逃走劇にパンプキンケーキを添えて

 道行く人を避け、砂利や小石を蹴飛ばして望月は謎の少女と共にひた走った。


 だって、止まれば殺される。


 後ろには信じがたい事に狼が迫っている。

 灰色の毛皮に強靭な四肢を携え、貫通すれば離すことのなさそうな鋭い歯を見せながら刻一刻と迫ってきた。


「あなた、名前は?」


「え? 望月 友也ですけど……」


「そう、私は 灯明とうみょう織姫おりひめよ。よろしくと言いたいところだけど今は状況が状況だからこれで挨拶は終わり」


「はあ……」


「それで、あなたに聞きたいのだけれど」


 織姫と名乗る少女の声は透き通っていながら芯のある響きで、歌えば小鳥や兎がやって来るのではないかと望月は呆然と思った。


「あなたは能力を使ってこの危機を脱することができる?」


 織姫の目線が初めて望月と合った。


 もう1キロは走っているはずなのに、彼女の淡雪のような白い肌には汗の珠1つさえ浮いてはいなかった。

 着ている薄紫のテーラードは乱れておらず、風でなびく長髪は水に濡れたような艶があり、光を反射する瞬間は銀色も混じって神秘的な光景を醸し出していた。


 真剣に質問してるであろうその表情も、どこか計算され尽くした美を感じずにはいられなかった。


「君、聞いてる?」


「あっ、はいっ!」


 緩んだ心臓がキュッと締まった気がした。


 息を飲む美しさなんて言い回しを文庫本で何度も見かけるが、正に、今目の前にいるこの美少女に対してだけはその意味を理解せざるを得ない。


「それで、どうなの?」


「わっ、分かりません。あいつも言ってましたけど能力って何のことですか……」


 階段を飛ぶように駆け下り、アスファルトの地面を踏み抜く様に蹴飛ばした。


「ごめんなさい。今は説明する時間も惜しいから話せないわ。来てる?」


 織姫は真っ直ぐ先だけを見つめ、望月に問う。


 嫌々ながらも自分達の背を追いかけるハンターを見やった。

 望月達を追う狼は階段の一歩手前に止まると、体を弓のようにしならせてから空に飛び、健脚を大気に晒しながら階段を飛び抜いた。


「ハイジャンプ、ワンダフル……」


「どうやら元気はまだあるようね、付いてきて」


 織姫はそういって望月の腕を引っ張った。


 もはやリードに繋がれた犬当然の望月は、もうどうにでもなれと心で叫んだ。




 □■□■□■


「ぜぇ……ぜぇ……、これって、巻けたんですか」


「分からない、でも急いだ方が良さそうね」


 望月達は川にかかった橋の支柱の裏に身を潜めていた。


 逃走の最中息切れの激しくなった望月を案じたらしい織姫は、小瓶を取り出し狼に投げつけ、香りに悶絶する狼の隙を突いて隠れたのだ。


 肩で息をする望月に対して、織姫はフゥ、と言ってくるぶしが見えそうな程のスカートと黒いストッキングの砂ぼこりを払っていた。


 体力にそこそこの自信があった望月は汗まみれの顔でうなだれていた。


「で、これからどうするんですか」



「はい?」


 すっとんきょうな声が出てしまう。だが言わせて欲しい。別に文章の構造がおかしいとかそういうのではない。


 主語にも出ている扉というものが見当たらないのだ。

 ここまで異常なことが連続して発生したものの、望月は一般の常識を忘れてはいない。


 もしかしたら秘密の扉か何かを知っているのかも知れないと思ったが、彼女は今、支柱の壁にどこからか取り出したマジックペンを走らせていた。


「何してるの?」


「扉を作ってるの」


 頭がおかしくなったのかと問い詰めたくなった。けれど、織姫の瞳には絶対的な確信の光が灯っている。


 天気予報で明日の降水確率が100パーセント、さらに黒い雲がひしめき合っている状態の上で、大丈夫、明日は絶対晴れる。と言われている様な気分だった。


 カチン、とマジックペンの蓋がしまる音が鳴った。はてなにが出来たのか、狼の訪れる瞬間を恐れながらそれを目にする。


「……」


 期待してみると、そこにあったのは黒い線で引かれた、望月ぐらいの人間が収まりそうな程の長方形。


 もはや突っ込む気さえ起きない。


「さあ、入るわよ」


「ちょっと待ってよ!」


 涼しい顔で、なに? と言わんばかりの顔で扉と呼ばれる落書きの前で織姫は突っ立っていた。


「早く逃げないと来るわよ」


「それはこっちの台詞だよ!」


 織姫の言葉に、ここぞと言わんばかりに食い下がる。


「こんな落書きであの変な狼から逃げれる訳ないだろう、君にここまで連れて来てもらったけど、これはふざけるにしては酷すぎる!」


 大体、何でこんな事に? 自分はただ静かに日々を過ごしてただけだ、あんな不気味な奴に狙われる様な悪いことはしてない。


「そもそも、君は誰なんだよ? あいつは君のこと知ってるみたいだったけど、仲間じゃないって言い切れるの」


「言い切れる、私はあいつらの仲間じゃないわ」


 織姫の双眸はただ真っ直ぐに望月の目を射って離れない。

 その凛とした態度を崩さない彼女がかえって憎く感じた。


 1人迷走する自分を内心で嘲笑っているんじゃないか、もしかしたらあの狼を手懐けていて、ただけしかけて襲われている風に見える遊びをしているんじゃないか?


 もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら。


 負の妄想は新たな負の妄想を呼び続ける。

 目の前の彼女が歪んで見える程に。


「くっ!?」


 突然、体の奥底で何かが揺さぶられた。

 疲労しきった望月は片膝を着いて胸と腹の間を押さえた。


「なんだ、今の……」


 この感覚、確か授業中にも……。


 脳裏に少年が過った。


 もしかして。


「望月君ッ!」


 呼ばれてハッとした、いつの間にか目の前にまで織姫が近付いていた。


 それも、悲しそうな表情を浮かべて。


「今誓うは、この扉をめくった先であなたの知りたい事を全て話す。あなたの中の本も、その使い方も、だから私を信じて」


 目の前の少女は信頼を求めるように手を伸ばした。この手を握った先にあるのは一体何なのか、想像することさえ億劫になる。


 けれど、彼女が、織姫が見せた悲しい表情の奥に、覚悟した者の意志がちらついて見えた。


 ワォーン、突然の遠吠え。見ると巨躯を揺らしながら狼がにじり寄ってきていた。


 どうするのか彼女を見ると、なおも細い腕を伸ばして自分を求めていた。


 俺はどうすれば……。


 刹那、狼が短い雄叫びを上げて飛び掛かる。


 しかし、ハンターの爪は空虚を切り裂いた。


「行くわよッ!」


 そういって織姫は伸ばした自分の手を強く握り長方形の壁を中へ突入した。



 □■□■□



「いって!」


 地面との摩擦で後頭部が焼けるようにいたい。身を投げ出したものだからろくに受け身を取れなかった。


「いてて、ここは……」


 寝ぼけた様に焦点が合わない。なので世界がぼやけて見える。数度瞬きをして視界がすっきりすると、


「伏せてっ!」


 突然背中を押され、再び望月は受け身のチャンスすら与えられるずに伏せられた。


 体の全面が痛い。もう何回倒れたのかすら思い出せずにいると、低重音の唸り声が鼓膜に響いた。


「動かないで、あいつも入ってきたみたい」


 声は望月の頭上で聞こえた。肩に手を添えられているのが分かるので、恐らく庇っているのだろう。


 狼は望月らを仕留めるためか、ゆっくりと距離を量るように歩む。


 瞬間、狼は尻尾を鞭の様に地を打ったかと思うと飛び掛かった。


「ジャック!」


 凶爪が迫るなか、少女が叫んだ。


「フヒヒ」


 瞬間、空中に身を晒す狼が燃えた。


「え?」


 地面すれすれでも確かに見えた、狼が突然発火するのを。


 狼は悲鳴を上げてのたうち回るが、その後塵芥ちりあくたとなって風に吹かれ消えた。


「助かった……の?」


「ええ、もう大丈夫」


 織姫に起こしてもらった望月は深い深呼吸をした。

 生きてるって素晴らしい。


「ヒヒヒ、これは随分と面白い客人じゃねーの、お嬢」


「こらジャック、まずは挨拶をするものよ」


 そんなやり取りが聞こえて振り返った。


 目の前がカボチャで埋まった。


「……うおっ!?」


「はーい今のリアクションはつかみをとった上での後退り、オレちゃん的には80点のナイスなリアクションだね」


 そこには、カボチャ頭のこれまた別の意味で怪しい人物がいた。


 というか、浮いていた。


「こちらはジャック。ジャック・オ・ランタンのジャックよ。ジャック、彼は望月 友也」


 織姫はなお涼しげに紹介の進行を進めた。


 俺はまだ夢を見ているんだろうか?


「さて、あなたが知りたがっていた本の事を説明しないとね」


「そうだ、そうだよ! 本って何なんだ、君達も本を持ってるのか!?」


 その前に、と織姫は踵を返した。何となく視線で追うと、その奥にとんでもないものが見えた。


「ようこそ望月君、ここは物語が住まう世界、よ」


 代表するように、織姫のはるか後方で天を貫く大きな樹が望月の視線をさらった。

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