変化――変貌
日の差し込まない地下深く。ジメジメと湿気の多いそこは、温度も低く寒い。
しかし、そこに居るものは温度など気にしない。と言うより、関係なかった。
今はまだ、眠っているだけだったから。
変化が訪れたのは、突然だった。それまで、何日、何十日、何百日、何年、何百年と、数えるのも忘れるほど永いこと、ここには変化が無かった。
只あるのは、体内に抱えたドロドロとした粘つく何かで、猛烈な怒りとも、憎しみとも、悲しみともつかない、淀み混ざったような感覚のみ。
そこに、針を指す様な極僅かな光が見えた。
いや、実際に見えたかはともかく、見えたような気がした。
隙間無く塞がれたこの地下の空間には、当然風など吹かない。空気の流れすら一切が遮断されているのだ。
そこに、外の匂いが流れ込む。本当に、極々僅かな匂いが。
『時は……近い……』
蜷局巻くそれは、首をもたげて起き上がろうとした。何百年と眠り続けた体は容易に動くものではなく、先ずは動こうと言う意思そのものを湧き起こさなくてはならなかったが。
『我が眠りの時は終わりだ……。流血が……鮮血が……迸る戦慄の種を撒こう。与えよう……人間に生きとし生けるものに……禍を厄災を……』
未だ動かぬ口の口角を心なしかニィと持ち上げソレは、ドロリとした感覚の微睡みと覚醒の間に意識を漂わせていた。
***
カーテンから射し込む朝の日差しに、目を覚ました。
……と、同時に感じる倦怠感。
なに……どうして、こんなにも体が重いの?
「目が覚めたんだね?エリーナ!」
ベッドの端からかかる声には、聞き覚えがあった。
「わたし……」
「心配したんだよ。二日も目を覚まさななったから、もう目覚めないんじゃ無いかと思って……。あぁ、でも本当に良かった。こうしてまた、目を覚ましたエリーナに会えて」
心底ほっとした声をあげるランディールは、今にも泣き出しそうなほどに顔をくしゃりと歪めて、微笑んだ。
二日、そんなに眠ってしまっていたのかと愕然とした。あの悪魔に襲われた時、本当のエリーナの魂は悪魔の手中に納まった。ここにいるのは、あの朽ちた家の有る名も無き墓に残された
それでも、私はエリーナの肉体を動かせている。まだ、レティシアとの繋がりが途切れていないからだ。まだ、耳飾りの効力が残っているから。
だけど、それも限界は近いはず。
「心配……かけちゃったわね。ごめんなさい、ランディール様」
ゆっくりとした動作で起き上がったエリーナは、自身の体に倦怠感以外の違和感がないか慎重に探った。
間接や筋肉の行使に問題は感じられない。けれど体は重いと感じるほどの倦怠感が伴っていた。きっとこれは、本物のエリーナの魂が抜けてしまった事による弊害ね。
正常に動かすためには、正式な肉体の主である魂が必要だ。それを一度は死した魂の私が宿っている。それも無理矢理に。その弊害が倦怠感なのだろうと、エリーナは解釈していた。
ランデールは、ベッドに腰を下ろしつつ起き上がろうとするエリーナを抱き起こした。
「本当に心配したんだよ。いったいあの夜、君の身に何が起きたというんだ?」
あの夜のことを、正直に話す?
いいえ、とんでもないわ。そんなこと出来るわけが、無いじゃない。
「悪魔……悪魔が現れたの。あの夜……レティシア様に命じられた悪魔が私を襲いに……。何とか撃退したけど、……こ、怖かった。怖かったよぅ……ランデール様ぁ……!!」
エリーナは、ランディールの胸に顔を埋め、「わあぁぁっ!!」と、無き崩れた。
自分が眠っている間に、エリーナが一人悪魔と対峙し、あれだけの傷を負って撃退したのだと。愛する女性の危機に、僅かも気付かずに眠っていた己をランディールは、呪いたい気分だった。
それでも、その元凶となるレティシアは、もうすぐ処断される。
ランディールは、王宮に残った騎士に命じたのだ。瘴気の森に未だ息づくレティシアの命を刈り取ってこいと。
その息の根を確実に仕留めてこいと。
「大丈夫。もう、大丈夫だエリーナ。君が眠っている間に騎士団を向かわせたからね。今度こそ、確実にレティシアの命を絶ってくるよ」
甘く、優しく囁くそれは、元婚約者を死地に追いやるだけに飽きたらず、確実にその命を絶つと言うもの。
安心させるように、エリーナの背中に廻った手は、軽くリズミカルにトントンと叩いていた。
「ほんと……本当に?ランディール様……」
「あぁ、本当だよエリーナ。だからもう、心配は要らない」
ランディールの言葉に安堵したエリーナは、ふわりとした微笑みを浮かべると再びその胸の中に顔を寄せていた。
「なら、もう安心ですね。私とランディール様。二人の幸せが、もすぐ訪れるわ……」
この先に訪れるであろう幸せな光景を脳裏に描いたエリーナは、うっとりと囁いた。
一日の終わり、世界を照らす太陽は最後の足掻きと言わんばかりに朱く空を染め上げる。そこにじわじわと紫紺が混ざり、紺へ紺碧ぺきへと移ろった。
その日の夕食時、小さな異変が訪れた。
カタンッと、テーブルに置かれたスープの深皿から、琥珀色の液体が白いテーブルクロスに染みを作ったのだ。溢れた量は皿の半分ほど。ツーと、伝い広がる液体はエリーナの直ぐそばまで迫ってきた。
「何してるのよ、しっかりして頂戴!」
「も、申し訳ございません」
ガチャンッ!!
「キャッ!」
配膳を担当する給侍の手から、取り分け様の皿が落下した。
床に落ちた皿は、見るも無惨に粉々と碎け散る。破片がエリーナの直ぐ側にまで飛び、下手をしていたら足を切っていたかも知れない。
「も、申し訳ございません……ど、どうかお許しを……!」
王宮勤務も永いであろう手慣れたはずの給侍が、常には無いミスを犯した。
「何しているのよ!気を付けなさいよね!!」
見上げて怒鳴ると、給侍の顔色が悪かった。体調が悪いのか、それとも今のミスによる罰への恐怖か、顔が青ざさせた。
「何なのよ?こんな簡単な事もろくに出来無いなんて、あなた達少し弛んでるんじゃないの!?」
常に無い給侍の失態。それでもエリーナは、聖女を演じていた。顔色の悪さだって、見ればわかる。これは、明らかに体調不良によるもの――――――だけど。
「もしも、破片が私に当たったらどうするのよ!?怪我したかもしれないのよ!?貴女そうしたらどう責任取るつもり!!?……ねぇ、黙ってないで何か答えなさいよ!!」
「も…申し訳ございません……」
給侍の女が肩を落として、蚊の鳴くような声で謝罪を言葉にする。
「そんな小さな声で、謝罪しているつもりなの!?全然貴女の誠意が伝わってこないし、そんな謝罪の言葉一つで償えるとでも思っているわけ?これだから、役立たずは困るわ!」
口を突いて出るのは激しい罵りで、立場が弱いとわかっている相手を罵倒する言葉ばかりだった。
頭にきたのだ。自分でも信じられないほどに、頭の芯から怒りが噴き出すように、勢いに任せた言葉が次から次へと溢れ出す。
これはいけない。頭ではわかっているつもり。私は聖女なのだから、聖女を演じているのだから、多少の失態には目を瞑り不調の者には気遣わなくては…………。
「貴女の顔など見たくないわ!ここから出ていきなさい!!そして二度と私の前に顔を出さないで!!良いわね!?」
止められないのだ。この怒りが、どうしようもない黒い怒りの炎が、私を飲み込んでいく。
「エリーナ?」
ランディールとの食事の席。給侍の女二人が立て続けの失態を犯した。
スープをテーブルに溢し、取り分け皿を床に落とした。常ならば、そんな事は起こらない。彼らは勤勉で優秀なのだから。
そして、あり得ないことに、今日の給侍達は皆顔色が悪い。誰を見ても青白く苦悶に耐える表情だ。平静を、正常を装おうとしているのが見て取れてしまうほどに、顔色が悪かった。
エリーナは、人を思いやれない様な女性ではない。それはランディールが一番良く分かっているつもりだった。
何時もの彼女なら、『気にしなくていいのよ。それよりも貴女の具合の方が心配ね。今日は早く休みなさい』とか言って、気遣いを見せるのに……。
目の前のエリーナは、鬼の形相だった。目が血走り、顔は歪められ、何時もの愛らしい顔が醜く見えた。
「エリーナ、少し言い過ぎだよ?どうしたんだい、何時もの君らしくもない……」
宥めるつもりで、優しげにエリーナに声をかけた。
「言い過ぎですって!?そんなこと有るものですか!私は聖女なのよ。聖女を傷付けるものは王国のいいえ、人間の敵だわ!!注意するだけでは、全然足りないのよ!!」
「それでも、今日の失敗は不調によるものだ。彼女達の具合の悪さは見てとれるだろう?」
「そんなの関係なないわ!それだからランディールは甘いのよ!生温いのよ!!だから何時までもレティシアを殺せてないんでしょ!?私が命じたのだから、しっかりレティシアの命を取ってきなさいよ!!」
ランディールには、その様子に急に嫌悪感を抱き始めた。これまでエリーナは、レティシアを恐れる素振りはあっても、ここまで明確に『命を取ってこい』とは今まで言ったことがない。それなのに、あからさまにレティシアの命に固執する。
その様子に、違和感を感じ始めた。と、同時に自分は今まで何をしてきたのかと、疑問を抱き始めた。
これ以上、エリーナと同じ空間に要ることが耐えられなくなった。
ガタ。
立ち上がったランディールの姿に、エリーナは平静を取り戻した。ランディールが、エリーナを見下ろして数瞬、何かを思案している顔付きになる。それがいやに、エリーナの不安を煽った。怒りの炎は徐々に弱まり終息の兆しをうかがわせていた。
「エリーナ、僕は部屋に戻るよ」
「ランディール……?え、ちょっと待って……?」
立ち上がったランディールは、それ以上の会話を重ねたくなくて、一人エリーナを残したまま部屋へと帰っていった。
さっさと立ち去るランディールの様子に、その顔付きにエリーナは、呆然とした。
ランディールは、エリーナにぞっこんだ。エリーナの魅惑の力で、心を操っていると言っても過言では無いほどに、彼はエリーナに心酔しているのだから。
けれど、食堂からの去り際のランディールの顔は、付き物が落ちたかのように強張り硬く青ざめた面持ちをしていた。
まさか……魅了の術が解けたの?
まさか、そんな馬鹿な。と、エリーナも黒い怒りから脱却し平静を取り戻す。平静を取り戻したというよりかは、新たな焦りと不安を抱き始めたと言う方が正しいのだが。
一人、執務室に足早に戻ったランディールは、混乱の中にあった。
僕は……僕は、何を……していた?
僕はエリーナを愛していた?
あの醜く給侍達を罵るあの女を愛していたのか?
本当に?
『だから何時までもレティシアを殺せてないんでしょ!?』
あの言葉が、耳にこびり付く。
レティシア・シュトーレン公爵令嬢。
二つ年上の兄、ジークベルトの想い人。それを知っていて、兄上が、留学で不在中に彼女を僕の婚約者に据えた。彼女は、柔らかな春の陽射しの様な微笑みを浮かべる少女で、心優しく慎ましやかで、凛とした淑女だった。
彼女は、僕の想いに応えて微笑み返してくれた。婚約が決まったとき、その後の顔合わせの席で華の綻ぶような微笑みを向けた彼女の顔が思い浮かんだ。
それなのに――――――。
――――僕は。
エリーナと、出会った。
――――裏切った。
エリーナに心奪われ、彼女を愛した。
――――彼女を。
エリーナだけが、僕の支え。僕の癒しだった。
――――レティシア・シュトーレン公爵令嬢を。
エリーナとの日々は、何もかもが輝いて、僕は心の底から幸福だと思っていたんだ。
――――貶めて、追放した。
そんなエリーナをレティシア嬢が、害した。憎い、憎くて憎くて仕方がなかった。
どかり……。
執務机の椅子に、崩れ落ちるようにランディールは、腰を沈めた。
「僕は……何をしていたんだ…………」
ランディールの心の中には二つの愛情と憎しみと猜疑心とが宿っていた。
レティシアに対しての愛情と憎しみ。
エリーナに対しての愛情と猜疑心。
それらは、ランディールを苦しめる。苦しめて悩ませる。彼の心は纏まりきらないバラバラな想いに、大きな混乱をきたしていた。
それから暫く、ランディールとエリーナは顔を会わせることは無かった。
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