読唇術

吉川 「読唇術ってあるじゃない?」


藤村 「心を読むやつ?」


吉川 「違う違う。唇の方」


藤村 「あー、読唇術。スパイとかがやるやつだ」


吉川 「あれを最近必死に修行してた」


藤村 「すごいな。このいくらでも楽しいことのある世の中で必死になったのが読唇術だなんて」


吉川 「ほぼ出来かけてると言ってもいい」


藤村 「本当? すごいじゃん。読唇術をほぼ出来かけてる人間に会ったことないもん。まぁ、自分から読唇術をほぼ出来かけてるか出来かけてないか教えてくれる人、この世界にはお前くらいしかいないか」


吉川 「ちょっとなにか言ってみてくれる?」


藤村 「声に出さずにってことね。OK。お前のやりたいことすべて把握した。じゃ、これ。………………」


吉川 「え? もう一回」


藤村 「………………」


吉川 「難しいな。もうちょっとわかると思ったんだけど」


藤村 「今のは『あれ? 声が遅れて聞こえるよ?』と言った」


吉川 「それ腹話術のやつじゃん。いっこく堂の! 腹話術のやつをやるのだけはダメだよ。読唇術キラーなんだから。読唇術というスキルに対するアンチスキルとして生み出さたのが腹話術なんだよ!」


藤村 「実は俺は俺で腹話術がほぼ出来かけてるんだ」


吉川 「タイミング合わせてほぼ出来かけるなよ! 俺が読唇術を見せる時間帯なんだよ。お前のコーナーにするなよ」


藤村 「出来かけた腹話術のやり場に困ってたからちょうどいいかなと思って」


吉川 「これからいくらでもあるよ、楽しい腹話術アワーは。ただ今だけは俺にチャンスをくれ」


藤村 「わかった。お前に賭ける。この僅かなチャンスを逃さないでくれ」


吉川 「別に僅かじゃなくてたっぷりくれてもいいんだよ? じゃあ、腹話術以外で喋って」


藤村 「そうなるとどうやってしゃべったらいいか俺の方もわからなくなるな」


吉川 「なんで? 普通に喋ってたじゃん。今まで腹話術してたことなかったでしょ」


藤村 「普通にって言われると、普通ってなんだろうって考えすぎてなにが普通だったかわからなくなるんだよ!」


吉川 「何でもいいからなにか言ってよ」


藤村 「なんでもいいとか普通とか、今までありふれていたものがまるで変わって見える。ひょっとしたら俺の求めていた幸せっていうのは初めから手元にあったのかもしれない」


吉川 「急に自分探しするなよ、このタイミングで。その件は求めてないんだよ」


藤村 「そんな簡単なことにも気づかなかっただなんて。世界中の人がその事に気づきさえすれば争いなんてなくなるというのに」


吉川 「目覚めなくていいんだよ。ただ読唇術の試し打ちをしたいだけなんだから。無意味な言葉でいいんだよ!」


藤村 「違うね。無意味なことなんてこの世には一つもない。失うことばかり恐れて、ないものねだりばかりして、でも本当に大切なのは無意味だと思っていた当たり前の日常だったんだよ」


吉川 「やかましい! もう他所でやってくれ! 別にお前の意識の高まりを促したわけじゃないんだよ!」


藤村 「全く俺ってやつは、今まで何も見えてなかった。その事に気づかせてくれたのは他でもないお前だよ。吉川、……」


吉川 「サンキュー! サンキューって言った! 読唇術でわかった! サンキューって、声を出さずに呟くキメ方がこの上なく気持ち悪い! 二度とやるな!」



暗転


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