そこまで

吉川 「それでペイで払おうと思ったんだけど、スマホの充電もあとわずかでさ」


藤村 「本当? 大変じゃない」


吉川 「結局なんとか払えたんだけど、マジであの時は焦ったよ。危うく無銭飲食になるところだったから」


藤村 「そうかそうか。辛かったんだな。そんな思いをしたらもう二度と食事なんてしたくないよな」


吉川 「いや、別にそこまでじゃないよ」


藤村 「わかってる。何も言うな。もう二度とお前を食事に誘ったりはしないから」


吉川 「わかってないだろ。そこまでの話じゃないんだよ。ちょっと小笑いで流すレベルのエピソードなんだから」


藤村 「強がんなくていって。実は俺も似たようなことがあってさ」


吉川 「財布忘れたこと?」


藤村 「いや、スマホの充電が切れそうになったこと」


吉川 「それはあるだろ。誰だってあるよ。特筆すべきエピソードにならないよ」


藤村 「あの時の絶望感といったらなかったよ」


吉川 「すごいピンチだったの? 出先で連絡しなきゃいけないとか?」


藤村 「いや、家で。なんか予定ないから油断してた」


吉川 「じゃあさほどピンチじゃないだろ。すぐ充電すればいい」


藤村 「したさ。でもさ、あの時の感覚を思い出すと今でも手が震えるんだ」


吉川 「スマホの充電が切れてたことで? それで手が震えるのは別に何かの原因があるんじゃないの?」


藤村 「もうあれがトラウマになって、未だにスマホの充電が98%になると耐えられない」


吉川 「全然ある。98%はもう100%と変わらないよ。というか、常に100%で維持するのバッテリーによくないから」


藤村 「お前も今は笑ってるけど、そんな思いを乗り越えてきたんだろ?」


吉川 「乗り越えるほどの高さはなかったな。普通に歩いてて超えてて。砂埃と同じくらいのハードル」


藤村 「それが公衆の面前でだろ? 俺だったらビビっておしっこチビッちゃうところだ」


吉川 「チビらないよ。焦りはしたけど、取り返しのつく程度の焦りだよ。おしっこチビッちゃったらそっちの方が大事だろ」


藤村 「そうだ。大事になったさ」


吉川 「チビッちゃったの? その実体験があるの?」


藤村 「最初は落ち込んだよ。そりゃもう、立ち直れないほど。だけど何度かチビり続けるうちにこのままじゃいけないなって気づいたんだ」


吉川 「何度もしたの? それより何度かしなきゃいけないって気づけなかった? 普通初手でいけないって気づくと思うが?」


藤村 「お前もわかるだろ?」


吉川 「いや? それに関しては全然わかってこない。なんでわかると思った?」


藤村 「俺はさ、強い人間でありたいと思うよ? 強くて正しい人間であるというのは価値がある。でもさ、自分の弱さを認めることも強さの一つじゃないのか?」


吉川 「どの話からその説教みたいな感じに接続してるの? 俺の何に対して意見してるの?」


藤村 「お前の辛さ、確かに当事者でない俺には完全に理解できるとは言わない。お前だって簡単に気持ちがわかるなんて言われたくはないだろうさ」


吉川 「別に? 財布忘れて焦ったんだけど、って話に関しては気持ちがわかるって言われても何も腹が立たない。だろ? って思うだけ」


藤村 「人ってのはさ、自分で自分に嘘をつくことがあるから。傷つきたくなくて、大したことじゃないと嘘をついてやり過ごすことがあるんだよ。でもそんな時こそ自分自身をきちんと見つめて、抱きしめてあげて欲しい」


吉川 「大事にしすぎだろ、なにもかもを。そんな話じゃないんだよ。俺は傷ついたなんて一言も言ってないよ」


藤村 「バカヤロー! まだわからないのかよ! お前自身がそれでいいと思っていても、未来のお前が公開することになるんだぞ」


吉川 「何を!? なんかすごい立派な意見を言ってくる風で振る舞ってるけど、そういうノリの話題じゃなくない? そもそもが」


藤村 「え、違うの?」


吉川 「違うよ。日常の一つのエピソードに過ぎないから。重く受け止めすぎないで」


藤村 「あちゃー、俺またやっちゃった?」


吉川 「普通に飯に行こうよ。全然トラウマとかじゃないから。もうさっきの話忘れていいから」


藤村 「そう? じゃお店行く前にコンビニで替えのパンツだけ買っていい?」


吉川 「やっちゃってんじゃん!」



暗転

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