみがほかの人のものになるくらいなら、死んじゃったほうがまし。ほかのだれかに抱かれるくらいなら、僕のもとで死んでくれたほうが断然良いに決まってるじゃないか。

 よく見ると痙攣するように小さく震えているみどりちゃんを手のひらに乗せ、眺めた。みどりちゃんがいない世界に意味なんてない。このまま消えるものいいな、と長いこと忘れていた感情が湧き出て、懐かしくさえ思えた。でも方法がわからない。壁一面に貼られたみどりちゃんのたくさんの笑顔が眩しくて、涙が溢れた。


 枕が濡れていて目が覚めたか、あるいはうなされたか。いつのまにか寝ていたようで、時刻が気になりスマートフォンに手を伸ばし、表示された着信件数の多さに驚いていると、ちょうど着信を知らせる振動があった。相手は藤井だった。息を切らせている様子からただならぬ雰囲気が電話越しに伝わってくる。

「なあ、桃田がいないんだ。なにか知らないか」

「桃田?」

 名前を聞いてもすぐにはわからなかった。しかし「桃」という単語を耳が覚えている。昼間の彼女はたしか、「桃っていう名前みたいに、あたしは甘い」とかなんとか言っていなかったか。僕は桃には興味はなくどちらかというと西瓜のほうが好きで、そう思い立ったあたりで目が覚め、相手がみどりちゃんじゃないことを受け入れた自分自身に驚き、同時に後悔した。我に返った僕は急いでその場から立ち去った。あの女子の名前が確か、桃田。

「ああ、さっきまで――」

 言わないほうがいいかもしれない。言葉尻を濁し、興奮状態の藤井の話の先を待った。

「みどりのこともあるし、いなくなったって言われると、俺心配で」

 みどりちゃんのこと、ね。いいこと教えようか。みどりちゃんはね、いま僕の上で死にそうになってるよ。喋れたらたぶん「もうだめ死んじゃう」って言ってるんじゃないかな。はは。まあ、正確に言うなら手のひらの上だけど。

「いなくなった?」

 藤井は早口でまくし立てた。

「さっき桃田の親からうちに連絡が来て、まだ帰ってないって言ってて。こんな時間だぞ、どこにいるんだろうな」

 藤井は桃田が好きなのかもしれない。ほんの僅かな罪悪感を覚えながら、彼女のことを考えた。隣にいるとき、僕は線路の話をしなかっただろうか。西瓜屋の話をして、馬鹿げてる頭おかしいんじゃない? と笑われやしなかったか。曖昧な記憶を辿り、「それじゃあたしもそこに行ってみようかな」と冗談めかして言っていたことを思い出す――もしかして。

「僕も探してみるよ。なにかわかったら、連絡する」



 満月がへそを曲げたような歪んだ月だった。明かりは充分。会いたいというよりは、会わなければならなかった。

 この世のものでないと確信してから、恐怖心がないと言えば嘘だ。母さんの話と重なり、幸い見えてはいなかったが、あの晩見せられそうになった仮面の奥の赤黒さを想像すると吐き気さえ覚える。しかし桃田を救えるのは自分だけかもしれないという勘違いも甚だしい使命感と、瀕死のみどりちゃんをなんとかしてくれるのではないかというぼんやりとした期待が、僕を動かした。

「今日もいいのがありますぜ、旦那」

 気配を感じないまま、背後、しかも耳元から突然声を掛けられるのに慣れるなんてことは、一生ないんだろうと思った。飛び上がった僕は、決してしないようにと意識していた仮面の奥を再び想像し、振り向けないでいた。男の薄気味悪い引き笑いが聞こえて、遠近が定まらないその距離感に戸惑う。

「お、女の子、見ませんでしたか」

「おんなのこ……」

 なにか思い悩むような口調で男は、ゆっくりと言った。

「ワタシはね、女の子なら、ずうううううっと探してンですよ……」

 いつのまにか正面にまわりこんだ男から発せられる、静かながらも迫りくる気迫に、気の抜けた変な声を出すことしかできない僕は、来たことを後悔し始めていた。

「友達がいなくなったんです、もしかして、また、ここの、西瓜の中に」

「……ああ、アレですかい」

 僕の読みは、間違ってはいなかったようだ。

「アレも違った……」

 ため息交じりに男が言った。月明かりに照らされたシルエットは落胆そのものだった。

「ワタシの娘ではなかった!」

 大声に、静まり返っていた森が揺れる。どこに潜んでいたのかわからない鳥たちが飛び、男の声に呼応するように獣が唸りを上げる。

「娘はどこなんだ!」

 男の悲しさが伝わる。恐怖よりも、悲しかった。仮面の奥で泣いているのがわかった。この男は被害者だ。それも、前例がないくらい凄惨で、悲しい事件の。


 夢の中だと、思い通りに事が運ぶことがある。あれはなぜなのだろう。きみと過ごす幸せがいつまでも続くように、いつも夢を見ていられたら良いのに、とよく思っていた。

 愛情を注ぎ育てたものの中で、おなじく愛情を注いで育てたものを匿ったら安全だと西瓜屋は思ったのかもしれない。理屈なんていらない。ここならなにもかも思い通りにできるのだ。となると、ここは西瓜屋の夢の中なのか。

 死の間際の記憶や感情は残ると聞く。未練があればなおさらだ。愛する娘を探すこと、愛を持って育てている西瓜への絶対的な自信――それらの記憶を混同させ、姿を消した娘に近い背格好の女性を見つけては、もうひとつの愛情の化身、つまり西瓜というもっとも安全な城に匿った。それは娘への愛の形。西瓜屋にとってはそれで良かった。これでもういなくなる心配がない。そして娘ではないとわかると西瓜を求めている人に売り手放した。それは、西瓜への愛の形。


「どうやって、みどりちゃんを見つけたんですか」

「寂しそうに、ここを歩いていたンですよ」

「ここって、この線路を?」

「そうでさァ。ここは、ワタシが西瓜を運ぶための道。トロッコに乗せて運んでたンですよ。たまに娘が手伝ってくれてね……こんなところにいる若い女なんざ、娘しかいないって思うでしょうよ」

 僕の予想はほぼ合っていた。みどりちゃんは、ここを歩いていた。大好きだった古い映画のように。何故か。考えられることはただひとつ、黒澤にされたことの恐怖とそれを受け入れてしまった後悔が抜けなかったからではないだろうか。

「娘かと思ったら、違った。ワタシの娘はいったいどこに行ってしまったンでしょうねェ……いまだに帰ってこんのですよ」

 男の後悔や寂しさは声色によって伝わった。しかしどんな表情で言っているのかは、薄笑いの仮面によって確認することはできない。もしかしたら動揺している僕を見て、仮面とおなじように笑っているのかもしれない。唯一見える生身の部分が醸し出す恐怖の色は濃厚で、言葉の裏と当時の状況を想像してしまうと、もはや恐怖しかなかった。

 隠れて待ち伏せする西瓜屋、肉の塊と化した仮面の奥の両目は見開き、みどりちゃんを捉える鋭い眼は決して光を宿すことはない。わけもわからないまま、みどりちゃんは捕まる。いったいどんな表情で、どんな悲鳴を上げたんだろうか。絶頂に達した時みたいな、僕がもう二度と見ることを許されないあの表情で、二度と聞くことを許されないあの声で。そして西瓜屋はいつ、それが自分の娘じゃないと気づいたのか。あるいは、復讐心ばかりが育ちすぎていたために、誰でも良かったのではないか。


「それは違いますぜ、旦那」

 声に出ていただろうか。西瓜屋のほうを向く。

「ワタシは娘を捜しているだけですよ。違う子になんて興味ないンですよ。旦那なら、わかるでしょう」

 ヒヒ、と意味深に笑う。僕にはその言葉の意味がすぐにわかった。

「わかります。ほかの子になんか、興味ない」

「ましてや、妊娠してる子になンてね。そんなの、ワタシの娘のわけがないンですよ……」

 耳を疑った。いま、なんて言った?


 どれくらいの時間が経っただろう。森は静まりかえり、僕らの存在などないかのような静寂が戻った。男の広げた風呂敷の上の大きくて丸いものが、月明かりを反射していた。以前は気づかなかったが、なるほどこれは、多すぎるくらいの愛情をかけないとここまでにはならないであろう、立派な西瓜だった。

「この中に女の子が入っているんですか」

「へぇ」

 おそらく桃田が入っているんだろう。これをくれ、と言う言葉が喉元まで出かかったが、思い直した。代わりに。

「以前売ってくれた西瓜の中にいた女の子が、元気がないんです。なんとかしてもらえませんか」

 西瓜屋は、大きく息を吸ったかと思うと、

「ワタシの西瓜は世界で一番おいしいよ! 食べたら、元気になること間違いなし!」

 と声を張った。まるで歌舞伎役者の口上のように、変に抑揚のある喋り方で。

「甘くて、世界一美味しい西瓜だよ!」

 それから、声を落とし、僕のほうに視線(と言えるものがあれば、だが)を向けた。

「ワタシの西瓜を食べて元気にならない人はいない、元気がないなら中に入ればいいンですよ」

「それなら、もう一度みどりちゃんを閉じ込めてくれませんか」

 みどりちゃんが元気になるのなら、しばらく離れても文句は言わない覚悟だ。

「それはできねえな、旦那」

「ど、どうして」

「だって、ほら――よく見てくだせえ」

 西瓜屋の視線を追う。僕の手元に落ちる。そこにあるのは――これは、なんだっけ?

「その子はもう、息がありませんぜ、旦那」

 手のひらを見つめていた。そこにあるものがなんなのか、理解するのに数秒ではとても時間が足りなかった。細くて、小さくて、真っ黒な、もの。かろうじて人の形をしているように見えることが、みどりちゃんの面影を残していた。見ようによってはお腹のあたりが膨らんでいるように見えなくもないが、そんなのは目の錯覚だ。

「ああ、みどりちゃん、みどりちゃん……」

 視界がかすんで、脚が震えた。人生でこんなにも、信じてもいない神に縋ったことなんてなかった。まるっきり信じていない神に向かって、どうかどうかおねがいします、と心の中で必死に祈る自分がいた。

「ねえ、死なないでみどりちゃん、死ぬ前に本当のことをおしえて、嘘だって言って、あいつの子どもがいるなんて、そんなの嘘だろ? だからあの日泣いてたの? わからないことだらけなんだ、もういっかい目を覚まして、お願いだ、僕にぜんぶ話して、みどりちゃん、みどりちゃんみどりちゃんみどりちゃん」

 おそらく僕は気が触れたみたいになっていて、西瓜屋ですら黙り込んでいたように思う。いや、僕を見て例の薄気味悪い声で笑っていたかもしれない。そんな状況下の記憶なんか曖昧で、信用に値しない。

 みどりちゃんは動かなかった。僕は少しだけ冷静さを取り戻した。不思議と気持ちは穏やかで、僕の手の中で死に絶えたみどりちゃんを見ると、ついに僕だけのものになったのだというこの上ない多幸感に包まれた。


 みどりちゃんが体験したことを僕もすべて体験したかった。みどりちゃんが見た景色すべてを、僕も見たかった。それはいつか、ふたりでおなじ経験を笑い合うために必要なことだった。

 みどりちゃんが体験して僕が体験していないことはなんだろう。みどりちゃんが見て、僕がまだ見ていないものは。

「――西瓜の中と、恐怖だ」



「オスの西瓜なんて売れない」

 と、わけのわからない言い訳で反対する西瓜屋に対し、半ば脅すようにして頼み込む。

「入ったら、割られるまで二度と出られないですぜ」

「それでも構わない」

「……そうですかい。わかりやした」――



 死んでしまったみどりちゃんは、相変わらずなにも言わなかったけれど、でも声が聞こえた気がして、その口元に耳を当て、そこで、ああそうか、と気がついた。

 みどりちゃんはいつも僕になにかを訴えていたんだ。僕が聞こうとしなかっただけ。小さすぎて聞こえなかったのは、みどりちゃんの気持ちをその程度にしか考えていなかったから。

 いつからか僕を避けるようになったきみが、いい加減ついてくるのをやめてって言ったときだって、バイト先に毎日来るのをやめてって言ったときだって、部屋の中を覗くのをやめてって泣いたときだって、部屋中に貼ってある写真に気づいて泣きながら剥がしてくれって言ったときだって、きみの言葉は僕にはまったく聞こえていなかった。いつもそうだったね。きみの気持ちなんて、無視してた。でも、きみが僕に冷たいからからだよ。いけないのはきみのほうだろ?


 きみを幸せにしてあげられなくて、ごめんね、みどりちゃん。



                       了

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ごめんね、みどりちゃん 白玉 @srtm_

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