月がある

 織姫にお茶を振る舞った後の話し。今後どうするかということ。


 まとめておきたいことは多々ある。だから一旦ここで話し合い現状を振り返ることになった。


 まず望月は昨日の出来事を思い返した。


 夜空に流れる星に願い事をしたこと。そしてそれは隕石となって部屋に飛んできたこと。青い表紙にピーターパンと記された本に一文。

 やあ、ピーターパン。


 そして今朝、春野さんと話す中で自分らしくない発言をしたこと。

 早退し帰り道を歩いていた際、フードを被った少年らしき人物に呼び止められ、殺されそうになったこと。



 やはり本を手にした時から自分の運命は平穏の位置からズレだしたように見える。

 それはとても緩やかで、けれど確かなエネルギーによってその重心を少しずつ外されていく。


 平凡な男子高校生1人を狂った世界へと誘う本の力とは一体……。



 ふと、思った。


「ねえ、灯明さん」


「何かしら?」


 抽出したばかりのコーヒーが入ったマグを、慣れた動作で取ってをつまみ上げ口にする織姫。

 香ばしい白い湯気を上げる黒い液体は陶器で作られたような少女の喉を鳴らした。


「本って、俺のどこにあるの?」


 織姫は御伽世界で言ったのだ。創作者ストーリーテラーは体の中にストーリーを宿している、と。


 だから、身体中を調べ、ついでに荷物も調べた。でも出てくるのはコンビニのレシートや教科書ばかりでどうしたものかと考えていたのだ。


 織姫は、そっとマグを卓の上に乗せてから静かに話した。


「前にも言った通り、体の中にある」


「だから、身体中を調べたんだ。でも荷物にさえなかったよ。それとも、身体から取り出す方法があって、まだやっていないから――」


「あなたは大きな誤解をしているわ」


 弁明する望月を突っ張れるかのように、織姫は手を組ながら進めた。


「あなたはきっと物語ストーリーを手元における書籍か何かと思っているのよね。でも違うの、ストーリーは本の形をしているけれど、それは最初だけ。ストーリーは選んだ人物の前に現れて読ませるの、そして……」


 一瞬、織姫の唇が痙攣したように止まった。そこから酷く遅いくらい1つ1つの単音が発せられ、次の言葉を脳内で形作った。



 ……は?


 今、何て――。


「い、いや、待ってよ灯明さん。何言ってるのか分からないよ。本が一体化? それってつまり、本が俺の一部になったってこと?」


「そうよ」


 マグの中の液体が揺れた。


「そんなわけない! だってあいつは――狼少年の奴は本を持ってた! ちゃんとこの目で見たんだよ」


 不気味な少年が土煙を払ったような色の本を手にしている映像が再生される。表紙の色こそ違うけれど、それは間違いなく望月が見た本そのものだった。


 だから、ずっと思っていた。本は取り出せるものだと。


 しかし、織姫の態度は望月の願う甘い想像を裏切り、手元にある砂糖を加えたコーヒーのように滲み出る苦いものがあった。


「彼ね。確かに本を持っていたわ。でもそれはまずあり得ないの。仮にあり得たとしても……」


 織姫の視線がマグの中へと注がれた。まだ白い蒸気を立ち上らせるコーヒーは天井の蛍光ランプをぼんやりと写し出している。

 さもそれは、大海原に写る第2の太陽ように見えるが、少女が覗き込むことで心を浮かびあげてるようにも見える。


 ゆらゆらと揺れるそれは、織姫の添えた手の中へ帰っていく。


「ごめんなさい。とにかく、本を取り出すのは無理。そんなの血肉となった食べ物を取り出すのと一緒。なぜ彼が本を見せたのか疑問だけど、彼の中にも私達と同じように本が宿っているはずよ」


 そういって話しは締め括られた。


 そんな、本が一体化してる?


 望月の目は暗く、ぼんやりと白い天井を眺めていた。


 本があるから狙われる。ならば取り出して捨てれば良い。


 体の中に宿る、という言葉を望月は良いように解釈していた。本という物体があって、それは取り出せるのだと。棚にある漫画を1冊取り出すくらいの感覚でいた。


 コーヒーを乾く口内へ流し込んだ。ほろ苦い風味が心のざわめきを静めていった。


「……良く考えればそうだよね。体の中にあるのに、どうして拾ったりしまったり出来るんだって話しだよね。馬鹿だな俺って……」


 力の無い笑い声がリビングに響いた。


 カラカラと、切ない程に。


「望月君、申し訳無いけれど私は一旦ここで帰るわ」


 チラッ、と時計を確認すると短針はすでに5時を回っていた。


「ごめん、こんな遅くまで。送るよ」


「覚えてる? あなたは狙われてるの。今日は出来るだけ外出は控えて。それと、帰ると言ってもあなたの護衛は継続中よ」


 織姫は身なりを簡単に整えると、お邪魔しましたといって玄関で靴を履いた。


 望月も玄関に移動するが、何となくその足取りはおぼついていない。


 扉が開かれ、隙間から茜色のカーテンが滑りこんだ。

 外を見るともう夕焼けだった。


「あった」


 そう言ったのは織姫だった。視線を追うと煎餅のような薄い茶色の月が夜空へゆっくり昇っていた。


「今夜は、月があるわ」


 織姫はそういって前髪を流すように撫でた。


「きっと、明日も明後日も巡るのね」


 何を言いたいのか分からない望月は、ただ呆然と月を眺めた。

 ぼんやりとして今一美しさに欠けるように思ったが、目の前の彼女には美しく見えているようだ。


「それじゃあね、また明日会いましょう」


 そういって、少女は陰る道を歩いて去っていった。


「月……か」


 もう見飽きたと思っていた月は、夜の帳を下ろして輝きを増していた。


「綺麗、だな」


 そんな感想が漏れた。



 □■□■□



 少女は再び襲撃された現場へと歩みを進めていた。

 少女の指に付けている不適な笑みを浮かべたカボチャの目に淡い光が灯った。


『お嬢、今のは流石に言い過ぎたんじゃねーの? オレちゃんならうちひしがれて今頃マッシュドパンプキンだぜ』


 ヒハハ、と下品な笑い声が響いた。しかしその声は織姫にしか聞こえない。


『悪いと思ってるわ。でも創作者ストーリーテラーになった以上、この先の事も踏まえて話すべきなの。でないと望月君はより一層傷つく』


 織姫もまた、ジャックにしか聞こえない声を発していた。


 通りすぎる男共が織姫を目の端で追った。感嘆としたため息には女性のものも混じっている。

 彼女を目にしたものは心を奪われたように惚けて直立する者までいた。


 そんな光景を流すように眺めては、ハァ~と冴えないため息を吐くのだった。



『おいおいお嬢、モテモテなのに不満なのかい?』


『不満? 不満どころか飽き飽きよ』


『へぇ~、独身のオレっちには分からないな』


「私に彼氏はいないわよ!」


 あっ、と織姫は周りを見回す。織姫に注目していた大衆が何だ? という顔つきでじっと注目している。


 コホン、と咳払いを1つして織姫は少し顔を伏せながら再び歩を進めた。


『ジャック、とにかく今は望月君に被害が出ないようにしなきゃいけないの。それに、あの狼少年の彼はちょっと不気味なのよ』


 本をわざわざ見せることになんの意味があるのか? それが狼少年というストーリーに関係あるのか、謎は深まるばかりだった。


 確かに、とジャックの肯定が頭に響いた。


『それにしても、あのボケは中々に痛かったな~』


『……』


『月がある、明日も巡る。ツキが巡る……。ヨホホ! 素直に励ます方が良かったんじゃねーの?』


 織姫はサッと指輪を抜いた。

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